『配所残筆』に見える湫兵右衛門

田中光郎

 山鹿素行の『配所残筆』は、高名な学者の自伝であり、思想史上の重要史料である。その意義についてはなお考えるところがあるが、ここでは同書に名の見える「湫兵右衛門」という人物について述べてみる。

 湫兵右衛門は、山鹿素行が若年のときに紀州公に仕官の斡旋をした人物として登場する。最近出版された講談社学術文庫版(土田健次郎氏訳注)では138頁。謙信流の兵学者であったが、素行に入門したという。それ以上に詳しいことは知られていないようだ。

 謙信流の兵学者ということなので、『越後流兵法』(新人物往来社)巻末の系譜を探してみると、宇佐美神徳流水戸伝に湫清許(兵右衛門尉)の名を見出すことができる。どうやら、湫兵右衛門の名は清許であるらしい。

 念のため『寛政重修諸家譜』の索引で清許の実名を持つものを繰ってみると、沼間(ぬま)兵右衛門清許に遭遇する。慶安4年まで生きた幕臣であるうえに、妻は紀伊家臣三浦頼忠の娘だという。素行を紀州家に紹介する人物としてはうってつけのようである。しかし、苗字が異なる。

 沼間清許は寛永20年に甲府城番をつとめたという。ところで『甲国聞書』にある「甲州御城並御番衆御奉行ノ覚」(『甲斐叢書』第2巻187頁)には、沼間清許の名があるべきところに「湫兵衛門」と記されている。『天正宝永年間記』には「沼兵右衛門」とある(同257頁)。

 湫兵右衛門は「くて」と読むのだとおもわれてきた。土田氏も「くて」とルビを振っている。しかし、これは「ぬま」と読むべきではないか。たとえば、茨城県に「湫尾」と書いて「ぬまお」と読む神社がある。 この苗字を「ぬま」と読んでいけない理由はないだろう。

 結論としては、山鹿素行『配所残筆』に登場する「湫兵右衛門」は幕臣・沼間兵右衛門清許だということである。だからどうしたというほどのことでもないのだが、何かの役に立つことがあるかも知れないので、ここに書いておいた。