「不義士の末路」について

田中光郎

(1)「不義士」の再仕官状況

 赤穂事件に関する論説の中で、しばしば「不義士の末路」に言及されることがある。多くの場合、再仕官もままならず、武士社会の中で肩身の狭い思いをして暮らしたというように書かれるようだ。これは“勧善懲悪”の義士伝における一種の“常識”なのだが、はたして事実といえるのだろうか。少々疑念がないでもない。
 というのは、再仕官した脱盟者を結構検出できるからである。もとより悉皆調査などは望むべくもないが、大石家と親戚関係にあった者については『大石家系図正纂』『大石家外戚枝葉伝』である程度追跡できる。以下、事例を挙げてみよう。

ア 大石孫四郎信豊(『正纂』p154)
 大石瀬左衛門の兄である。赤穂離散後太田忠右衛門と称し高松・奈良・京都に住んだ。「摂政家煕公及ビ女御(中和門院)ニ奉仕」後に「内裏御使番」となったという。武士社会とは言えないが、近衛家から朝廷に、無事に再仕官できたのである。孫四郎の脱盟については異説もあるが「信清ト義絶ス、赤穂一義ニ付、信豊ト心合ハズシテ不和ナリ」とある『正纂』の記事に従うべきであろう。

イ 小山源五左衛門良師と子供たち(『正纂』p113)
 良師は大石内蔵助の叔父で、一時は堀部安兵衛が頭領と仰ごうとした人物。脱盟幹部として奥野将監・進藤源四郎らとともに悪評が高い。赤穂離散後、伏見から八幡山下に住してそこで死んだ。すでに五十を越えていた良師は仕官しなかったが、父とともに脱盟した弥六良邑(『正纂』は孫六に作るが、後述する伯父と同姓同名になってしまうので、誤記とみておく)は九条師孝の妻・秀姫に仕えた(名を鳥居金左衛門と改めたのはこの時か)。秀姫は浅野綱長の娘だから、実質的には浅野本家が召し抱えたということだろう。良邑は宝永5年に若死にしているが、弟の良淳が秀姫に仕え、秀姫の死後は浅野吉長に仕えている。小山家の問題については後に考えることとして、事例をもう少し見ておこう。

ウ 河村太郎右衛門(『枝葉伝』p192)
 これも脱盟幹部として不評の河村伝兵衛の嫡子である。父の方がどうなったかは判然としないが、河村男吏(初メ太郎右衛門ト云フカ)は3000石の旗本・松平与右衛門に仕えたとある。

エ 長沢幾右衛門級実(『枝葉伝』p193)
 長沢六郎右衛門之氏の子である。六郎右衛門は里村津右衛門とともに、大学赦免後に判形返却を要求し、脱盟の先駆となった人物。その時に幾右衛門の判形も返却を要求している。之氏は宝永7年に死去しているが、級実は「赤穂離散後ニ出京シ、飛鳥井家ニ仕フ。雑掌トナリ、長沢主水ト称ス」とある。

オ 岡本喜八郎(『枝葉伝』p228)
 大坂留守居・岡本次郎左衛門の養子である。「赤穂離散後、児玉左仲ト変名シテ徳大寺殿ニ侍ス」という。

カ 田中序右衛門(『枝葉伝』p229)
 実は因州藩・高橋源五郎の子。伯父の田中兵大夫の後を継いでいたが、名を大嶋伊左衛門と改め、小堀仁右衛門に仕えたとある。

 奥野将監・進藤源四郎・山上安左衛門など仕官の記録のない者ももちろんあるのだが、無事にありついたケースもこの通り少なくない。一般的な牢人の場合と比較する統計的な根拠はないのだが、それほど苦労した訳ではなさそうである。改名も当時一般的な習慣だから、必ずしも身元が判明するのを恐れたためとは言えないだろう。
 岡林杢之助の自刃とか、大野九郎兵衛父子についての噂(『見聞談叢』)など、「不義士の末路」について言われていることのすべてを否定するつもりはない。ただ「不義士の末路」が悲惨なものだったと決めつけるのは、慎重にした方がよいと思うのである。

(2)小山家の事情と“第二陣”説

 特に注目しておきたいのが小山一家の事情である。芸州の浅野本家が、この一家を厚遇していると見て間違いないように思われる。近い親戚の小山孫六などが仕えているのが原因の一つではあろうが、恐らくそれだけではない。
 『江赤見聞記』は、同じく広島藩士であった進藤八郎右衛門が一族の進藤源四郎を説得して慎重論をとらせたことを載せている。それは「安芸守様思召」をちらつかせたものであった。進藤・小山にとって、脱盟は本家の意向に沿った行動であり、息子の仕官が脱盟の報酬となった可能性が否定できない。「義士」が武士の鑑であるのは後世のこと、幕府からにらまれる危険もあった同時代の判断として、浅野本家がそういう方策をとったとしても不思議はないし、小山源五左衛門がこれに応えたとしても不思議はない。潮田又之丞に嫁していた娘を離縁させて、芸州藩士・御牧武大夫に再縁させたのも、同じ文脈で理解できる。果たしてそうならば、浅野家としては小山源五左衛門一族を見捨てることはできなかったであろう。
 小山源五左衛門良師は正徳5年9月4日に死去しているが、翌正徳6年に秀姫(持法院)も亡くなり、良淳が浅野吉長に仕えることになった。それより先、正徳3年に大石代三郎が浅野本家に仕えていた。代三郎の仕官については小山孫六良速(大石良雄の叔父、小山良師の兄)が関与していることが知られている。このあたり、広島藩の状況はかなり複雑である。「義士」「不義士」それぞれの遺児と、双方に共通の親類縁者がいるのである。
 しかし、ここで重要なのは「義士」か否かではなく、そんなことを超越した一族の協力関係である。思えば前節で紹介した『系図正纂』や『外戚枝葉伝』も、員外の協力者といってよい大石良麿が、義士か否かの隔てなく一族の状況を調査したものであった。一族のよしみは、世間の批判よりも強いのである。いや、一族の義理を守らなければ、世間の批判の対象となると言った方が正確かも知れない。

 そうであるならば、迂闊に他人の批判などできない。「誰それは卑怯者だ」などと言おうものなら、「その誰それは私の一族の者、卑怯と言われては捨て置けぬ」と、思わぬトラブルに成りかねない。広島で小山・進藤らの“第二陣”説がささやかれるに至ったのは、そうしたことと無関係ではないように思われる。「義士」を称揚して「不義士」を貶めることは、広島ではタブーになったはずである。場合によれば先君・浅野綱長まで批判の対象にしかねない。実は“第二陣”だったらしい、ということにしておけば、それ以上の論及を避けることができる。多少の無理があっても、藩内のトラブルを防ぐ安全弁として、“第二陣”説は有効だったと思うのである。

 これもまた、そうであったという明確な証拠をあげることができないのを遺憾とする。先入観にとらわれず虚心に見ていこうという以外に、主張というほどのものはない。