百姓武芸の禁止について

田中光郎

(1)

 たとえば新選組をかたる時「江戸時代、百姓(農民)の武芸は禁止されていたが、実際にはこれを習得する者が多かった」というような説明をされることが多い。間違いという訳でもないのだが、いささか正確さを欠いているように思われる。
 江戸中期以降に隆盛する剣術諸流派の多く(ほとんど、と言ってもいいかも知れない)が農村から出たものであることは、剣術の歴史を見た人なら誰しも気づくことである。中でも有名なのは、馬庭念流であろう。上州・馬庭村の農民・樋口家に伝えられたこの剣術は18世紀に隆盛をきわめ、近隣の大名・旗本まで入門している。こうした事情は、単純に百姓の武芸が禁止されていた、と言ったのでは説明できないだろう。

(2)

 近世において、百姓の武芸を禁止する法令がなかった訳ではない。
 『徳川禁令考』は慶応3(1867)年の「百姓武芸稽古又者修行者等留置申間敷旨御触書」を載せている(前集5、2832号)。これは天保10(1839)年に出されたものを「近来心得違之者とも多」いので改めて触れ出したとある。この文言は文化2(1805)年のもの(『御触書天保集成』6290)とほぼ同じであるので、ここでは最も古いと思われる文化度のものを採録しておこう。

  御勘定奉行え

 近来在方ニ浪人もの抔を留置、百姓共武芸を学ヒ、又は百姓同士相集り、稽古致候も相聞へ候。農業を妨候計ニも無之、身分をわすれ、気かさに成行候基候得は、堅相止可申候。勿論故なくして武芸師範致候もの抔、猥ニ村方え差置申間敷候。
一 百姓共之内、江戸町方火消人足之身体をまね、出火ニ事よせ、大勢ニて遺恨有之者抔之家作を打こはし、或は頭分と唱へ、組合を立て、喧嘩口論を好ミ候もの共も有之由、甚以不埒之事ニ候。急度相慎、惣て風儀を宜敷可致候
 右の趣、村役人共常々申教へ、不作法もの無之様に心を附け可申候。若相背ものハ召連可訴出候。

右之通可申付旨、関八州御料は御代官、私領万石以上之分ハ家来呼寄申渡、万石以下之面々えも可被達候

 この通り、たしかに百姓の武芸を禁止する幕府の法令はある。しかし、確認されているのは、ほぼ同文の文化2年・天保10年・慶応3年の3つだけである。

(3)

 もちろん、禁令が確認できないだけで、禁止そのものがなかったと断言するのは危険である。しかし、上述のように大名までが百姓身分の樋口氏の門弟になった事実があるならば(これは18世紀後半と推定される)、文化2年以前には禁止されているという認識を誰も持っていなかったとする方が自然だろう。毛谷村の六助という剣術の達人が創造された(『彦山権現誓助剣』人形浄瑠璃の初演は天明6年=1786)のも、そういう時代のことである。高橋敏氏は大名の入門を「幕藩制のハードな見解からすればあってはならないこと」(『国定忠治の時代』p258)と言うが、“あってはならない”と考えるのは、むしろ後世の「固定観念」ではないだろうか。これは、武芸者の地位を過大に評価する現代の感覚と表裏をなすと思うのだが、今は深入りを避けておく。
 文化2年と言えば、関東取締出役の設けられた年である。百姓武芸禁令は、治安維持の問題として捉えられるべきだろう。その前年には「町人共武芸稽古之儀、堅相止候様」(『御触書天保集成』5544)発令されている。町人武芸の禁止も最初かどうかよくわからないが、ともかくその禁止の論理を援用して出されたのが文化の禁令だと思われる。

 文化2年(1805)まで禁止されていなかったとすれば、江戸時代に百姓の武芸が禁止されていたというのは不正確だろう。「江戸時代」二百六十余年のうち、およそ4分の3の期間は禁止されていなかったことになる。
 発令以降の4分の1も、禁令が徹底されたとは言い難い。化政期以降も在村剣術は行われていたばかりでなく、政治情勢に刺激されてむしろ盛んであった(杉仁『近世の地域と在村文化』)。幕府の方も、治安維持の必要が高まったときに(天保10年は百姓一揆のピークだし、慶応3年は世直し一揆の時期である)法令を出しているが、真剣に取り締まった様子はなく、一時的な効果はあるものの根絶にはほど遠かった。
 百姓の武芸を禁止する法令があったことは事実だが、一般に百姓の武芸が禁止されていたと見るのは不正確だと思う。むしろ、そうした武芸の担い手となる「百姓」の存在を、具体的に明らかにしていくことが必要だろう。本稿中で言及した高橋氏や杉氏の仕事はそういう方向を指しているし、身分制度の研究の新しい流れ(シリーズ『近世の身分的周縁』中でも第5巻『支配をささえる人々』)にも沿っていくことと考えられる。