羽倉ルートの情報確認

田中光郎

(1)問題の所在

 元禄15年12月14日に吉良邸で茶会が行われるという情報は、大高源五が入手したものである。大石内蔵助がその確認のために意を用いたことも、よく知られており、関係文書も多く残されている。その確認の状況を細かく検討してみようというのが、本稿の課題である。

(2)羽倉ルートと大高ルート

 周知のこととは思うが、念のため確認しておこう。羽倉ルートの開発は、堀部弥兵衛による。早くに浅野家を牢人していた大石無人という人物がいる。大石内蔵助の一族であるが、遠く(赤穂)の親戚より近く(江戸)の他人といういうことか、内蔵助以上に堀部弥兵衛と親しかったようである。その次男・三平の同門に中島五郎作という町人があり、この中島が面倒を見ていた牢人が羽倉斎(のちの荷田春満)。中島は吉良邸に出入りする四方庵山田宗へん(ぎょうにんべんに扁)の茶道の弟子であり、羽倉もまた吉良邸に出入りしていたことがあり、吉良家臣の松原多仲は今も羽倉の門人だという。
 中島・羽倉は三平の一族が多く赤穂浅野家に仕えていたことを知っていたので、しばしば吉良のことを話題にしていたが、真意がわからないので三平はとぼけていた。元禄15年11月2・3日頃、三平が「時節柄方々に茶湯に参られるのでしょうね」と話しかけると、中島は「その通りです。それにつき、近頃吉良様からお招きを受けました。日程は未定ですが近々行くはずです」という。同月6日に羽倉方で中島に会ったときには、「今夕吉良様へ参ります」とのこと。8日に三平は羽倉方を訪ね「(中島は)吉良方へ行ったのでしょうか」と尋ねた。羽倉は中島の見聞をあれこれ話してくれた。三平は弥兵衛に「ここから情報がつかめないこともなかろうが、余り急にしてはかえって良くないだろう」と語ったという。(以上、『堀部金丸覚書』=以下『金丸』=による。なお同書には「大石氏」とのみあるが、三平と見なす説に従っておく)
 同志のひとり大高源五が大坂の町人・脇屋新兵衛と名乗って四方庵に入門したことはあまりに有名である。これが中島の紹介によるものかどうか判然としない。『江赤見聞記』(以下『江赤』)には「つてを以て」とあるのみ。『松平隠岐守江御預一件』(以下『隠岐』)にも事情は書かれていない(ちなみに師匠の名が「城野宗真」になっている。未勘)。しかしそうやたらに「つて」があるとも思われないから、中島の紹介によると考えるのが穏当であろう。

(3)14日情報の取得とその確認

 さて、12月6日(一説5日)に予定されていた吉良邸討ち入りが延期になり、確実な日程を探る必要ができた。『寺坂信行筆記』(以下『寺坂』)には、討入候補として吉良の在宅が確実な節分や大晦日を考えていたところ、14日の昼に大石三平から今日吉良が帰宅するという情報がもたらされ、大高情報とあわせて早速用意したとある。この大石三平からの情報がすなわち羽倉ルートということになるが、14日茶会という情報は突然のものではなかった。
 『江赤』によれば、12月10日頃、大高源五=脇屋新兵衛が四方庵を訪ね、「近々上方へ帰るのでそれまでに御教授を」というと「14日までは忙しいので15日に」との返事。「どちら様に」と聞くと「14日は“上野介殿会日”である」との答え。源五は戻って大石に報告し、14日に一決したという。
 “14日に茶会がある”という情報を大高がつかんだ日付であるが、『隠岐』は貝賀弥左衛門の話として、6日のこととする。同じく貝賀の話として、10日の夜には「面々店賃買懸り等、12日切に可相仕廻」との指示が出たとあり、10日の段階でほぼ確定情報となっていたらしい。さらにそれぞれの大家へは「我々共用事相仕廻、明後14日帰京」と説明するように指示が出されており、14日までは滞在しても不審がられないような配慮も示されている。それにこの説明ならば、万一14日を延期するような事態になっても、急病で出立を延期したとか何とか言い訳を作り出すことは可能であろう。
 『江赤』『隠岐』ともに、14日当日まで情報確認をしたことが記されている。14日朝には源五が口実を拵えて四方庵を訪ねて吉良邸に出かけることを確認し、神崎・前原は四方庵を含めた客の出入りを確認し、慎重の上にも慎重を期している。羽倉ルートによる情報確認も、その文脈の中でとらえるべきだろう。

(4)羽倉ルートによる確認・・・その一 12月12日まで

 羽倉ルートによる情報確認については、数通の文書が残されている。赤穂市『忠臣蔵』第3巻所収のものが便利だが、『赤穂義士史料』および『大石家義士文書』所収のものと照合する必要はある。
 羽倉ルートの情報に関わるらしい文書の初見が、11月28日付原惣右衛門書状(大石三平宛)である。「少々火急に御内談申入度御座候故・・・今晩か又明早朝ニ御来駕御頼申入候」という。会ってから話すというので内容はわからないが、羽倉ルートの情報収集依頼である公算は高いように思われる。『隠岐』には、いったん“12月5日決行”と決めたのが11月20日過ぎ、これを中止にしたのが24・25日頃だとある。原が(おそらくは大石の内意を受けて)三平との面会を望んだのは、5日を流したすぐ後のことだった。
 次に見えるのが12月7日付垣見五郎兵衛(大石内蔵助)書状(大石三平宛)で、大石瀬左衛門がそちらに伺ったはずだがと心配そうな様子で尋ねたついでのような形で「十日過彼会も在之候由、外よりちらと承候儀ニ御座候。此儀慥承度存候」と書いている。6日の時点で大高が情報を掴んでいたとする『隠岐』の記述と照応するが、ここでは10日過ぎとしか書かれておらず、14日という日付が判明していたかどうか、この文面からは確認できない。仮に14日情報を掴んでいたとしても、情報確認をするためには三平に予断を与えない方が好都合であるから、素知らぬ顔で尋ねると言うことは大いにあり得ると思う
 12月11日付馬淵一郎右衛門(堀部弥兵衛)書状(大石三平宛)には「去ル五日相延候会日相定候哉。明朝にても可有之哉と千万無心元存候。今晩方は相知レ可申候へ共、其内御聞届被成候ハゝ・・・早々御知せ可被下候」とある。これも14日という情報を自分で持った状態で聞いているのか、本当に“明日かも知れない”と思っているのか判断しづらい。
 12月12日付長江長左衛門(堀部安兵衛)書状(大石三平宛)の「内々之儀一入御頼候との御事」とあるのも、日程確認の件かどうか判然とはしないが、そう考えていけない理由はなさそうである。12月10日過ぎ、いちおう14日と定めたものの、本当にそれでよいか、不安は大きかったに相違ない。

(4)羽倉ルートによる確認・・・その二 12月13日

 12月13日付馬淵一郎右衛門(堀部弥兵衛)書状(大石三平宛)にはそのあたりの緊迫した雰囲気が感じられる。原文を掲出してみる。

其元弥御堅固可被御座奉察候。此方何之替事も無御座候。 昨日五郎兵へ参候処「昨夕貴様へ以使、今日中必石丁へ御出被下候様にと頼ニて御座候処、夜前は取込延引致迷惑候。少々御隙入候共今日中必々垣見へ御越奉頼候。何哉舞得御意度事ニ御座候」との御事ニ御座候。 拙者儀も朝飯後五郎兵衛へ参事御座候。早御越被成候ハゝ於彼地可得御意候。以上

 この手紙の書かれたのは13日の早朝(朝飯前)である。12日に弥兵衛は内蔵助のところに行った。その時の内蔵助の言葉を三平に伝えているのだが、直接話法と間接話法が入り乱れていて解釈が若干むずかしい。「昨夕(11日)三平へ使者を立て今日(12日)中に石町(=大石内蔵助宿舎)へおいでいただきたいと言ったのだが、昨夜(11日)取り込みがあって延期され、困っております。お手間をとらせますが、13日中には必ず必ず垣見(=大石内蔵助)へおいでください。お目にかかってお話したいことがあります」というところだろう。弥兵衛も朝食をとったら内蔵助のところへ行くので、向こうで会えるかも知れないと付け加えている。

 同じ13日朝、富森助右衛門も羽倉ルート確認のための呼び出し状を書いている。宛先が大石無人になっており、単純に考えると不自然であるが、しばらく保留しておこう。

以手紙得御意候。然内々之一儀彼レニ弥明日客有之段致承知候得共、無心元候間、斎働ヲ以申来候積りニ付、今日昼過垣見五郎兵衛宿江内々御出被下度候。以上

 日付は十四日を十三日に訂正してあるようだが、「明日」客が来ると書いてあるので13日の書状と考えてよい。ここでは14日情報を入手していることを明示した上で、羽倉ルートでの確認をするために来てほしいとしている。なお、昼過ぎに来てほしいと書いてあるから、13日の午前中あまり遅くない時間帯に書かれたものと推定できる。

 13日には同じく無人宛の間瀬久大夫の書状もある。文言がいささか首尾相応せず、解釈しづらいのだが、これも本文を掲出する。

今十三日内蔵助殿江参候用事ハ、斎手筋ニ而明日吉良殿江客有之段承候得共、無心許候間、三平殿斎へ参相尋候様ニ与被申候故、直キニ斎キヘ参候処、成程客有之候得共、未慥候間、明朝斎キより案内次第又々其段可申入候。以上

13日に久大夫が大石のところを訪ねたのはよいとして、その用事として書かれているのは間瀬の用事ではない。羽倉ルートから明日(14日)吉良に来客があると聞いているが心許ないので三平に羽倉方へ行って尋ねてほしいというのである。で、すぐに(三平が)羽倉方へ出かけたところ、なるほど客があるのだが、まだ確かな話ではないので明朝羽倉から連絡があり次第申し入れます、という事になる。羽倉から“案内”があるとすれば三平のところであろうし、それを久大夫が(三平と同居しているはずの)無人に報告するというのも奇妙な話である。

 12月13日にはもう1通、羽倉斎書状(大石三平宛)がある。その追伸部分に「彼方ノ儀ハ十四日の様にちらと承候」とあるので有名なものである。書状の主たる内容は、事件とは無関係なものと考えられるが、その中に「一昨日も御状被下候へとも・・・御報不申入」云々とあって、11日にも三平が羽倉に書状を送ったことが確認できる。内蔵助や弥兵衛が情報をほしがっている間、三平もサボっていた訳ではないという証拠だろう。
 さてこの羽倉書状と他の三通の関係をどう理解するべきだろうか。間瀬書状によれば、羽倉から14日情報を得ているという前提の上で、三平に確認させようというのである。その時点で“不確実なので明朝連絡する”と言ったあとで「ちらと承候」という不確実な情報を持ってくるとは思えない。13日に内蔵助を訪ねた段階で、すでに三平はこの書状を手にしていたと考えるのが妥当であろう。
 同様のことが富森書状についても言える。助右衛門もまた「彼レニ弥明日客有之段致承知候得共、無心元候間」と書いており、羽倉ルートでの14日情報を得ていたと考えられる。一方弥兵衛はこれを知らない。知らないのも道理、この時点では12日段階の情報しか持っていなかったのだ。

 ここまで、12月13日の事情は次のように整理できる。
@早朝に弥兵衛が三平に石町行きを促す書状を送る。
Aこれに応じて内蔵助を訪ねた三平は、同日の羽倉からの書状で不確実ながら14日情報を入手していた。
B大石は三平に羽倉を訪ねて確認するように求める。羽倉に面会した三平は明朝改めて連絡して貰うこととする。
 さて、そこで富森書状と間瀬書状の位置づけが問題となる。確実なことだけを言うとすれば「よくわからない」で済ますしかないが、先に保留しておいた間瀬書状の奇妙な文面を考えあわせると、こんな事情が考えられるのではないか。
C大石は三平の働きで日程確認ができたことを喜ぶであろう無人と感動を分かち合おうと思い、富森に無人を呼ばせた。・・・しかし、何らかの事情で(老人だから体調がすぐれなかったかも知れない)無人は来ることができなかった。
Dそこで大石は間瀬に無人を呼んだ理由を説明させた。いささか文意を取りづらい間瀬書状は、通常の用件を伝える手紙と異なる目的で作成されたためと考えることができる。

(5)むすびに

 明けて12月14日、大高源五は四方庵を訪ねて確認する(『江赤』『隠岐』)。三平からも羽倉からの連絡が伝えられる(いちおう『寺坂』に従っておく)。神崎・前原は客の出入りをチェックする(『隠岐』)。いよいよ間違いなしとて討ち入りに至るのである。
 本稿での検討は、少々不確実な領域に踏み込みすぎたように感じている。特に、富森書状と間瀬書状の位置づけについては、想像力の働かせ過ぎという批判が予想される。しかし、より良い解釈を求めての試行錯誤である。読者よろしく諒とせられたい。