『配所残筆』の執筆動機

田中光郎

 山鹿素行も『配所残筆』は、優れた思想家の自伝的著作として高く評価されている。もっとも、一般的に自叙伝というものを書くことのなかった時代である。素行はどうしてこんなものを書いたのだろう。
 素行自身の説明ではこうなっている。赤穂配留になってから間もなく10年になるが、物事は10年目には変化するものであり、自分も配所で死ぬべき時節と覚悟し、自分の学問の筋道を書き残すのだ、と。念のため確認しておくと、素行は寛文6年(1666)に赤穂に配留となり、そこから数えて10年目の延宝3年(1675)にこの『配所残筆』を書いている。素行の語るところは一見もっともなようではあるが、素行の他の著述に10年で物事が変化するというような思想は見られない。この件についてのみ10年で変化するという考え方が出てくるのは、いささか不審である。さらにいうなら、10年目の変化は確かにあった。しかし、幸いにして配所で朽ち果てるということではなく、無事に赦免されることだった。これは偶然であろうか。
 もう一つ問題がある。本書は弟の山鹿三郎右衛門と甥の岡八郎左衛門に宛てた遺書という形式になっている。他見のあるものではない、と素行は書いているのだが、どうも怪しい。本当に身内だけに見せるものであるならば、親しい人物のフルネームを書く必要はない。松浦鎮信について「以前より御家中へ弟三郎右衛門被召置候」と説明を付けているところなどは、当の三郎右衛門に宛てた遺書としては、不自然きわまりないであろう。最初から「他見」を前提として書かれていたと考えざるを得ないのである。想定されている読者は誰であろうか。

 『山鹿素行全集』を読んだ人なら、『配所残筆』の一部とほぼ同文の書簡が残されていることを知っている。赦免3年後の延宝6年(1678)滝川弥市右衛門宛のものである(全集15巻811頁)。この書状は、赦免後の素行が方々を徘徊しているというので老中・久世広之の嫌疑を受け、その弁明として書かれたものの一通である。もとより濡れ衣であり、嫌疑はすぐに晴れるのだが、この弁明書は注目に値する。この文書は素行が危険人物でないことを立証する証拠となるものであり、そのことを素行自身が明確に意識していた。そうだとすれば、ほぼ同じ内容を持つ『配所残筆』にも同様の性格があるのではないだろうか。

 松平太郎『江戸時代制度の研究』によれば、赦には慶事の赦と法事の赦がある。素行の場合、赦免の日付は延宝3年6月24日(『年譜』)で、『徳川実紀』によればこの日「四月御法会の赦」すなわち家光二十五回忌に伴う赦免が行われている。素行の名は確認できないが「赦に逢ふもの若干」のうちなのであろう。さて、再び松平太郎氏によれば「法事の赦は両山(東叡山寛永寺・芝増上寺)徳川氏の法事を行ふに際し、囚徒の眷属致す所の依嘱を受けて、其氏名を録し、赦を幕府に請願すれば・・・幕府乃ち査閲を加へ、其赦すべきは法事の場に召して釈放す」云々。要するに、座して待っていても赦免には預かれず、親族等の赦免請願を必要とする。素行の場合、東叡山門跡に依頼したのは松浦鎮信・本多忠将の両名であった。
 松浦・本多ばかりでなく素行自身が赦免嘆願に携わっていたことは、既に指摘されている。家光二十五回忌を目途に運動が進められたことは素行も知らされていたであろう(素行自身の赦免運動への関与を示すとされる『年譜』の記述の一つは、この法事の無事終了を祝う江戸への手紙である)。赦免運動の一環として、素行が危険人物でないことを証明しようとすることは、大いにありえそうに思われる。宛名の一人、山鹿三郎右衛門の主君は、赦免運動の中心人物・松浦鎮信である。松浦を通じて門跡・幕閣の目に触れさせることは、期待できないことではあるまい。そして、恐らくそれは功を奏したのであり、その記憶があるからこそ、3年後疑いを受けた時に素行はほぼ同文の弁明書を作成したのだと考えたい。

 『配所残筆』執筆は赦免運動の一環だというのが、本稿の推定である。もとより十分な証拠がある訳ではないが、死を覚悟してというよりは説得力があると思っている。この推定が素行の名誉を傷つけることにはなるまい。事実として素行は反体制の思想家ではないし、いわば冤罪に苦しんでいる彼が赦免を望んだことを非難するのは不当である。ただ伝記史料として扱うときには、若干注意をする必要があるだろう。本文中に見られる、有名人との交際をことさらに強調するような態度は、素行自身の自己顕示欲に起因するよりは(もちろん全くないというつもりはないが)安全性の証拠・証人を集める必要にかられていたためと解釈すべきであろう。“この件については誰々がよく御存知である”式の記述が頻繁に見られるのも同様である。一方で、思想上の変化を追うことは本書の目的ではなかった。その部分で厳密性を欠く記述があったとしても、あながち責められない。これを自伝として取り扱うのは、後人の都合に過ぎないのである。
 伝記資料としての『配所残筆』のどこに問題があるか。これは素行の伝記を検討したときに明らかになるだろう。本稿では、『配所残筆』の文言を過信することの危険性を指摘するにとどめておく。