大きなる兵法
武蔵・宗矩関係の一側面

田中光郎

 宮本武蔵『五輪書』に「大きなる兵法」という語が出てくる。同じ意味で「多分の兵法」「大分の兵法」という言い方もされる。「ちいさき兵法」「一分の兵法」に対する語で、「ちいさき兵法」が撃剣術を指すのに対し、「大きなる兵法」は戦争術を指す。
 『五輪書』はもちろん「ちいさき兵法」についての書物であって、「大きなる兵法」に直接触れる訳ではない。「わが一流の兵法に、一人も万人もおなじ事にして」云々とあるように、剣術の理をもって戦争が可能だというにとどまるのである。柳生宗矩『兵法家伝書』にも「ちいさき兵法」「大なる兵法」という表現があり、ほぼ共通の認識であることもよく知られている。
 ところで、『五輪書』と『兵法家伝書』にこういうよく似た言辞が現れるのは、単なる偶然であろうか。

 撃剣術と戦争術が一理であるという認識は、例えば『甲陽軍鑑』に「夫軍法は兵法也」(品第四十一)云々とあり、決して珍しいものではない。従って、こうした認識を武蔵・宗矩がそれぞれ別に持ったとしても、不思議ではない。しかし、『甲陽軍鑑』では「軍法」=戦争術、「兵法」=撃剣術という使い分けは明瞭である。中国の古典では「兵法」は戦争術を指すが、我が国の近世前期、元禄年間までは「兵法」はもっぱら剣術の意で用いられており、戦争術を含めるのは例外といってよい。
 兵学史で「兵法」を撃剣術でなく戦争術の意で用いたのは、北条氏長『兵法雌鑑』(寛永12=1635)が最初だと考えられる。師にあたる小幡景憲も、そのころまでは「軍法」の語を用いていたが、寛永期以降は「兵法」を使うようになる。これは『兵法家伝書』の完成(寛永9)とほぼ同時期である。
 「兵法」をもっぱら撃剣術の意にとる通俗的な用法に対し、戦争術の意にとる用法が寛永中期に登場している。ただし、それが一般的になるにはまだ100年近くを要するのであり、かなり限られた範囲でしか使われない。厳密な立証は困難だが、「兵法」=戦争術というのは家光周辺の流行であった可能性が高い。もっと言うなら、家光の要望により漢学・兵学・剣術にまたがる用語が統一されていった状況が想定されるのである。

 そうだとすると、なぜ武蔵がこの流行に対応できたか、という疑問が出てくる。これについては、細川忠利の存在が与ると考えられる。忠利は寛永14年に『兵法家伝書』の伝授を受けているが、寛永17年に宮本武蔵を招いた。武蔵は忠利の求めに応じて『兵法三十五箇条』を著すことになるが、同書に「大分の兵法/一身の兵法」という表現で、同じ認識が示される。これに先立つ『兵法書付』(寛永15、魚住孝至『宮本武蔵』所収)にはこういう文言はない。『兵法三十五箇条』が初出だとすれば、忠利から示唆を受けた可能性は高いであろう。この部分については『兵法家伝書』の影響下にあると推定できるのである。
 念のため言っておくと、『五輪書』における「大きなる兵法」の位置は決して重要なものではなく、これが『兵法家伝書』の影響下にあるとしても、武蔵のオリジナリティをいささかも傷つけるものではない*。ただ、こういう武芸の理論化が将軍・大名といった上級武士との交流の中で成されたものであることは、意識しておいた方がよいと思うのである。

 「心術や技法の要諦については・・・共通点が多い」(今村嘉雄『定本大和柳生一族』p320)とされている部分について、影響の如何を検証する手続きは必要だろう。

 吉川英治の小説『宮本武蔵』では、武蔵の心の師として沢庵が活躍する。これはもちろんフィクションであるが、宗矩による理論化に沢庵が関与していることは確かだから、間接的には影響を与えていると言える訳である。同じ小説の後半に沢庵、北条安房守、宗矩、武蔵が一堂に会する場面がある。江戸前期に、こうした人々により武芸の理論的整理が進められたことを示すものと言えよう。そうした時代の雰囲気をとらえたのが、小説家・吉川の史眼である。そこに描かれた武蔵は、それを体現した象徴であって、もはや実在した肉体ではない。その実相を明らかにするのは、小説家ではなく、歴史家の務めであろう。