『土芥寇讎記』の浅野長矩評について

田中光郎

(1)はじめに

 松の廊下刃傷事件の原因は、いまだに明確になっていない。そのため、色々な史料を根拠に、様々な説が唱えられている。そうした議論の中で、浅野長矩の人物如何が問題になることがあり、その際にしばしば『土芥寇讎記』が引かれている。『土芥寇讎記』は元禄3年頃、幕府中枢部に近いところで成立した、諸大名の調査報告書である。金井円氏の校訂で昭和42年に翻刻されており、元禄期の幕藩制のあり方を示す重要な史料として高く評価されている。
 ただし、個別の大名(この場合、浅野長矩)の人となりを知る材料として用いるには、問題も多い。全面的に否定する訳ではないが、慎重な取り扱いを要すると考えられるので、検討しておくことも無意味ではないだろう。

(2)『土芥寇讎記』の長矩評

 『土芥寇讎記』の記載項目については上記刊本の解説に詳しいが、念のため確認しておく。姓名、略歴、家系、所領概況、家老名。以上のいわば客観的なデータにくわえ、人物評、そして最後に「謳歌評説」という論評が付される。人物評と「謳歌評説」が別人の手になることは明らかである。以下、区別のためにそれぞれの筆者を「評者」と「謳歌」と呼ぶことにしよう。「評者」は浅野長矩をどう書いているか。

長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。

 必ずしも悪くばかりは言っていないが、難点は女色である。そこからいろいろな問題も派生しているようだ。これについて「謳歌」はこう書く。

此将ノ行跡、本文ニ不載。文武之沙汰モナシ。故ニ無評。唯女色ニ耽ルノ難而已ヲ揚タリ。淫乱無道ハ傾国・家滅ノ瑞相、敬ズンバアルベカラズ。・・・次、家老ノ仕置モ無心許、若年ノ主君、色ニ耽ルヲ不諫程ノ不忠ノ臣ノ政道無覚束。

 基本的には情報不足であり、論評できないと言っている。ただ、女色に耽っているという情報によって、これを批判しているのである。

 女色に耽ったと言うが、実子がなく弟を継嗣にしたところから考えても、あまり信憑性はない。「評者」の情報は信用してよいか。ちょっと他のところを見てみる。たとえば甲府綱豊について、「評者」は「文武之御沙汰ナシ」という。これに対して「謳歌」は「文道武法ヲ御学ビ之沙汰ナキハ、御誤トモ可申ニヤ」とした上で、「本文之説虚実ヲ不知」といい、「儒者ヲ召シ毎度講釈セサセ御学問有リ」という説を紹介したうえで、「本文之説ハ悉ク虚ト聞フ」としている。元禄3年では新井白石を登用する以前であるが、それにしても後の6代将軍・家宣が学問をしていないというのは嘘くさい。後述の通り「謳歌」は徳川一族に甘いのだが、それを割り引いても、「謳歌」の情報の方が正しいだろう。たまたま綱豊については「謳歌」が別情報を持っていたわけだが、長矩についてはそういうチェックが入れられていない。長矩の好色を一概に否定はしないまでも、傍証なしに飛びつくのは問題があろう。

(3)『諫懲後正』の長矩評

 『土芥寇讎記』解説は、同様の性格をもつ諸書について記している。中でも元禄14年頃に成立した『諫懲後正』については、浅野長矩の部分を引用しているので、大いに参考になる。これも同様に2段階の人物評が付けられている。便宜上「評者」と「愚評」としておこう。まず「評者」である。

長矩、文道ヲ不学、武道ヲ好ム。生得小気ニシテ律儀ナリ。尤淳直ニシテ、非義ナシ。家士・民間ヲ憐ムト云ニハ非ズ。国家ノ政道厳シク、仁愛ノ気味ナシ。不奢シテ民ヲ貪リ、軍学儒道ヲ心掛アリ。公勤ヲ不怠、世間ノ出合専ラニテ、其気質ハタバリナク、智恵ナク、短慮ニシテ、行跡宜シト云々。

これも、全体として悪評というほどではない。気が小さい律儀者で「淳直」というのだから、殿様としては吝嗇(奢らずして民を貪り)で寛容さに欠ける(政道厳しく仁愛の気味なし)かも知れないが、まずまず平凡な人物像である。勤務態度は良好で(公勤を怠らず)人付き合いもよく(世間の出合い専ら)威張らず(気質ハタバリナク)、優秀ではないまでも悪くはない。

 「愚評」の方も、専らこの情報に依拠している。

凡主将ノ可嗜ハ文道ナリ。文ナキ将必ズ所行ニ付テ疎カルベシ。況ヤ、此将文道ナク、智恵ナク、気ノハタバリナク、小気ニシテ律儀ナリト云ヘドモ、短慮ナレバ、後々所行ノ程覚束ナシトナリ。去ドモ長矩、淳直ニシテ、行跡不義ナク、不奢、公勤ヲ重ジ、世間ノ出合宜シクセラレルトナラバ、悪キニ非ズ。先年奥方ノ下女ニ付テ、少々非道ノ沙汰有之、其比専ラ世間ノ唱ヘ不宜、既ニ此家危キ事ナリト批判セシカドモ、何ンナク事治リヌ。元来長矩仁政少キ故、民ヲ貪リ、所行ニモ少々不宜アリシ歟ト云ヘリ。然レバ、此将行末トテモ覚束ナシトナリ。・・・

 行く末が覚束ないというのは、松の廊下を予見していたようで出来過ぎの感もある。刃傷事件後に手を加えられた可能性もないではないが、この際どちらでもよいだろう。
 注意しておきたいのは、奥方の下女について「少々非道の沙汰」があったという件である。これは、「赤穂義士史料館」の「赤穂浅野藩年譜」貞享4年6月にある放火事件を指すものと考えられる。佐藤館長から『冷公君伝記』の本文を教えていただいたが、それによれば事情は次のようであった。
 貞享4年6月5日、屋敷の女中部屋の屋根へ放火した者があった。調べたところ、奥方の使っている女中の下女2人が怪しいと拷問にかけ、放火を認めたので斬罪とした。それぞれの保証人のところに連絡したところ、一方は納得したが、もう一名の親が「奉公人でなく当分女中に雇われていただけである。何の罪で御成敗になったものかお断りもあるべきはず」と町奉行所に訴えた。そこで浅野家からも町奉行・北条安房守(氏平)に事情を話したところ、5年前から「付火之者ハ御手仕置ニ不被成、公儀へ被仰達筈ニ付、御差図難被成」と言われた(この布令は『御触書寛保集成』1462号に見える)。奉公人であっても放火犯を勝手に処罰したのは幕令違反だったわけで、老中・大久保加賀守忠朝に事情を説明に行った。参勤交代で帰国する予定を延期して、屋敷内物静かに、国元も諸事穏便に、と緊張する事態になった。結局何事もなく無事に帰国できたのは「既ニ此家危キ事ナリト批判セシカドモ、何ンナク事治リヌ」とある通りである。

 『諫懲後正』の人物評は『土芥寇讎記』と一致しない。『土芥寇讎記』は政治面は褒めて女色を批判している。『諫懲後正』は好色は取り上げず、政治の厳しさを問題にしている。もちろん10年あまりの歳月がたっているのではあるが、本人が変化したためというよりは、そもそもの情報がいい加減なことによると考えた方がよいだろう。民政の様子などは現地で調査した可能性が高く、いわゆる隠密が情報収集していたかも知れない。しかし、そうだとしても情報源は噂程度のものだと考えられ、大名の行状などは過度に信用しない方がよさそうである。
 食い違っている『土芥寇讎記』と『諫懲後正』とを比較すれば、いくらか後者の方がよさそうではある。小心で厳しく公勤熱心というあたりは、『沾徳随筆』にあった「性質迫なる人」と共通している。下女一件も、その流れで理解することは可能なようである。ただ、それにしても無条件に信じてよい訳ではないだろう。「軍学儒道ヲ心掛」けているのに「文道ヲ不学、武道ヲ好ム」とあるのもよくわからない。やはり取り扱い要注意である。

(4)「謳歌」の政治的立場

 『土芥寇讎記』の人物評、ことに「謳歌評説」には、情報の怪しさ以外にも問題がある。 伊東多三郎氏は「諸大名を忌憚なく月旦した書」と述べている由だが、必ずしも単純には言えないように思われる。
 第一に、御三家並びに甲府綱豊は別格扱いされてい。他の大名については「将」と記載されるのに彼等だけが「卿」であるし、他の大名には「家老」とあるのがこの四家のみは「御家老」とある。形式的なことではあるが、それほど自由な立場に立っていないことを示している。それは形式だけでなく、内容にまで及ぶ。尾張光友・水戸光圀について女色に耽るという情報が記されているにも関わらず、かなり強引に弁護している。甲府綱豊の不学についても上述した通りである。要するに、御三家クラスに対してはかなりの忌憚があるのである。
 同様の事情は、幕府の実力者についても言える。老中の大久保忠朝・阿部正武・戸田忠昌は「善人ノ良将」という最高の評価を、やや後輩の老中・土屋政直も「良将」という良い評価を得ている。柳沢保明も「誉之善将」、本庄宗資も「誉之将」となると、不当だと決めつけないまでも、疑問符をつけたくなってくる。
 現役にこれだけ甘いのに、ちょっと前の実力者には一転手厳しい。酒井忠明は「良将」と褒められているが、そのついでに忠清について「才智ナリシカドモ欲深ク」云々と悪事を書き連ねている。あるいは堀田正仲についても、本人の論評よりは父・正俊の非難に字数を費やしている。こういうところに、単純な論評ではない、政治的な意図を感じざるを得ない。
 当時の有名人をあたってみて不思議に思うのは、牧野成貞が見あたらないことである。元禄3年当時下総関宿城主7万3000石、当然載っていなければならないところである。何らかの事情で落としてしまった可能性もないではないが、むしろ成貞が本書の成立に関わっていたと考える方が自然であろう。大垣新田の戸田氏成も掲載がないが、成貞の娘婿の故か(ただし、戸田氏定の項に言及があるので大名扱いをしていないだけかも知れない)。掲載漏れすべてをチェックしている訳ではないが、蓋然性は高いような気がする。「謳歌」は成貞かも知れない。
 この推定が当たっているとすれば、「謳歌」の評語の意味も少し変わってくるかも知れない。この調査結果は、綱吉の耳に入れられる前提のものだったのではないか。それゆえに、御三家や老中については讒言にならないように気をつかい、以前の権力者については酷評して迎合する。多分に政治的な書物と見るのが妥当であろう。

 もとより、そうした政治的意図が浅野長矩の場合に働いているという意味ではない。また、政治的意図があるからといって、本書の史料的価値が下がるわけでもない。ただ、史料の取り扱いには十分注意したいというだけのことである。