原田角之丞・潮田作右衛門・斎藤鉄五郎
潮田又之丞の周辺

田中光郎

はじめに

 先般「ろんがいび・読者のページ」に潮田又之丞について教えてほしいという書き込みがあった。あまりお答えできるような情報はなかったのだが、ちょっと『大石家外戚枝葉伝』(以下『枝葉伝』)を調べてみるといくつか興味深い記事に出会ったので、御預け中に又之丞の作成した「親類書」などを参照しつつ、簡単に紹介しておこうと思う。

(1)原田角之丞

 原田角之丞は、潮田又之丞の外祖父である。その妻が進藤利英の娘・世牟(せん)だったので、『枝葉伝』進藤氏のなかに角之丞の伝が見える(p45)。原田角之丞は土佐・長曽我部氏の譜代の臣だった。大坂冬の陣では藤堂高虎の臣・小林伊豆に従って戦ったが、夏の陣では旧主・長曽我部氏について籠城軍に加わった。なかなかの豪傑だったらしく、首級1つを得たほか、城中に引き上げるのに攻囲軍の木戸を打ち破り、落ちていた弾薬箱一つを引っ担いで帰ってくるという活躍ぶり。この話を利英から聞いた大石内蔵助良勝(良雄の実曾祖父)・八郎兵衛信云の兄弟が、主君・浅野長直に推薦し、長直は寛永14年(1637)に500石で足軽頭として召し抱えた。

 原文は元親に作るが、盛親でなければならない。藤堂家臣・小林伊豆は小森の誤りかと思われるが、小森伊豆定勝が藤堂家に仕えたのは大坂陣後なので、これも合わない。もちろん、記述の全体を否定する理由にはならないが、不正確なものであることは覚悟しておく必要がある。

 進藤利英の娘・世牟と結婚したのはその5・6年後だという。この利英もかなりの曲者。近衛信尹に仕えていたが、茶を差し上げたときにご機嫌を損じて逆ギレ、「いつまでも公家に仕えておれるか、面倒だ」と言い捨てて出奔したという。名を杉野猪右衛門と改め、堀親良・松平定綱などに仕えた。利英の姉(実は近衛前久の落胤だという)が大石久右衛門良信の妻、すなわち良勝・信云兄弟にとって利英は叔父にあたり、良勝が浅野家に仕えたのが利英の世話だという説もある。
 ちなみに、利英の妹が戸田氏鉄の臣・山田彦大夫の妻になり、その子が杉野平左衛門を名乗って浅野長直に仕えた。その子がすなわち杉野十平次だという。十平次は、大石内蔵助の遠縁にあたる見当である。

 彼が世牟を娶ったのは、大坂陣から30年近くも経ってからのことであるから、決して若くはない。角之丞には24人の子があったと言うが、世牟の産んだ子が何人あるかは不明。『枝葉伝』に記載のあるのは、24人のうちの5人だけである。女子4人は原田三右衛門、河村源助、白井平六そして潮田作右衛門に嫁し、残る男子が原田猪右衛門(杏庵)である。このうち原田妻には「先腹」河村妻には「別腹」とあるので、残り3人が世牟の子かも知れないが、証拠は不十分である。「親類書」には外祖母の父の名を記していない。河村・潮田・白井は赤穂藩士である。河村源助は伝兵衛の一族(あるいは本人かも知れない)と思われるが、「親類書」に河村家との関係は記されない。
 猪右衛門が鳥取に行き医師になっているという『枝葉伝』の記載は、松平壱岐守(鳥取の分家・池田仲澄)内の伯父・原田杏庵の名を挙げる「親類書」と一致している。『枝葉伝』には、角之丞の跡を嗣いだ原田猪右衛門が「生質愚ニシテ、赤穂ヲ逐電シ」たとあるが、それ以前に浪人していたという「親類書」を採るべきであろう。

 角之丞の死について「親類書」には「三拾年以前病死仕候」とある。30年前は延宝元年(1673)にあたるのだが、潮田の「親類書」没年記載は「拾年以前」とか「四拾年以前」と切りのいいものが多く、あまり正確ではなさそうだ。享年も不明であるが、大活躍した大坂陣から60年近く生きた訳だから、年齢に不足はなかったであろう。

(2)潮田作右衛門と妻・自性

 潮田又之丞の外祖父・原田角之丞も豪傑だが、もうひとりの祖父・潮田作右衛門もまた剛の者である(『枝葉伝』p45、p135)。こちらは関東武士で、浅野長重が真壁の領主だったころ、浅野家の家老・藤井又左衛門(3500石)の家老で200石を取っており、関ヶ原・大坂陣で活躍した。その後、又左衛門が病死し、子息の又左衛門が家督を継いだものの500石と大幅削減された(何代目かに当たるであろう長矩刃傷事件の時の又左衛門は800石だった)。長重は、陪臣だった作右衛門を200石で召し抱えたのである。
 その子・二代目の作右衛門が原田角之丞の娘を娶った。大石八郎兵衛信云(道雲)組に属したという以外、逸話らしいものは残ってはいない。隠居・剃髪して道是と名乗っていた。元禄14年1月7日に亡くなっている。「親類書」には「三年以前病死」とあり、計算が合わないようだが、おそらく三回忌にあたるという意識でこう書いたのであろう。

 二代目作右衛門の妻がすなわち原田角之丞の娘である。『枝葉伝』には名を載せておらず、法号が直正院本清自性だということがわかるだけである。なお、15年12月の又之丞の書置(『赤穂義士史料』下p209)は「しんせう院」宛になっているので、真正院が正しいかも知れない。いわゆる生前戒名であるが、夫・道是が剃髪したときにともども受けたのか、道是が死んでから出家したのか不明である。以下、便宜上彼女のことを自性と呼んでおく。
 二代目作右衛門と自性の間に生まれた子が潮田又之丞高教である。姉と妹があり(母が自性かどうかは確認できないが、否定する根拠もない)、姉は播州加西郡の百姓・渡部与左衛門に、妹は岡山池田家中・伊木将監家来神定兵衛に嫁いでいた。『枝葉伝』には与左衛門は自性の弟とするが、万葉の頃ならともかく叔父との結婚はあるまい。ただし、与左衛門の方も代を重ねていて従兄ということならありそうな話ではある。

 潮田又之丞は、浅野家中・小山源五左衛門良師の娘由布を娶り、四人の子をもうけた。長男の藤之助は元禄13年頃主君へ初御目見をすませた(早水藤左衛門宛堀部安兵衛書状『赤穂義士史料』下p55)。次女の名は節。長女の貝と次男の三次郎は早世したが、二人は無事成長していた。
 そこそこ幸せに暮らしていたであろう自性にとって、元禄14年は厄年であった。正月に夫の道是・作右衛門が亡くなり、3月には主家滅亡という運命にさらされる。大石内蔵助に従って吉良を討つ一味に加わった又之丞は、家族を播磨国加西郡北条村の百姓・渡部与左衛門方すなわち姉のところに預けたらしい。この一件で又之丞が江戸にいっている間、11月8日に藤之助が北条で亡くなっている。享年わずかに8歳。
 元禄15年には、小山源五左衛門が脱盟したために、嫁の由布を離縁する。この時も又之丞は戻らず、自性が扱ったようだ(上掲書置)。由布はその後名を源と改め芸州藩士御牧三左衛門(武大夫)に嫁すことになる。百姓ながら一挙に理解のある与左衛門に母と娘を預けた又之丞は、吉良を討つことに成功し、翌元禄16年に切腹する。自性は又之丞の死後1年半、宝永元年(1704)9月に世を去った。彼女の心のうちはどうだったろう。豪傑・原田角之丞の娘である。息子の死は誇りこそすれ悲しまなかったかも知れないが、孫娘・節の行く末は気がかりだったに違いない。
 節は無事に成長し、姫路・榊原家臣の竹尾平右衛門君光に嫁いだ。泉下の自性も満足していたことだろう。

(3)斎藤鉄五郎

 『枝葉伝』をもとにした潮田又之丞の身辺調査はこんなところなのだが、調べている最中で気づいたことがあったので、追加しておく。
 母宛の書置に「きゆうあんいん様へも鉄五郎殿へもゑんりよゆへつゐに申通し不申」云々とある。この鉄五郎は「親類書」の斎藤鉄五郎。「大久保玄蕃頭様御支配と覚申候」とあるから、幕臣であろう。ということで『寛政重修諸家譜』を調べてみると、斎藤銕五郎利由の名を発見できる(刊本21のp145)。小普請だから留守居の大久保玄蕃頭支配で辻褄は合っている。父・利政も銕五郎といい、その父は斎藤主計利明だが、はじめは潮田氏で、斎藤佐渡守利宗の娘を妻として斎藤を称したとある。
 利政は元禄12年に亡くなっているから、又之丞の書いている「鉄五郎」は、利由のはずである。ただし、彼が「従弟」だとすると、関係図を書きづらい。はじめて斎藤を称した斎藤主計は、年代的には初代作右衛門に近いはずで、この二人が兄弟だとすれば、又之丞と鉄五郎は再従兄弟になる。
 斎藤利宗は、明智光秀配下の勇将・斎藤利三の子で、加藤清正に仕え加藤家改易の後は牢人していた。寛永6年家光に召し出された時に常陸真壁郡に5000石を賜っている。主君について笠間に移った潮田作右衛門の一族で、真壁に残留していた者があれば、接触の機会はあった訳である。また、娘を家臣・斎藤主計利明の妻としていることも確認できる(『寛政譜』13のp151)。おおよそ平仄は合っているが、なお情報を集めたいところである。