武林唯七における「世間」の論理

田中光郎

(1)はじめに

 山本博文氏の『武士と世間』は刺激的な著作で、いろいろな問題意識を喚起してくれる。同書で取り上げられた武林唯七の書状も興味深いので、少し考えてみたい。
 当該の書状は、元禄15年閏8月11日に兄・渡辺半右衛門に宛てて書かれたもので、『赤穂義士史料』に収められている。唯七の祖父は明の杭州・武林の人・孟二寛で、日本に来て*渡辺氏を娶り渡辺治庵と称した。その子が赤穂浅野家に仕えて20石5人扶持**の中小姓・渡辺平右衛門。長男の半右衛門は部屋住であるが、次男の唯七は別家・武林家を立て10両3人扶持を頂戴していた。(斎藤茂『赤穂義士実纂』などによる)
 唯七は浅野長矩刃傷事件当時江戸にあったが、いちはやく赤穂に戻り大石一党に加盟、以後いわゆる上方急進派として活躍する。半右衛門の動静はよくわからないが、『堀部金丸筆記』の同志リストに渡辺半右衛門の名が記されているから、病気の父にかわって参加していたものと考えられる。
 浅野大学左遷の報を受けて、いよいよ一挙のために江戸に下向することになる。しかし唯七には気がかりなことがあった。父母の病気である。そこで、唯七は兄・半右衛門に対し、一挙には加わらず父母の面倒を見るように依頼する。それが、この書状である。

朝鮮陣の際の捕虜という説と漂流者という説があるが、年齢的に見て後の方が妥当だろう。
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斎藤氏は7石2人扶持に作るが、分限帳に従っておく。

(2)武林唯七の書状

源五方へ御状拝見仕候。先以平右衛門様御気分段々重り、御目も御見江不被成、御元気も御つかれ、とかく今度ハ御本服難被成候段承、一入気毒千万奉存候。此方一義も最早近々ニ罷成候得ハ、なんとも了簡仕りたく御座候。御見廻に下り可然存候得とも、山科より用事申付候故、今十一日出足仕候。母人様御病人と申、跡之義如何成候哉と、是而已死後のさわりと存候。とかく内蔵介ニも来月御立も相見候間、随分其元緩々御片付可然存候。

 この頃唯七は京都にあったと思われる。赤穂の半右衛門は京の大高源五に書状を送り、それを唯七が読んでの返事という形である。半右衛門の書状に父・平右衛門の病状が書かれてあり「御本服難被成候」と聞いて、心を痛めている。が、こちらの一義(要するに討ち入り決行)も近づいている。大石の指示で本日(閏8月11日)出発する。母も病気なので、これのみが気がかり(死後之さわり)である。大石も来月には出立するので、ゆるゆるとお片づけになるのがよろしかろう、という。さて、ここからが本題。

拙者願ニハ、貴様御事ハ未御奉公も不被成事ニ候間、今度之儀御留り被成候而、平右衛門様御死去被成候ハゝ、母人様御壱人之事ニ候間、丹右衛門方江御預ケ、諸道具等売払不残金御つけ可然、おなつ義ハなり合ニ被成奉公成共致せ、其上ニ而拙者とも死後御考合被成候儀本意存候。

 兄・半右衛門はまだ出仕もしていないことゆえ、一挙への参加を思いとどまってほしい、というのである。父・平右衛門が死んだら、母を丹右衛門*に、家財道具を売り払った代金をつけて、預けるように、という。おなつは不詳である。妹でもあろうかと思われるが、親類書にそれらしい人物は見えない。成り行き任せで奉公でもさせれば、というのだから、唯七もそれほど気にはしていないらしい。要するに、討ち入りに参加せずに親の面倒をみてほしい、というのが唯七の願いである。

伯父、すなわち母の兄であろう。唯七の親類書には浅野内匠浪人・北川伝右衛門とあるが、分限帳には見えず、かわりに北川丹右衛門(7両3人扶持)がいる。この後改名したものであろう。
兄弟之内壱人ハ孝之為ニ残、始末見届之義宜敷奉存候。それとも御心ニ叶不申候ハゝ、御心ニ懸リ之儀無之様ニ被成置、御切腹被成候ハゝ、御同志同前と奉存候。

 兄弟のうち一人は孝のために残る、というのは理解できる。しかし、それが心に叶わないのなら、後の心配のないように処理をしたあとで切腹すれば同志も同じ事だ、という理屈はどうだろう。自分でそういう意識を持つのはよいが、それを他者に要求するというのは、身勝手なように思われる。

私残候而看病相勤申度存候得とも、私儀ハ少年之時分より御奉公仕候者ニ御座候ヘハ、御重恩と申者ニ御座候。此段もとくと御了簡被成、

 さすがに気が引けたのか、言い訳がはいる。出仕していない兄と違い、自分は少年のころから奉公した、重恩を受けた者であるから・・・。しかし、これも身勝手ではないか。兄として、渡辺家の家督として、半右衛門が参加すべきであるという理屈だって当然成立する。

平右衛門様御死去被成共、母人様壱人捨置、兄弟とも忠死仕候而も、世間之「忠義ハ相立候ヘ共不孝者」と申所御座候得ハ、せめて母人様御病気ニ無之候ヘハ不苦候得共、明日をもしれぬ御老人を見捨候而ハ、世間之沙汰是非不孝ニ落合、若シ御本服ニ至候得ハ論も無之候得共、無左モ候而ハ、是非ヽヽ思召被留候段、道ニ叶候様、乍憚奉存、

 父・平右衛門が死んだとしても、母一人を捨て置いて兄弟とも忠死したのでは、世間から「忠義は立てたが不孝」という批判を受ける。せめて母が病気でなかったらよいのだが、明日をも知れぬ老人を見捨てたのでは、世間の評判は不孝に決まる。本復すればよいのだが、そうでなければ是非とも思いとどまるのが道に叶うことだ。という風に理解しておく。
 ここの解釈は、山本博文氏とは若干異なることになる。山本氏は「世間之忠義」という概念(通り一遍の忠義というニュアンスがある)でとらえ、「一通りの忠義は立つが、それでは不孝になる」という意味だという。後で出てくるように天下に罪を得る可能性もあった行為を、通り一遍と表現するのは考えづらい。文法的には「世間の・・・と申所」と捉えた方がよいだろう。ここの文章は、畳みかけて断念を迫るものであると思われる。

扨々、今度平右衛門様御病気、偏ニヽヽ 拙者共兄弟因果千万成義不過之候。それとも未余程日数も懸り九・十月ニ成可申候間、其内宜敷御了簡可被遊候。平右衛門様儀、未御存命ニも御座候ハゝ、此段宜被仰上可被下候。母人様江ハ御気之不落候様可被仰上候。恐惶謹言。

 9・10月頃までに考えておいてくれとは言いながら、唯七の結論は出ているのである。だから、追伸部分はこうなる。

尚々、申上候通、丹右衛門方へ御預ケ、又ハ如何様共御心懸りなき様ニ被成、拙者共死を御聞被成候上、御切腹可然奉存候。若し死後公儀より御咎メ御座候ハゝ、其時母人様をも御さしころし被成可然奉存、よくヽヽ御了簡可被遊候。

 丹右衛門に預けるなど遺漏なく処理した後で、一同の死を聞いたら切腹してくれ、という最前の提案を繰り返している。さらに驚くべきは、公儀よりお咎めがあったら母を刺殺してくれという依頼である。
 吉良を討ったために親類まで処罰される可能性があるという認識は、たとえば大高源五が母に宛てた有名な書状(15年9月5日)にも見られる。もっとも源五は、母に対して決して早まって自害などしないようにと念を押している。このあたりは二人の個性の違いということだろう。唯七の覚悟は悲壮なものであるが、孝という観点から見た場合は如何なものか。私には源五の方が親孝行に思われる。

(3)説得の論理としての「世間」

 もっとも、それは唯七が不孝であることを意味しない。自分たちの死を聞いた上で切腹せよとか、公儀から咎めがあったら母を刺し殺せ、というのは、必ずしも唯七の本心ではないだろう。そうでも言わなければ兄が断念しづらいではないか。討ち入りに参加しないでも、決して命を惜しんだわけではない、という言い訳ができなければ半右衛門の武士はすたる。これなら兄の武士も立つでしょうという、説得のための言辞だと考えられる。
 親を見捨てて兄弟ともに死んだら、世間は「忠は立ったが不孝だ」というだろう、と唯七はいう。客観的に見てどうだろう。いわゆる義士伝では子を励ますために自害する母の話がいくつか伝えられる。もとより伝説の世界ではあるのだが、「世間」の認識ではこうした「大義親を滅す」の類は美談なのだ。武林兄弟がそろって討ち入ったとしても、おそらく非難する者はないだろう。実は半右衛門に断念させたいのは、「世間」ではなくて唯七なのだ。「是而已死後のさわり」と言っているのは本心である。後顧の憂えなく討ち入りたい。そのためには兄・半右衛門が残ってくれるのが一番である。ただし、それはいささか身勝手な願いである。その身勝手な要求を正当化するために、「世間」が引き合いに出される。
 唯七の主張は「親を見捨てては不孝になる」ではなくて「親を見捨てては不孝だと言われる」ということである。山本氏風に言うなら兄に「世間の孝行」を要求しているのである。内心から出る当為は、おそらく「親を見捨ててでも討ち入れ」というもので、少なくとも唯七の内なる声はそう命じているだろう。兄の内心も同様である。そこで、唯七は「世間」の応援を借りるのである。「世間」が実際にどう批判するかは二の次で、とにかく兄を説得する手段として「世間」の論理が用いられているのだ。

 「世間」を説得の論理として使うのは、唯七ばかりではない。たとえば、堀部安兵衛ら3人が大石の江戸下向を促す書状(元禄14年8月19日付、『堀部武庸筆記』所収)には「私共所存之通、又は世のおもはく」を書き立てている。「世のおもはく」によって「私共所存」を補強する。こういう論法をとるのは、一般的には「世間」の声が説得力を持つからに他ならない。
 もっとも大石の反応は「私を捨て根元を見候得ば、世間之批判差て貪着可申とは不存」(10月5日付、同書)というものだった。大石が「世間」を無視したというよりは、堀部のレトリックを見抜き、うかと乗らなかったというべきであろう。「私を捨て」というところに真骨頂がある。自己の精神の中に公理がある場合には、「世間」による正当化は必要ないのである。
 もっとも堀部安兵衛や武林唯七の提示する「世間」は、それぞれの“交際の範囲”(阿部謹也『「世間」の構造』)を超えた、「社会」に近い概念だと思われる。近世の武士と「世間」の関係は、一筋縄ではいきそうにない。その全面的検討は、もちろん今の私の手に余る課題である。