丹女の死

田中光郎

 赤穂義士伝から“おしどり夫婦”をさがすなら、まず小野寺十内・丹を挙げるのが衆目の一致するところであろう。 ともに和歌をよくし、こまやかな情愛と優美な風雅で結ばれた夫婦の物語は、義に死んだ夫の後をおった妻の自害で幕を閉じる。死因については絶食説と自刃説とがあるが、自死であることについては、諸書ほぼ一致している。
 他人事のように言ってはすまない。私自身も「赤穂四十七士の人名録」という小さな記事(『元禄時代がわかる』)の中で、この逸話を紹介している。弁明させてもらえば「夫のあとを追って自害した、という悲劇も伝えられている」という表現で断定は避けたつもりではあるが、まあ読者は事実として受け取るであろう。
 丹女の自殺説はいつごろから唱えられたものだろうか。きちんと調査してはいないが、『忠誠後鑑録』(宝永4年自叙)或説に見られるのが早い例だろう。同書では自刃説を採っている。丹女の自殺を広めるのに力があったのが、伴蒿蹊『近世畸人伝』だと思われる。『畸人伝』の本文は絶食説により、自刃の可能性にも言及している。小野寺夫妻の往復書簡を収めた『涙襟集』も「本国寺ニテ自害」と書いている。

 ほとんどの論著が自殺説を採用する中で、少しくニュアンスを異にするのが森銑三氏である。岩波文庫の『畸人伝』を校訂した森氏は、「私の近世畸人伝」の副題を持つ『新橋の狸先生』を刊行しているが、その中に「小野寺秀和妻」の一編がある。いちおう絶食説を支持してはいるのだが、『見聞談叢』『浅野忠臣詩歌尽』によって丹が尼になったという説を紹介する筆致は、むしろ自死そのものを疑っているようだ。
 『見聞談叢』の記事には明らかな誤り(一挙後に十内母も生存)があり、単純には信用できないが、個人的に交際があったのに自害に触れられていないという点は注意しておいてよい。『浅野忠臣詩歌尽』は未見だが、「十内の妻は、せつふくの後あまになり」云々という記載はあながち捨てられないように思われる。もちろん信憑性の高い史料という訳ではないが、翻って自殺説の根拠を考えてみると、これもまたさほど強力なものは見あたらない。

 それでは丹女の死についてもっと信頼できる史料はないのだろうか。
 『未刊新集赤穂義士史料』には桜井角右衛門妻にあてた2通の貞立書状を収めている。ともに元禄16年のものと思われる4月20日付けと8月17日付けの書状には、このころの遺族の消息が記されている。念のために補足しておくと、貞立は小野寺十内の姉であり、大高源五・小野寺幸右衛門の母にあたる。桜井角右衛門の妻が貞立・十内の従妹にあたり、一族でかなり親しくしていたようである。
 4月の書状によれば、貞立は源五の乳母を頼って赤穂におり、花岳寺・遠林寺が面倒を見てくれている。「十内ごけハそのまゝきやうにおり申候」とあるのに続け、京からは「のぼれのぼれ」と言ってくると書いている。このころの丹は義姉の貞立に上京を勧めているので、自殺の意志がありそうには思えない。なお、貞立はほぼ同じ趣旨を大石未亡人りくにも書き送っている(『赤穂義士史料』下)。
 そして8月の書状である。これにも一類の動静があれこれ伝えられている。貞立の生活不安や孤独感も興味深いが、当面は措いておこう。ここでの問題は「十内御しんぞもはるよりわづらい六月十八日ニはて申候。四十五ニて候。おしき事ニて候」という記載である。これによれば丹の死が病死であることは明白である。6月18日という死亡日は墓誌と一致しており、疑う理由はないように思われる。

 小野寺十内の妻・丹女は病死だったというのが、本稿の結論である。自殺でなく病死だったところで、この夫婦の愛情がいささかも損なわれる訳ではない。丹女の控えめな人柄にはむしろ似つかわしいように思われる。
 蛇足ながら、自殺説の生まれた理由を想像してみる。尼になって夫・子の菩提を弔おうとした丹女であるが、悲しみは深くほどなく床についた。食が進まないので、看病の者が「無理にも召し上がりませんと」と勧めても、「長生きしても仕方ありませんもの」などと言ってほとんど食べない。ある時は「つまや子の・・・」の歌を示し、「そんなことをおっしゃっちゃあいけませんよ」などとたしなめられ、やがて衰弱してみまかる。「あれは後追い自殺のようなものでしたね」と看病者が涙ながらに回想した。その話がいろいろな形で伝わったために、絶食説や自刃説が流布したのではないだろうか。