不破数右衛門は敵持ち?

田中光郎

 今回の話は、眉に唾をつけてお読み下さい。

 刃傷事件以前に浅野家を致仕していた不破数右衛門は、大石に願って特に許されて討ち入りに参加したと伝えられる。彼が浅野家を退いた事情は明白ではないが、『赤城士話』の説が最も有力である。
 これによれば、不破はある時、@死骸を掘り起こし試し物をしたA普段役儀を粗略にし同役と不仲であったB身上不勝手を言いながら人を集め振舞会合をした、の3箇条により閉門となった。その閉門が許されてからの不破の言い分は「@BはともかくAについて不満である。同役が認めたことでも自分が納得できないことにはうんと言わなかったのを、讒言したものではないか。対決させてほしい」というもの。しかし結局それきりになったので、失望した不破は永の暇を願った。慰留の内意があったが、決意は固く、ついに浪人したという。
 『赤城士話』では依願退職であるが、免職説もある。『赤水郷談』には、博徒を斬り捨てるといった乱暴な振る舞いが多かったので「国を放たれ」たと記されている。もっとも、江戸で辻斬りをしたとか、君命で燕を切ることになって退身を申し出たとか、山賊を退治したといった記述とともにある。同書の性格からいって、地元でささやかれた噂・伝説の類なのであろう。要するに、はっきりしたことはわからなかったものと思われる。「那波屋記録」には元禄10年に家僕を切って閉門となったことが記され(斎藤茂『赤穂義士実纂』p701)、『赤城士話』にある閉門理由の異説とも考えられるが、これも伝説の可能性が高いように思われる。不破数右衛門浪人の理由は、時期の問題も含め、はっきりしないと言うほかはないのである。
 不破の致仕については、もう一つ疑問がある。彼の実父・岡野治大夫もまた浪人しているという事実である。こちらの事情も判明しておらず、息子のことと関係があるかどうかもわからない。しかし、何の関係もないと考える方が無理があるのではないか。

 岩波文庫『元禄世間咄集』に収める元禄七年「見聞集」に「浅野内匠頭御屋敷に喧嘩有之由」云々という記事がある。主要登場人物は、用人某と役人某。この用人はふだんから奢った生活をして吉原通いなどもしていたので、役人はそれをたしなめていた。その後、何かの都合でこの役人が吉原に行ったとき、ばったり用人と鉢合わせし、“人に意見をしておいて自分は何だ” ということもあった。そんなこんなでうまくいかない二人が、よせばいいのに碁を囲んで、うってがえをめぐって口論となってしまった。役人が脇差しを抜いて顔をしたたか切り付けたが、用人も抜きあわせ、大袈裟の一刀で仕留めてしまった。用人の方には医者をつけて養生するようにという懇ろの御言葉があったという。
 何となく松の廊下の時の綱吉を思わせる長矩の対処である。この用人、このまま無事に勤めを続けられたのだろうか。
 そんな疑問を持ちながら、これに近い時期の分限帳(元禄6年のもの、『大石家義士文書』所収)を見てみると、用人のなかに300石・岡野次大夫(原文のまま)の名を見出すことができる。この時の用人は5人。あとの4人がどうなったか、元禄13年のもの(同書所収)を探してみると、2人は用人のまま、2人は足軽頭に昇任している。岡野のみが浪人しているが、その事情は上述の通り不明。となれば、次のような筋書きが頭に浮かぶ。この喧嘩の当事者の用人某は岡野であり、取りあえず医者を差し向けるなど好意を見せた長矩であったが、一方の当事者である役人某の遺族(もっとも遺族がいたかどうかも定かではない)の感情に配慮して(「天下の大法」喧嘩両成敗を重んじる家臣たちの手前もあろう)、岡野を追放した(または岡野が自ら退身した)。

 もとより証拠はない。そもそもが風聞に属することであって、浅野家に本当にそのような事件があったかどうかすらわからない。まして、それが岡野治大夫であったとは一言も書かれていない。その用人が浅野家を致仕したという記事もない。ないない尽くしの中だが、状況証拠はないでもない。第一に、岡野治大夫がなぜか佐倉新助と改名していること。不破氏の養子になっていた数右衛門はともかく、2人の弟まで佐倉姓を名乗り、意図的に岡野姓を捨てているのである。第二に、岡野治大夫の佐倉新助が播州亀山に居住していたこと。亀山は本徳寺領で警察権などが入りづらいので、赤穂事件に際しては同志が多く潜伏したことが常識となっている。岡野がいつから住んでいたかは不明だが、彼自身が敵持ちだとするならば、一種のアジールという性格をもつ亀山を選ぶことは大いにありそうなことである

亀山のアジール性について、私は今のところ地名辞典の類で調べているだけなので、きちんと確認していく必要があると思っている。亀山、赤穂、山科がいずれも一向一揆に縁の深い土地柄であるのは、単なる偶然以上の意味があるようにも思われる。

 岡野治大夫が敵持ちだとすれば、不破数右衛門の致仕をこれと関連づけて理解することも可能だろう。勤仕を続ければトラブルの種になるおそれもある。義士中随一とも言われる武術で、高齢の父の護衛に当たりたいと思っても不思議はない。
 致仕後の不破は、『赤城士話』では江戸にいたことになっており、『赤水郷談』では亀山にいたことになっている。討入後の親類書で、妻(先代不破数右衛門娘)が亀山在住になっていることを考えれば、刃傷事件以前から亀山居住だったと考える方が自然なようである。この親類書によれば、不破の息子の大五郎(6歳)は母と別れて伯母(母の姉)の嫁ぎ先・太田半兵衛に預けられているのに、娘は母とともに亀山にいる。家庭としてはかなり複雑だが、不破の亀山在住が上述のような事情によると考えれば、不破家の後継者の安全を確保する方策として理解できるように思われる。大石が特に不破の参加を認めたのも、本人の罪ではなく孝心から退いたという特殊事情を考慮したことによるのではないか。

 立証された事柄ではない。そういう可能性もあるのではないかという、ほんの思いつきである。