大石無人の退身

田中光郎

1 はじめに

 浅野家旧臣の討ち入りに、列外の同志と言ってよい人々の協力があった。大石無人父子もそうした協力者で、同姓瀬左衛門の困窮を救ったり、羽倉斎宮を通じて吉良邸の動静を探るのに貢献したことが知られている。無人が討ち入り当夜は武装して吉良邸門前にいたという話もあって(『大石家系図正纂』)、俵星玄蕃のモデルとも言われている。この無人翁、同年輩の堀部弥兵衛に自分も一挙に参加すると申し出て「扨々無分別。御家も替り子にかゝり居候て、道理に叶不申」とたしなめられていた(『堀内伝右衛門覚書』)。もとは浅野家に仕えていた無人が、今は津軽家臣である郷右衛門の扶養家族であるので、討ち入りに参加することはできないという意味である。本稿では、浅野家退身の事情を振り返り、この快人物の行動原理を考えてみたい

 なお、本稿では『大石家系図正纂』を多く使用する。同書による場合はいちいち注記しない。

2 大石無人とその父

 大石無人の名を見ても知られるとおり、赤穂義士の頭領・大石内蔵助良雄とは親戚になる。はじめて浅野家に仕えた内蔵助良勝(良雄の曾祖父)の弟が八郎兵衛信云。無人はその信云の長男で、幼名を喜太郎、長じて名左衛門良安と名乗った。浅野家退身後、小山五左衛門を称し、その後大石に復し、名乗も信次・良房などと改めている。元禄9年(1696)に薙髪して無人を称していた。

 大石家は藤原秀郷の末裔。さらに遡ると藤原良房が先祖になるので、無人の死後はこれを憚って、良総と書くようになった。

 大石八郎兵衛信云は、浅野長重に従って大坂陣に功名を挙げて200石の知行を得、その後昇進して正保元年(1644)には組頭、同4年に450石まで加増されている。寛文6年(1666)9月に組頭を辞し、翌年には隠居して道雲と号すのだが、この八郎兵衛引退が、無人退身の契機となるのである。

3 退身の事情

 この事情は、退身の際に書き残した「覚」に詳しい。
 寛文6年9月1日、大石八郎兵衛信云(当時75歳)の組頭辞退は認められたが、その役職を嫡子・名左衛門良安(すなわち無人、当時40歳)に継がせるということについては、何の沙汰もなかった。そもそも、七年已前(現在の語法なら6年前)の万治3年(1660)、八郎兵衛は病気がちを理由に組頭の辞退を申し出たが、間に立った近藤三郎左衛門は名左衛門に「組のことは名左衛門が取り仕切ればよい」という上意を伝え(「八郎兵衛は諸事構申ス、組中ノ儀ハ、私万事差引仕候様ニト御懇成ル御意ニ御座候テ、左様相心得忝ク存候得」)、それ以来名左衛門は実質的に組頭の役目を果たしていたのである。その前年、万治2年(1659)将軍家綱の本丸移徙に際しては、主君・長直の名代として江戸に出て、登城している。使者に立つには相応の格式が必要な訳で、この時には「組頭分」だった。江戸にいる親類なども、名誉のことと大変喜んだ。こういう経緯があるのに、今組頭を召し上げられては面目が立たないので、主家を立ち退く、というのである。

 なぜ、すぐに名左衛門に組頭を命じなかったのか、理由はわからない。しかし、藩政をめぐる暗闘があった可能性は否定できないように思われる。上記の9月2日付けの「覚」の宛名4人(家老職であろう)のうち2人は同姓である。1500石の家老になっていた良勝は、慶安3年(1650)に没し、後は長男の内蔵助良欽が継いだ。良欽の弟・頼母良重は藩主・長直に近侍して寵を得、これも家老になっている。一見すると、大石家の勢力は大変強いように思われる。しかし、事情はそれほど単純ではないらしい。寛永13・14年(1636・37)ころ、讒言する者があって、良勝・信云兄弟はじめ一族で主家を去ろうとしたことがあったという。その時には頼母が長直の近習で、いわば人質をとられているのと同然だったため、事を起こすに至らなかった。寛永年間から、大石家への権力集中に反感を持つ反大石家勢力が存在し、正面切って対決してはいないものの、藩政の底にはこの矛盾が続いていたのではないか。順当に家督を継いだ内蔵助、長直の強力なバックアップのある頼母。この2人の家老に組頭・名左衛門がくわわれば、大石家の勢力が強くなりすぎる。個人的な感情で頼母を引き上げている引け目のある長直としては、反対派にも考慮せざるを得なかった…という筋書きは成立しないこともなかろう。

4 退身の行動原理

 認められなかった理由はともかく、認められないという事情に不満を持った名左衛門の心事は理解できる。しかし、それが退身にまでつながるというのは、少々理解しがたい部分になる。「覚」から彼自身の声を聞いてみよう。

今度組頭召上ケ下サレ候テハ、諸傍輩ノ者モ面目御座無ク候ト、御家立退申候。御尋成サレ有ル処、切腹仰付ラレ候ハバ、何時ニテモ罷リ帰ルベク候。私儀、組頭仕ル可キ筋目モ御座無ク候。第一ハ組頭仕ルベキ器量モ御座無ク候得共、右申上候通リ、七ヶ年已前ノ御意相違仕候得バ、御奉公成リ難ク存ジ奉リ候ニ付、此ノ仕合ニ御座候。

 名左衛門が問題にしているのは自身の「面目」である。そして、それは「御意相違」という主君側の手落ちに起因するものであり、とても「御奉公成リ難」いと言う。命が惜しい訳ではない。呼び戻して切腹というなら、いつでも戻るぞと宣言している。彼の行動原理は“没我的献身”というような代物ではない。むしろ「かぶき者」的心性(山本博文『殉死の構造』)そのものと言ってよい。
 もっとも、赤穂退去はまるっきり向こう見ずな行動と言うわけでもなく、それなりの計算はあったらしい。名左衛門には弟の孫四郎信澄(寛文6年当時31歳、のちに八郎兵衛襲名、瀬左衛門信清の父)があり、すぐに赤穂を立ち退けば父の知行はそっくり弟が相続できる、という読みである(「信澄ニ若シ分知等ノ之レ有ル後ニ立退クニ於テハ、良安知行分高減ズニ依テ」云々)。何故そういう確信を持てたのかわからないが、ともかく、事実として、翌年無事に信澄は相続している。さらに言うなら、間もなく祖母の見舞いのために赤穂に戻るなどして、脱藩者として追求されるようなこともなかった。大石一門の政治力によるものか、他に何らかの保証があったのか、知る由もない。ともかく、自分の意地と家の存続を両立させる手段を選択したと評価できる。

5 むすびに

 大石名左衛門、のちの無人の赤穂藩退身の事情は以上のようである。円満退職とはほど遠い。自分も一党に加わりたいと言い出した無人の動機も、浅野家に対する忠誠というよりは、この「かぶき者」的心性の方にありそうである。
 もちろん、後に討ち入りをする一党の行動原理を、無人と同様と考えるのは不当である。ほとんどの者は、「かぶき者」の全盛期をリアルタイムで生きていた名左衛門=無人よりもかなり年少であり、感覚は異なるだろう。堀部弥兵衛からもたしなめられているくらいだから、同世代の中でもかなり突出した存在であったのだろう。
 それでも、赤穂事件を支えている人々の中にこういう「かぶき者」的心性があったことは、重要である。こういう要素がどのくらいの比重を持つと見なすかによって、事件全体の評価の仕方が変わってくるであろう。

 そして、もう一つ注意しておきたいのが、名左衛門の「かぶき者」的心性が、相続をめぐる問題の中で噴出したことである。形式的には通常の人事異動であるが、意識の上では相続問題と役職の継承が連動していたことは疑いない。近世武士相続法については、家臣団統制の手段として制定されたことが言われる(たとえば服藤弘司『相続法の特質』)。相続に対する規制が武士の意地を刺激して、時として反秩序的行為を取らせるということは、論理的に容認しやすいであろう。思えば、赤穂事件の所々に、相続をめぐる問題が潜んでいる。いわゆる“浅野家再興運動”は言うまでもない。別稿で指摘した熱血中小姓たちの動機の問題、つまり幼くして家を継いだために降格された可能性もそうだ。少々独善的になりがちな堀部安兵衛のあせりも、養子として相続したという事情と無関係ではあるまい。高田郡兵衛の脱盟も、相続問題が絡んでいた。こうした問題を、十把ひとからげで論じようというのではない。ただ、近世武士の意地の示し方が相続のありようと関連しているという問題意識を持っておくことは、無駄ではないように思われる。敵討という行為を、一種の相続として捉えていこうとする視点とも連続するものである。