早駕籠の使者

田中光郎

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 早駕籠のシーンは忠臣蔵映画に欠かせないもののひとつだろう。主君刃傷の知らせを持って、早水藤左衛門・萱野三平の二人が夜通し駕籠を走らせる。さらに主君切腹の報を伝える原惣右衛門・大石瀬左衛門がこれに続く。不眠不休の早駕籠で到着し、息も絶え絶えに悲報を伝える。まことに緊迫感のある名場面だ。しかしこれは本当だろうか、というのが今回のテーマである。
 結論を先に言っておくなら、通説通り駕籠が正しいとは思う。とはいえ、そんなに単純な話でもないので、まあ一通りお読みいただきたい。

(2)

 疑問のきっかけは、知人から貰った赤穂市立歴史博物館の特別展「検証・赤穂事件1」の図録だった。図版48円山応挙筆と伝えられる絵巻の模写の解説で「早使が早打駕籠でなく早馬で描かれるという誤りもある」と指摘されているのを読んだとき、少々引っかかるものを感じたのである。そういえばこの‘誤り’に出会ったのは初めてではない。だが、早馬が‘誤り’と単純に言えるのだろうか。
 例えば『赤穂義士伝一夕話』。巻之八「早水藤左衛門満堯伝」に「早馬にて赤穂に赴き」云々とある。『一夕話』は時代も下った通俗書、とるに足らぬと言われるかも知れない。
 それなら『赤城義臣伝』はどうか。著者の片島深淵は同時代人と言っても支障あるまい。通俗書には違いないが、それなりに取材をしている。同書の原惣右衛門・大石瀬左衛門についての記述に「鞭を揚げて馳付」とある。駕籠なら鞭は使うまい。深淵は馬だと思っていたのである。
 伊藤東涯に聞いてみようか。言わずと知れた高名な学者であり、これまた同時代人。その『萱野三平伝』に、「乗伝告変于赤穂・・・揮鞭而去」という。母の死にたまたま遭遇したという話を信用するかどうかは別にしておく。これまた駕籠なら鞭はいらぬ筈であるから、馬だと東涯が思っていたのは確実である。
 いずれも、記載を全面的に信用するわけにはいかないものではある。しかし、この早使を馬だと思いこんだ江戸時代人が少なからずいるというのは確かなようだ。というよりも、江戸時代の常識ならこういう使者は馬だったのではないか。

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 もっと関係の深い人を探してみようか。一挙後細川家に預けられた原惣右衛門は、赤穂への「早使」として「大学申付候日より六日ぶりに参」ったスピードを誉められて「惣体公儀の御法度にて候へ共、内匠頭事は代々伝馬町の問屋共に兼て金銀を遣し置候に付、右の通り無遅滞参候」と答えた。これは『堀内伝右衛門覚書』にあって、義士研究家なら知らぬ人のないほど有名な記事であろう。その数箇条後に次の記事がある。

一 富森助右衛門十九歳の時、内匠頭様御使役被仰付、即日より馬を持被申候由。先年水谷出羽守様御居城を内匠頭様御受取被成候刻、助右衛門を赤穂へ早使に被差越、六日ぶりに着被仕候由。惣右衛門咄しに、伝馬町問屋共へ兼て金銀を被遣置候由、定て道中筋の問屋などへも同前と存候。夫故助右衛門も早着と存じ候。中々早く参り候事はならぬ物にて候。

 これまた有名な記事だが、本稿の関心からは次の問題が出てくる。すなわち、富森助右衛門が備中松山城受取の時の「早使」を勤めた時、その手段は何だったと堀内は考えているだろうか。使者の心がけとして馬を所持したことを称揚するという文脈からいって、馬と考えていたと読むのが自然なように思われる。そしてこれが原惣右衛門の「早使」と密接に関連づけられている。堀内伝右衛門もまた「早使」を馬によると考えていた、と言ったら我田引水にすぎると叱られるだろうか。

 もう一つ。赤穂城引き渡しに際し情報収集をしていた岡山藩士のメモらしいものの中に使者や藩士の往来を記したものがある(赤穂市『忠臣蔵』第3巻のp88)。そこには早見藤左衛門・茅野三平(いずれも原文のまま)について「早かけにて」と記載されている。「早駆け」の表現は駕籠には使わないのではなかろうか。岡山藩の諜報部員がどれほど優秀でも、この使者より早く潜入しているはずはないから、噂などから情報を再構築したものと考えられる。それにしても、馬で来たという風評はあったのであろう。

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 早駕籠だというのが定着するのは明治以降だと思われる。
 重野安繹は『赤穂義士実話』において、駕籠を正しいとして、東涯の『萱野三平伝』を否定している。信夫恕軒も駕籠説である(『赤穂義士実談』)。福本日南また然り(『元禄快挙録』)。近代の主要な研究家はこぞって駕籠を支持している。明治末の講談速記本(桃川如燕『赤穂義士銘々伝』)は馬で出発したことになっているが(途中でのりつぶして到着は駕籠)、すでに早駕籠説が優勢になっていたためか、詳述を避け、簡便に済ませている。
 駕籠説の根拠は何か。重野博士の場合は必ずしも明らかでないが、「私は昔し雲助をしたから能く知つてゐる」という恕軒翁、「維新前後海内紛擾の際にいた人ならば、今も記憶せられるであろう」という日南翁、いずれも幕末の記憶がその主要な根拠となっている。
 直接赤穂事件に関わる史料では「早道」「早打」「早追」など、馬でも駕籠でもよいような表現になっているものが多い。早駕籠だという結論は、必ずしも赤穂事件の史料から導かれたものではなく、幕末の見聞からでているように思われる。

 通説的な見解として、江戸時代には早馬の制度が断絶していたので早駕籠を用いたというのがある。このあたり、交通史の専門家の意見を聞きたいところだが、上述の通り同時代人が馬だと思いこんでいるのだから、駕籠しかなかったとは考えづらい。時代はずっと下って文政7年「都而御用之外、諸向より御差急之御飛脚中、御往返有之候砌、夜通継人馬賃銭受取方」についての証文が『古事類苑』に収められている(政治部98)。「諸向より御差急之御飛脚中、御往返有之候砌」に「夜通継人馬」が用いられたことがわかる。文中には「早追継」という表現も見られる。「早追」は「早追継」の省略形だろう。そんな名馬が用意されているはずもなく、スピードのほどは心許ないが、早馬がないとは言えないのではないか。

(4)

 ただし、最初に言っておいたとおり「だから早馬だった」という結論を用意してある訳ではない。刃傷事件に際しての急使が駕籠を使用した明らかな証拠が少なくとも二つある。その一つは当の早水・萱野の書状である(『赤穂義士史料』下p66)。

浅野内匠頭急用ニ付、両人在所へ早打ニ罷越候。追付其元へ著可申候間、籠弐丁早々御申付置可被下候。頼存候。仕切之義ハ、成たけ急度候間、早御用迄頼入候。以上。
 三月十七日夜
早水藤左衛門
萱 野 三 平
  大塚や小右衛門様

 使者を勤める両人が、伏見の本陣・大塚屋小右衛門に駕籠二丁を用意してくれと言っているのだ。これほど確かな証拠はない。もっとも、この史料の文面からも、馬が可能だったとする方が良さそうである。早打=駕籠に決まっているのなら、わざわざ「籠弐丁」を注文する意味は薄い。馬を使う可能性もあるからこそ、駕籠を要求したのであろう。
 駕籠を使用したことのもう一つの明証が、進藤源四郎の口分田玄瑞宛書状(赤穂市『忠臣蔵』第三巻p89)である。「早水藤左衛門・茅野三平(ママ)早かごニて十九日未明到着」云々とあり、進藤の立場からして間違いのない記述であろう。実は、中小姓の萱野には騎乗資格がないという、早馬説に不利な状況証拠もある。
 こうした証拠を前にしては、早馬だという主張をする気にはなれない。もちろんまだまだ食い下がる余地はある。大塚屋宛書状からして追継ごとに指示を出して使い分けていた可能性はあり、全行程が駕籠だったとは限らない(講釈師の「見てきたようなウソ」が案外真相に近いことは間々ある)。堀内伝右衛門は原について馬だと思っているらしいから、早水らは駕籠でも、原らは馬だったかも知れない。しかし、論理的な可能性はあっても根拠としては薄弱に過ぎるだろう。やはり駕籠だったとしておくのが穏当である。

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 大塚屋宛の書状は、もう一つの通説「不眠不休」に疑いを持たせる。二人の使者がバトンのようにリレーされるというイメージとは程遠く、使者は自分で「仕切」らなければ目的地に着けなかったのである。『赤穂義士史料』下巻は、この書状の次に京都留守居・小野寺十内から大塚小右衛門にあてた書状を収める。そこにはこの両名からの書状や、原惣右衛門・大石瀬左衛門からの書状を受け取ったことが書かれている。どちらの使者もその程度の‘余裕’はあった訳である。熟睡できるような状況ではなかったろうが、仮眠ぐらいはとったのではないか。激務であることは否定しないが、あまり強調しすぎるのはいかがであろう。
 半死半生で転がり込むシーンは劇的ではあるが、それでは使者の役目が十分果たせまい。鬱憤の書付を持って江戸に向かった多川九左衛門・月岡治右衛門は、一日余分にかけているとはいえ、江戸で戸田家臣との交渉をしたうえとんぼ返りで戻っている。こうでなければ役目が立たない。早水らはすぐに戻る必要はなくとも、きちんと口上ができるように自己管理しなければならなかったはずである。半死半生の演出はむしろ早水らを貶める“贔屓の引き倒し”にならないか。
 半死半生などにならないように「仕切」りながら最速をめざすところにこそ、武士の器量が見られると思う。堀内伝右衛門の関心も、まさにそこにあった。だからこそ、公儀の法度にも関わらず問屋に金をつかませていた心がけが、好意的にとらえられているのだと思う。