「大石りく書状」の宛先について

田中光郎

 赤穂市立歴史博物館では、貴重な収蔵資料を翻刻・出版するという有意義な事業を手がけている。その第二集として刊行された『早水家文書(一)』の中に、「大石りく書状」が含まれている。赤穂事件と直接の関係はないものの、大石家の日常生活を知ることのできる重要な史料である。この書状、年次・宛先とも不明とされているが、全く手がかりがない訳でもない。以下、この書状について考察してみよう。
 なお、「大石りく」という呼称が適当かどうかという問題があるが、これについては別稿「大石リクでいいのですか?」で述べたので繰り返さない。書状の内容について考えていく。

 この書状は宛名を欠いているが、しばしば「御まへさま」という呼びかけがなされているので、謎の受取人を「御まへさま」と呼ぶことにしよう。八木哲浩氏の解説は「源八屋敷拝領」の記事に着目し、赤穂にある「源八屋敷」すなわち近藤源八の明き屋敷を「御まへさま」が拝領したものと推定している。しかし、これはどうもあやしい。第一、「源八屋敷」という名称が事件以前からあったかどうかも疑わしい。
 屋敷を拝領した人物は「はやヽヽ屋敷へうつり申され候よしうけ給候」とりくは書いている。赤穂の源八屋敷なら、直接祝儀に出かけていそうなものである。しかし、りくは人づてに聞いているだけである。
 「御まへさま」が赤穂にいないことは、大火の様子を知らせていることからも知られる。八木氏の解説では「大風に見舞われた」ことになっているが、「大火事と申さわかしく御さ候」とか「一ゑん風御さなく候ゆへはやくしめり申候」などの記載があり、火事の際に風向きを気にしていたことを、大風と誤解したものと推察する。火事にせよ大風にせよ、赤穂にいる人間に対して赤穂城下の災害を知らせる必要はあるまい。
 「御まへさま」は赤穂にはいないらしい。それどころか、赤穂藩の者ではないと考えられる。なぜなら「そこ御ほと殿様」に関する記述があるからである。“そちらの殿様”という表現を、赤穂藩内で用いることは考えられない。「そこ御ほと殿様」は病気だったようで、江戸にいる。「御まへさま」は殿様の御機嫌伺いと「若殿様」への御目見得のため江戸へ行くことを出願していた。このころ赤穂浅野家に「若殿様」と呼ばれる人物はあるまい。あえて言えば大学長広だろうが、別家している長広なら「大学様」と書く方が妥当である。
 上述の通り「御まへさま」は江戸行きを願っているのだが、彼女はその結果をひどく気にしている。というのは、そのおりの赤穂逗留を期待しているからである。「明暮のねかゐハ是のミ」といささか大袈裟な表現で訪問を心待ちにする相手は、相当に親しい間柄でなければなるまい。「道中すく」とあるからは、さして遠くないところ、江戸行きのついでに寄り道する事が不自然でない程度のところだろう。りくの実家・石束家のある但馬豊岡はこの条件に合致している。

“そちらの殿様”に関連して、本文には「ほうきさま御あとめの事ニ付殿様ニも御ゑんりよのよし」とある。豊岡藩主・京極甲斐守高住の実の姉は、津山藩前藩主(その後分家)森伯耆守長武の室。森長武は元禄9年5月18日に卒すが、養嗣子・長基が病気を理由に出府しなかったので改易となる。森家の相続関係はかなり混みいっているが、ここで深入りする必要はなかろう。森家の騒動に関連して高住が「遠慮」になっていることが確認できれば万全だが、今のところそこまで調査は行き届いていない。「殿様」が高住であることはほぼ間違いないであろう。この書状の書かれたのが元禄9年秋(書き出しに「漸ヽすゝしく成まゐらせ候」とあるので季節は秋)とするならば、元禄3年に生まれた「若殿様」高栄は数えで7歳になっている。国元の家臣が初めて面会するのに適当な年頃である。
 さて、こうなれば「源八屋敷」が赤穂城内の近藤源八屋敷でないことは当然。源八の名で思い出すのはりくの弟・石束源八である。若干敬語表現に難はあるが、ここは弟の源八が屋敷を拝領したことを喜んでいると読むのがもっとも自然であろう。源八が屋敷を拝領したことが「御まへさま」の御果報だと赤穂のみんなが言っているそうな。となれば「御まへさま」の最有力候補はりくの父・石束源五兵衛ということになるのではないか。
 この手紙には、娘くうの「いろは」清書を送ったことも記されている。くうの清書を「おはさま」に見せるについて、吉千代もお目にかけたいと言うので、これも書かせて送ったとある。元禄9年とすれば、くう7歳、吉千代6歳(いずれも数え)である。兄・石束毎明一家は、恐らく源五兵衛と同居しているであろう。毎明の妻は、くう・吉千代にとって“伯母様”になる。源五兵衛のもとに送った手紙とみて、不都合な点はあるまい。

 この書状の来歴には不明確なところがあるが、大石内蔵助の石束源五兵衛宛書状とともに一巻になっていることを併せて考えれば、元は石束家から出た文書である可能性が高い。断定はしないが、「元禄9年秋・石束源五兵衛宛(カ)」としておきたいと思う。

追記

 本稿について、豊岡の瀬戸谷晧氏(サイトには「くりんくりんく」からリンクをはらせていただいている)からメールをいただいた。おおむね御賛意をいただくとともに、貴重な御示教を賜ったので報告しておきたい。

 瀬戸谷氏の御示教では、原八は次男ながら300石を与えられており、元禄15年の豊岡城下絵図に「石束原八」と明記した屋敷がある由である。源八が屋敷を拝領したという推定は裏付けを得られた。
 なお、同絵図には父・毎公(源五兵衛)屋敷とともに兄・毎明(宇右衛門)宅もあり、毎明が毎公より家督を継ぐ以前からこの家は与えられていたと、氏は推定されている。兄夫婦と父夫婦が同居ということにはいささか問題がある、とも指摘されており、今後の課題となる。
 この前提で考えれば、「御まへさま」は父・源五兵衛ではなく、兄・宇右衛門である可能性もあったかと思われる。この手紙以前に京都にいたらしいこと、また江戸に出ようとしていることなどは、家老である父にしては少々機動性がありすぎるようにも思われる。結論は急がずにもう少し材料を集めてみたい。
 そのほか、書状に見える「おくめ」は進藤源四郎の妻(後妻、りくの父の妹の子=従姉妹)で、「お久」は源四郎の娘(前妻との子)とみられる(石束系図,山科進藤系図などによる)こと、「およし」の身元が分からないこと(兄夫婦には「およし」は見当たらない由)、りくの母が30代で亡くなっているらしいことなどを教えていただいた。
 貴重な情報をいただいた瀬戸谷氏に感謝の意を表したく、補筆した次第である。