柳生宗厳宛織田信長書状の年代について

田中光郎

(1)はじめに

 柳生家所蔵文書の中に3通の織田信長書状がある。うち2通が柳生新左衛門(宗厳)宛、他の1通は興福寺衆徒宛である。本稿では柳生宗厳宛の2通について、年代の考証をしようと思うのだが、まず原文を見ておこう。
 この2通は、今村嘉雄『史料柳生新陰流』、および奥野高広『織田信長文書の研究』に収載されている。八月廿一日付けのもの(以下文書A)は『史料』下p289、『研究』九四号(上p173)。十二月一日付けのもの(以下文書B)は『史料』下p288、『研究』補遺五三号(補遺索引p56)。ここには奥野氏の読解を基本として掲出するが、HTML表示上の制約から不正確な部分があることをお断りしておく。

 A

雖未申通令啓候。仍松少与連々申談事候。今度公儀江御断之段、達而可言上半候。定不可有別儀候。雖不及申、此時御忠節尤候。随而山美息女之事、松少江内々申事候。先三木女房衆、此刻早速被返置様御馳走専一候。通路以下御為ニ候。向後別而可申承候。相応之儀、不可有疎意候。猶結山可為演説候。恐々謹言。
 八月廿一日 信長(花押)
 柳生新左衛門尉殿 御宿所

 B

御入洛之儀、不日可供奉候。此刻御忠節肝要候。就夫対多聞、弥御入魂専一候。久秀父子不可見放之旨、以誓紙申合候之条、急度可加勢候。時宜和伊可有演説。猶佐久間右衛門尉可申候。恐々謹言。
 十二月一日 信長(朱印)
 柳生新左衛門尉殿 御宿所

 念のため、書状に登場する人物について確認しておこう。
 松少、多聞、久秀とあるのは松永弾正少弼久秀。その子は右衛門佐久通である。山美は山岡美作守景隆、結山は結城山城守忠正、和伊は和田伊賀守惟政、佐久間右衛門尉は佐久間信盛。これらの人物の事跡については、谷口克広『織田信長家臣人名辞典』に詳しい。

(2)信長の上洛と文書A

 さて、これらの文書の年代である。奥野氏はAを永禄11年(1568)、Bをその前年永禄10年とする。今村氏はAを元亀元年(1570)頃、Bを永禄11年頃としている。谷口氏はAを永禄9年、Bを同10年と見ている。
 ここで焦点になるのは、永禄11年9月織田信長が足利義昭を奉じて入京し、10月には彼を15代将軍とするという、誰知らぬ者のない史実との関係である。13代将軍・足利義輝を暗殺した松永久秀は、義昭にとっては兄の敵であったが、信長がこれを許して利用したこともよく知られている。

 文書Aを永禄11年のものとすれば、まさにこの上洛の直前ということになる。『寛政重修諸家譜』によれば、信長は上洛に先立ち山岡景隆・景佐兄弟に「いそぎ味方にくはゝり、先鋒となりて逆徒を討べし」と命じたが、兄弟がこれを拒んだので兵を送ってこれを攻めた。敗れた兄弟は柳生に逃れ、信長の上洛に際して服属し、先鋒として松永久秀と戦った。この際に久秀は景隆の娘を捕らえて人質としたが、景隆はまず娘を射殺せよと命じて果敢にこれを攻め、久秀を降参せしめたという。なお、この人質になった娘は後に久秀家臣・渡辺左馬助重に嫁した。

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『寛政譜』は永禄12年としているが、これは11年の単純な誤りであろう。

 この記述が100パーセントは信用できないとしても、何らかの事実の反映であり、文書Aがその事実と関係があることは確実だろう。久秀が景隆の娘を握っているのは事実だろう。『寛政譜』によれば景隆の長女は「三木氏が妻」となっており、文書でまず返すように努めるようにとされている「三木女房衆」は、問題の人質娘の姉と考えられる。とすれば、姉妹ともに松永方に囚われているのであろう。
 この文書による限り、信長と久秀は敵対していない。同時期と考えられる佐久間信盛の8月28日付け書状(『研究』上p174、『史料』下p285)でも同様である。これによれば、信長の上洛は「江州表裏」のために延引しているが、久秀と相談のうえ準備が整ったら「至南都可罷上」るとある。六角氏を中心とした近江勢の抵抗に対処して、松永と手を組んで奈良から上京するコースを考えていたらしい。実際には近江路を通ることになるが、そういう可能性も考慮していたのである。柳生宗厳は、名産の油煙を贈って好誼を通じ、松永グループの一員として、織田に服属しようとしていた。文書Aはその流れの中で作成されたと考えられる。
 山岡景隆が織田信長に服属した時点で、既に松永久秀も信長に通じていたとすれば、『寛政譜』の記述とは整合しない。しかし、系譜類の記述であるから、この程度の潤色はあり得るであろう。信長の上洛以前、松永方に山岡の娘が人質にとられていたという事実は一致しているのである。

(3)江濃越一和と文書B

 こう見てくると、文書Aを永禄11年(1568)のものとすることに問題はなさそうに思われる。しかし、実際には2つの異説、すなわち元亀元年説と永禄9年説が存在する。
 異説のうち今村嘉雄氏の元亀元年説は、『玉栄拾遺』の説に従ったものである。しかし、『玉栄拾遺』の編者・萩原信之が、文書中の「三木」を播州三木の別所孫右衛門の援兵に関わるものと推定しただけで、あまり根拠はない。萩原にしても自信がある訳ではないようだから、拘泥する必要はあるまい。
 谷口克広氏の永禄9年説には、もう少し意味がある。氏が注目したのは「雖未申通令啓候」という書き出しで、信長が宗厳にあてた最初の手紙であるはずだ、ということである。つまり、文書Aの成立は、永禄10年に比定されている文書Bより先行していなければならない。さらに『多聞院日記』永禄9年8月24日条に織田信長上洛の「虚説」の記事があることに着目し、実現しなかった上洛計画に関わる文書だと理解されているのである。
 注目に値する見解ではあるが、谷口氏自身が指摘しているように、この時期の久秀は三人衆との戦いに敗れて行方をくらましていたはずで、信長と「連々申談」じたり山岡景隆の娘を捕えている余裕はなさそうに思われる。むしろ疑うべきは、文書Bを永禄10年のものとする比定の方ではなかろうか。

 文書Bはそれだけで考察すべきでなく、同じ日付でほぼ同文の2通(興福寺衆徒宛=『研究』八二号・『史料』下p287、岡因幡守宛=『研究』八三号)と併せて見る必要がある。内容的には、松永久秀に従って戦っている人々に加勢を約束するものである。実際にはもっと多数の大和国衆にあてて発せられたのだろう。
 奥野氏がこの文書(正確には八二・八三号文書)を永禄10年とした根拠は必ずしも明白でないが、恐らく冒頭の「御入洛之儀、不日可供奉候」という文言によると思われる。近日上洛するというのだから、永禄11年9月の上洛に先立ち最も近い12月は、永禄10年である。しかし、ここでいう「御入洛」は永禄11年のそれを指していると見るのは妥当だろうか。
 永禄10年の段階で、信長と久秀が誓紙をかわすほど深い関係があったとは考えづらい。信長が久秀を‘見放さない’と言うのも、上洛以前の両者の力関係では不自然だろう。大和の国衆に対してこういう文書が効力を持つのは、「和州一国ハ久秀可為進退」(『多聞院日記』永禄11年10月5日条)ということが公言されてからのことのように思われる。文書Bは永禄11年以降のものと見るべきであろう。

 永禄11年以降だという仮定のもとに、推論を進めてみよう。近々上洛に供奉するという文言があるからには、将軍が都を空けている状況が必要であろう。適合するのは、元亀元年(1570)である。姉川の戦で勝利をおさめた信長だったが、その後本願寺・三好三人衆と結んだ浅井・朝倉連合軍と戦いが続いていた。情勢は必ずしも信長に有利でなく、天皇・将軍の仲裁で和睦することになる。「江濃越一和」は一時的なものに過ぎないのが、義昭は調停のために園城寺まで出張していた。元亀元年の12月1日には、織田信長は足利義昭とともに近江国にあったのである。
 同じ時期、三好三人衆との講和も進められていたが、この方面は松永久秀の担当だった。信長としては近江方面の方が重大だった訳だが、到底一枚岩とは言えない大和国衆に疑心暗鬼を生ずる危険性は否定できないだろう。講和の成り行きに大和国衆が不安を覚え、三人衆に寝返るような事態**になれば、信長はいよいよ窮地に立つことになろう。彼らの動揺を防ぐための文書を発給する動機は、十分にある。

今谷明『信長と天皇』によれば、信長が劣勢であった。
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永禄11年春、足利義昭は上杉謙信を頼って上洛しようと、上杉と武田・北条の講和を画策したのだが、武田信玄が上杉の部将・本庄繁長を調略して反乱を起こさせたため、謙信は動けなくなった。信長・義昭の念頭にこうした事例があったことは十分考えられる。

(4)むすびに

 本稿では柳生家に伝わる織田信長文書の年代推定を試みた。
 もとより信長研究を目的とするものではなく、武芸の歴史を明らかにしていこうとする作業の一環に過ぎない。比較的よく知られた史料であるにも関わらず、わからないことが多かった。いちおう結論らしいものは導き出したが、確信は到底持てない。大方の批判を仰ぎたいと思う。