浄瑠璃坂の仇討ちと大石家

田中光郎

 赤穂事件のおこる30年ほど前、江戸で大評判になった事件が「浄瑠璃坂の仇討ち」である。二つの事件の関連性については、早く三田村鳶魚氏が指摘し(『横から見た赤穂義士』三田村鳶魚全集16所収)、近年では竹田真砂子氏が着目している(『浄瑠璃坂の討入り』)。赤穂事件については改めて説明するまでもなかろうが、浄瑠璃坂事件については若干なじみのうすい向きもあると思われるので、念のため概要を摘記しておく。
 寛文8(1668)年、宇都宮城主・奥平美作守忠昌の葬儀に際し、重臣奥平内蔵允(1000石)と奥平隼人(2000石)が争論し、斬り合いになった。深手を負った内蔵允は自刃し、奥平家では内蔵允の遺児・源八と隼人の双方を改易とする。源八とその一族らは隼人をつけねらい、ついに寛文12年江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の隼人の屋敷を襲撃し、結句隼人を討ち取ることに成功する。
 この事件について述べた後で、三田村氏はこんな風に述べている。

お揃いの衣裳を着ていたこと、火事だ火事だといって門へ迫ったこと、事後に訴え出て公裁を仰いだこと、この三つはそっくり自分たちが夜討に実行している。それに目ざす敵が居合せないで、隼人があとから追いかけて来たからいいようなものの、その場で敵を討ち損じた場合、これもいい参考になっているらしい。大体の趣向が、この奥平源八のゆき方を手本にしたようにもみえる。(前掲書pp234-5)

 過大評価は慎むべきだが、赤穂事件がこれを参考にしているのは確かだろう。状況証拠として、この事件と大石家の関係に注意してみたい。なお、以下の論述では『寛政重修諸家譜』『大石家系図正纂』『大石家外戚枝葉伝』に依拠することが多いが、煩雑なのでいちいち注記しない。

 浄瑠璃坂の仇討ちの発端となったのは、上述の通り奥平忠昌の葬儀である。ところで、この忠昌夫人にして継嗣・昌能の母は、鳥居左京亮忠政の娘。この忠政は関ヶ原の時に伏見城を死守した鳥居彦右衛門元忠の子で、弟の鳥居左近忠勝を家臣にしている。この忠勝の娘こそ大石内蔵助良欽の妻、すなわち権内良昭の母、内蔵助良雄の祖母に当たる。
 奥平家の葬儀のあった寛文8年(1668)というと、大石家の当主・内蔵助良欽は51歳、妻の鳥居氏(千)は46歳、嫡子・権内良昭29歳、嫡孫・竹太郎(松之丞か喜内だったかも知れないが、要するに後の良雄である)10歳という計算になる。

白白白白奥平忠昌
白白白白白白‖─昌能
┌鳥居忠政─女

白白忠勝─女
白白白白白白‖―良昭―良雄
白白白白大石良欽

 竹田真砂子氏によれば、昌能は隼人の方に肩入れをしていたらしい。そうだとすれば、事件に直接関わりない大石家も、どちらかといえば隼人方に近い立場から関心を持っていただろう。興味深い事柄として、一時期隼人が三浦志摩守安次および諏訪因幡守忠晴に匿われていたという情報がある(竹田氏による)。これに鳥居家が関与した可能性はないだろうか。
 鳥居忠政の家は長男・忠恒の代に断絶するが、父祖の功により三男・忠春が信州高遠に領地を与えられた。この忠春の妻が三浦志摩守正次の娘、すなわち最初に隼人を預かった三浦安次の姉である。さらに、鳥居左近忠勝の妻は諏訪因幡守頼水の娘、すなわち当主忠晴の叔母になる。奥平家が隼人の亡命先を探していたとすれば、利用可能な人脈であろう。こうしたことに、意味があるという保証はない。しかし、意味がないとも言い切れないように思われるのである。

白白白白奥平忠昌
白白白白白白‖─昌能
┌鳥居忠政┬女
白白白白
白白白白├忠恒
白白白白
白白白白└忠春
白白白白白
│三浦正次┬女
白白白白
白白白白└安次
└忠勝
白白‖─女(大石良欽妻)


└諏訪忠恒─忠晴

 ここで述べようとしたのは、大石家が浄瑠璃坂の一件に直接関係しているということではない。しかし、大石家が普通の家よりはこの事件に関心を持ちやすい立場であり、また情報を入手しやすい位置にあったということは言えるのではないか。少年・大石良雄は祖母(養母)の実家に関するこの事件のことをあれこれ聞いたであろうし、長じて後、吉良邸討ち入りを計画したときにこの事件のことを想起したとしても不思議でない。