吉田父子、敵討モードへ

田中光郎

 ひとくちに赤穂義士といっても、活動ぶりのよく伝えられている人もあればそうでない人もある。後者は、銘々伝のスタイルで人物紹介をしようという企画の時に、執筆者を苦しめることになる。吉田沢右衛門もその一人で、父・忠左衛門が一党の副将格として活躍したのに比べ、どうもこれといった功績がない。本稿でもあっと驚くような活躍をさせる訳にはいかないが、地味ながらも重要な役割を果たしていたことは御紹介しておこうと思うのである。

 ここで材料とするのは、ともに『赤穂義士史料』下巻に収められた「篠崎太郎兵衛」名義の2通の書状である。これが吉田忠左衛門の変名であることは、今更いうまでもないだろう。一つは十二月廿五日の日付のある前川新右衛門あてのもの(127頁、以下A)もう一つは年次・宛名を欠くが元禄15年1月と推定されているもの(136頁、以下B)である。
 順序は逆のようだが、Bから考えていく。これは池田久右衛門(もちろん大石内蔵助の変名)から内談することがあるので近々上京するように指示されたが、「貴様」(不明の名宛人)にも同様の指示が出ているとのことで、いつ上京しどこを宿所とするか、という問い合わせである。吉田自身は「来る廿二三日よりのほり可申候哉と」考えているという。これを15年1月に比定するのは、1月26日に播州三木を出発して山科に出向き、その後江戸に下った(『寺坂信行筆記』など)吉田の動向から考えて、妥当なものと言えるだろう。名宛人は、「貴様私両人□□内談有之者」とあるように吉田と並んで大石の信頼を得る人物で、当時在京していないが上方在住であることなどの条件を考えると、原惣右衛門である可能性が高いと思う。
 さて、ところで篠崎太郎兵衛(吉田忠左衛門)に上京するようにという池田久右衛門(大石内蔵助)の言葉を伝えたのは、篠崎左平太(吉田沢右衛門)であった。左平太の沢右衛門は11日から山科に行っていたのである。

 そこで、遡ってAである。前川新右衛門は赤穂の商人であるが、新浜村に住む吉田沢右衛門に「難去用事申遣候状」を届けてくれるように依頼するものである。ほかに、仁平郷右衛門・近藤源八あての書状をも頼んでいる。太郎兵衛(忠左衛門)は当時おそらく播州亀山におり、通信は姫路から町飛脚でせざるを得なかったが、村方までは届く保証がないので前川に託したものである(「姫路町より頼候而ハ貴様宛名に無之候ハてハ、しかと届かね申候由」)。それはさておき、12月もおしつまっての「難去用事」とは何だったのか。明けて11日には沢右衛門が上京するとすれば、これと無関係だと考える方が不自然だろう。
 ここから先は状況証拠だけの話である。元禄14年12月11日、吉良上野介の隠居が認められた。浅野家名誉回復の可能性が断ち切られた訳で、大石内蔵助は12月25日付けの書状で寺井玄渓に「弥存立の外無之候」と書き送っている(『纂書』第二)。しかし、その一方では堀部安兵衛らに軽挙をいましめる手紙を送ってもおり、時期は尚早だと考えていることも知られる。ところで山科の大石が吉良隠居の事実を知ったのは、堀部弥兵衛宛の書状によれば12月23日のことである。すぐに使者を出したとすれば、25日には姫路郊外の亀山まで連絡は着くだろう。可能性の問題としては、吉田が息子と連絡をとったのは大石の指示であったかも知れない。

 それまで播州にあって待機していた吉田忠左衛門の活動開始は、大石の復讐計画の第一歩だったように思われる。この一件では敵討の前提として変名を使うということがよく行われた。管見の範囲では、変名使用例の確実なものはAである。吉田の始動が大石の指示によるものだとするならば、変名使用も同様である可能性は小さくない。敵討を前提とした連絡のために子息・沢右衛門殿を山科に寄越されたい。それを承けた忠左衛門は篠崎太郎兵衛の名で沢右衛門を呼び出し、沢右衛門は篠崎左平太の名で父と大石の連絡にあたる。華々しい活躍の見られない沢右衛門だが、他の同志にさきがけて、父とともに敵討モードに入っていたことが推定できるのである。

『史料』には大石の池田久右衛門名義の書状が挙げられているが(114頁)、これは内容からいって明らかに15年のものである。