元禄若草物語
原惣右衛門の娘たち

田中光郎

(1)はじめに

 伊東成郎『忠臣蔵101の謎』は刺激的な本で、他書にあまりない情報にしばしば出会える。元禄14年秋、江戸に下向した原惣右衛門が大坂の娘たちに送った手紙のこともその一つである。『赤穂義士事典』にも見えないこの書状のことは気になっていたのだが、ものぐさで出典を確認しないままでいたのだが、先日別の用事で図書館に行ったついでに見てきた。
 伊東氏が依っているのは野間光辰「原惣右衛門手簡について」(『上方』108)である。『上方』は戦前の雑誌であるが、復刻版が出ているので、大きな図書館なら収蔵している。野間氏の論文は所蔵の原惣右衛門書簡2点、前川忠太夫書簡1点を紹介するものだった。ここでのテーマはその原書簡のうちの一点、「己九月十七日」付け、差出人は「惣へもん」、宛名はおくら・おいち・おとみの3人である。野間氏は惣右衛門の親類書に娘四人とあるのを承けて、この3人を長女〜三女と推定し、追伸に名の見えるおそめが四女であり、幼少のため宛名から省かれたものとしている。

(2)原惣右衛門の子女

 ところで『上方』108号は忠臣蔵特集で、野間氏の論文に続けて伊藤武雄「原惣右衛門」が掲載されている。『寺坂雪冤録』の著者の遺稿となった本編は惣右衛門のいわば戸籍調べで、根拠は必ずしも明示されていないが、相応に信頼できるものと思われる。伊藤氏によれば、惣右衛門の子女は次のようである。

 長女 お繁(延宝7=1679生、元禄14年には23歳)
 次女 お倉(天和元=1681生、21歳)
 長男 十次郎(元禄元年早世)
 三女 お市(元禄2=1689生、13歳)
 四女 お富(元禄4=1691生、11歳)
 次男 三秀(元禄5=1692生、次の女子と双児)  五女 (三秀と双児)
以上が最初の妻・長沢氏の産むところ。元禄5年の双生児出生後長沢氏は亡くなり、三秀らは男女の双生児を忌む俗信により他所に預けられたという(いわゆる「四十二の二つ子」を嫌ったためと『大石家外戚枝葉伝』にあり、伊藤氏は「四十二の時の双児」を理由にしているが、元禄5年の惣右衛門は45歳であるからどちらにしても成り立たない。ここでは斎藤茂『赤穂義士実纂』に従った)。その後惣右衛門は牢人・水野七郎左衛門の娘を後妻に迎えるが、家を継ぐべき男子がないということで、姫路本多家臣・高木源之進の次男を養子にした。七郎左衛門の子・水野玄覚が本多家に仕えているから、この養子縁組は妻の縁に係っている可能性が高い。元禄16年に提出された親類書に「五年已前」とあるから、元禄11年のことである。
 養子 兵太夫
ところが、その後で後妻水野氏が男子を出産した。
 三男 十次郎(元禄12年生、元禄14年には3歳。のちの惣八郎)
ちょっとした御家騒動になるところだが、実子は出家させるという約束でおさまったらしい(原親類書による)。

 ともかくも原惣右衛門の4人の娘の名は上から順に、おしげ・おくら・おいち・おとみである。野間氏の比定は若干修正の必要がありそうだ。宛名のおくら〜おとみは次女〜四女で、おそめはこの姉妹ではない。同書状にはおしげの名が見え、野間氏は惣右衛門妻と推定しているが、四姉妹の長女である。ただし、妹たちとは別行動をとっていることに注意しておきたい。

(3)おそめとは誰か

 伊藤氏の論考にはそのおそめ宛の12月7日付けの書状が収載されている。氏はおそめ=お繁としているが、上述の通り三人あての書状には両方の名前があるので別人であろう。しかもおそめは三姉妹と同居していることが文中から明らかである。となれば、このおそめが惣右衛門後妻の水野氏ではなかろうかとも思われるが、娘たちにあてた手紙で継母を名前で呼ぶのは少し考えづらい(文中「かもじ」が母親のことを指しているらしくい)。斎藤氏は妻の名を「おみや」としている。おそめに対しては「お倉お市お富ともに同じ姉いもうとと思」ってくれと言っているので、これも継母に対する言葉とは考えづらい。おそめは和田喜六の娘であるとするのが一番無理がなさそうである。

 和田喜六は、原の親類書には樋口与右衛門という名で登場する。惣右衛門の実弟で、岡島八十右衛門の兄になる。小出久千代に仕えたことがあるが、当時は牢人である。惣右衛門の妻子を引き受け、よく世話をしたことで知られている。出石藩・小出家は後嗣がなかったため元禄9(1696)年に断絶しているから、喜六の牢人もその時であろう。その後は原を頼って赤穂に来て仕官口を探していたと思われる。
 赤穂に来たと考えたのは、野間氏の紹介しているもう一通の書簡による。彦三郎なる人物にあてられたこの書簡は年未詳とされているが、「万二郎事、御ぜんしゆひよくすみ候て」云々とあり、この万二郎が兵太夫のことだとすれば(斎藤茂氏に従う)養子にした元禄11年頃のものと考えられる。その書簡のなかに「おそめ」や「杏庵」が赤穂にいたらしく思える記述がある。樋口杏庵は喜六の別名である(『堀内伝右衛門覚書』、養庵に作るテキストもあるが杏庵を正しいとする野間氏に従う)。
 仕官口を探していたというのは、(元禄14年)6月16日付原惣右衛門書状(中川助左衛門宛)による(『赤穂義人纂書』所収)。これによれば開城前後多忙であったために立退先を見つける暇のなかった惣右衛門が、伏見・大坂近辺なら住居ができそうだというので、近々大坂に行こうと思っているという。その際に和田喜六も連れていこう、というのだから、この時は二人ともに赤穂にいたと考えられる。「喜六兼ての望も成就見へ不申候」云々とある。「兼ての望」の内容は明確ではないが、仕官のことと考えるのが自然であろう。

(3)おしげの結婚

 この書状には、もうひとつ興味深い記述がある。「養子義御尋辱存候。是は弥於江戸引取候て、只今手前に罷在候。名善太夫と申候」というのがそれである。名前が違ってはいるが、養子兵太夫のことに間違いないだろう。この時点では、兵太夫は惣右衛門とともに赤穂にいたのである。原の親類書によれば(『纂書』所収のテキストではわからないので『実纂』による)兵太夫の出奔の時期は「去年(元禄15年)夏」である。いっしょにいたところで驚くにはあたらない。しかし、原の家族状況を考える上では若干問題の残るところではある。

 惣右衛門が大坂転居を計画していたころ、堀部安兵衛らが早くも討ち入りのための下向を大石に要求していた(『堀部武庸筆記』)。早くも開城1ヶ月後の5月19日付けで最初の督促があり、大石・原が連名の返書を認めたのが6月12日(このときは二人とも赤穂にいた)。中川宛書状の4日前である。なかなか返事が来ないのにしびれを切らした堀部らは6月19日付けの書状でさらに強く大石の下向を要請するが、山科に転居したばかりの大石はまず原を江戸に下らせることにする。惣右衛門が下向すると書いた大石の書状は、7月3日付け、13日付け、22日付けの3通にのぼる。
 7月3日付けの書状の中で大石は「惣右衛門も大坂迄上り被申候由に候。此元え立寄り被申筈に候間、一往申談候て、近々下り被申候様に可仕候」と書いている。原の大坂転居はこの頃である。おそらくはほんの仮住まいだったのだろう。間もなく天満に転居することになるが、そのことについては後述しよう。
 まだ住居もきちんと決まっていないのに、“仕事人間”の原惣右衛門は大石の命を受け、潮田又之丞・中村勘助とともに江戸に下向する。その途次、鳴海の宿から大坂の家族に手紙を送ったのだが(『実纂』)、その中に長女・しげの婚礼が11月にあることが書かれている。この婚礼の相手が誰だか明瞭でないのだが(と言っても実物を確認すればすぐわかるかも知れない)、兵太夫が出奔する以前だとすれば、彼との婚儀である可能性がいちばん高いように思われる。逆に、相手が兵太夫でないのならば、出奔の時期をもっと早くしないと辻褄が合わない。
 ともかくも、この冬には娘の婚礼があるのである。公私ともに大多忙の惣右衛門ではある。9月17日付け書状の宛名におしげが入っていないのは、婚礼と関係するだろう。「おしけは此月おさかてゝまいり候はんとそんし候。しゆびよくまいり候はんとめてたくよろしくそんし候」と惣右衛門は書く。大坂へ出て参るのか、大坂を出て参るのか、判然としないのだが、「おしけ事ざい中へまいり候ては」云々の記述を見れば、大坂から近在へ行くように思われる。そうだとすれば、兵太夫の可能性は低くなりそうではあるが、大坂商人田中常悦(『実纂』)ないし大阪の医師田中員沢(伊藤氏)だとすればますます適合しない。
 おしげの婚礼については、12月14日付けの和田元真(原惣右衛門)書状(『赤穂義士史料』下183号)が傍証となる。『史料』の編者は元禄15年にかけているが、14年のものとする野間氏に従うべきだろう。宛先は不明だが、綿屋善右衛門らしく思える。この書状に「娘も先月十二日に遣し候ハんよし申こし候。さためてしゆひよく遣し候ハんと大慶存候」とあって、11月12日に婚礼があったらしい。

 この結婚、あまりうまくはいかなかったと思われる。というのは、その後おしげは天満で母や妹たちと暮らしているからである。繰り返すようだが親類書には「娘四人」とあり、一党の処分後水野玄覚方へ引き取られたときの宗旨手形にも「お繁」の名が見える。結婚がうまくいかなかったとすれば、15年夏の兵太夫出奔と結びつけて考えるのが妥当のようだが、如何だろう。現時点で結論は出せないようだ。

 この宗旨手形には春好(十次郎)・母・お繁・お倉・お富とあって、おいちの名がない。ただし「以上六人」ともあって数が合わない。誤写であろうか。これも存疑である。

(4)天満転居と娘への手紙

 大坂での最初の家はほんの仮住まいであったらしく、8月には天満へ引っ越している。9.17書状には「あとの月やともかへ候て、てんまへうつり申され候よし、京わたや善右衛門より申こし候て」とあり、引っ越しの済んだことも善右衛門から知らされている。この家は、喜六が綿屋の協力を得て探したものであろう。「やともひろくみへ申候よし、善右衛門申こし候て」云々というのだから、惣右衛門はその家も見ていない訳である。場所は「大坂天満九町目御前通り鳥井の内萬屋次郎兵衛借家」(『堀内伝右衛門覚書』)ということだが、心配なことに「町中のうら」(9.17書状)で「家ハよく候へとも、渡世のために難成おもむき」(12.14書状)であることだった。江戸へ“単身赴任”中のパパが娘たちの生活を心配して送ったのが、9.17書状である。

 何と言っても心配なのは経済問題だった。何しろ会社は“倒産”しているので無給の“単身赴任”なのだ。「みなみなもし事いたしならい候て・・・くらしのたりになり候やうにいたし候へく候。すこしもたゝゐあそびくらし候はぬやうに心へ申さるへく候」。この世知辛い世の中に一銭でもくれる人はない。無駄に暮らしたならば末にはその日も送れぬようになる。おしげが田舎に行ってしまえばなおのこと、おくら・おいちは精を出して稼ぎ、おとみにも言い聞かせて役に立つようにしなさい。
 で、そのことと関連するのだが行儀良く暮らさなければならない。「おなこの子はたかきもひきゝも身もちにて候」。ここで赤穂の「高木げんゆふ」の事が引き合いに出される。詳しいことはわからないが、この高木氏は不遇であったらしいがその娘たちはひっそりと暮らして仕事に出精していたので「みなみなよくありつ」いたという。この場合「よくありつき」とは良縁に恵まれたことを言うのであろう。
 女ばかりの住まいでは人に軽んじられる。今までは惣右衛門はじめ多くの男がいたが、今では喜六ひとりである。よくよく身持ちを謹んで暮らしなさい、と教訓しきりである。見物に出歩くのも傍目からは不行儀に見える。何より出費が馬鹿にならない。喜六は自身が好きだから止めまいが(話せる叔父さんである)各自がよく覚悟しておけ。

(5)おそめへの手紙

 病弱なおくら(丸薬を服用している)、気随なおいち、まだ幼いおとみ。9.17書状に見るパパ惣右衛門、心配の種は尽きない。姪のおそめ(いちおう上の推定が正しいという前提にしてある)にもよく頼んでおこう、というのが伊藤氏所引の12.7書状である。伊藤氏は元禄15年のものとしているが、これも14年のものと考えたい。
 一緒にくらしているのだから、いろいろと気に入らぬ事もあるだろうが、お倉・お市・お富ともに同じ姉妹と思い、他へ「あり付」くまでは仲良く暮らしてほしい。この「あり付」も縁付くことを指しているだろう。もはや幼少という年でもないので、女子の所作・手習いなどを努めてお富にも勧めてほしい。お市は「気儘もの」だから「ひきたていけん」もしてやってくれ。おそめはおとみよりは年長、おいちに意見をしてもおかしくないのだから同年輩またはやや年長というところであろう。

 この12.7書状に少々気になる記述がある。「御望の事候ても、そもじ事は何のかまひもなき事に候へば、おつつけ成人後いつかたへもありつき申され候はんと存じ候」という。「ありつき」は例によって縁付くことであろうが「御望の事」「何のかまひもなき」とはどういうことだろうか。吉良家討ち入りをしても、原の娘でないおそめまでは累の及ぶことがないという意味に読める。「我等事、此度江戸へ下り申し候事、存じ寄にての事、其の段喜六存せられ候事候」とあって、江戸下向の理由も大凡は話してあるのである。
 もちろんこの段階でそこまで言うだろうかという疑問はある。何と言っても本文中に明示されている訳でないので、根拠のない空論であるとの非難は予想されるところである。

(6)むすびに

 原惣右衛門が娘に宛てた手紙のことを伊東氏の著書で知り、一編ものしようと思ったときにはもう少し簡単に考えていた。長期不在の父からの手紙を待つ四人の娘、まるで『若草物語』だと思い、表題を先に決めてしまったくらいである。しかし、いざ取り組んでみるとわからないことだらけである。
 史料の現状などは到底調査が行き届かない。野間氏の持っていた文書はどうなっているのだろうか。伊藤氏の掲げた文書は、斎藤氏の掲げた文書は、そもそもどこにあって現在はどうなっているのだろうか。
 いちおうの理解は示した問題についても、必ずしも確信がある訳ではない。本文中に必ずしも取り上げなかった疑問、たとえば岡島八十右衛門の所在(単純に読むと江戸にいるようだがそれでは他の史料と整合しない)、惣右衛門母についての言及のないことなど、まだ十分説明のつかないことが多い。
 しかしながら、そこが研究ノートである。現時点での理解と問題点を示しておくことが、次へのステップとなる。その文書はどこそこにあるとか、それは偽文書であることが証明されているとか、情報をいただけるかも知れない。またはその解釈はおかしいというような指摘もあるかも知れない。より深い理解に到達するために役立つならば、不十分な一文を草した甲斐があるというものである。