思想
1.Nさんの思想
ある平日の昼休み、Nさんが亡くなったというメールを、大学時代の友達から受信した。衝撃を受けた。Nさんと私とは大学時代に一緒にボランティアをやっていた仲だった。Nさんはメンバーの中でも、とりまとめ役で、物腰は柔らかく、それでいて議論力があって、バランスが取れた人だった。そのNさんが、亡くなったとは。
Nさんはいわゆる左翼思想の持主であった。左翼。実はこの用語が適切かわからないが、ある友達いわく「Nさんは、要するに、極左だね」と言っていたので、おそらく左翼としてイメージされる思想を持っていたと周囲からみなされていたとみてよいだろう。左翼は、歴史を進歩するものとして捉える。過去よりも未来のほうが良い状態になると考える。つまり、左翼とは進歩主義なのである。その左翼思想が極端になると、「革命」ということを言いだしてくる。革命を起こしてでも、今の社会をより良い社会へ変えようとするのである。暴力をも容認する立場になる。左翼というのは、なんでもかんでも平和・平和と唱えている人、というわけではないのである。
左翼思想は、なぜか、経済システムのあり方を変更すべきとの考え方に結びつく。それが極端になると、共産主義となる。もしくは、社会主義といってもいいのかも。共産主義と社会主義。このあたりの用語の使い分けも、私は正確には勉強していないので曖昧である。ただ、つまるところ、左翼思想と混じると「資本主義は格差を生み出す経済システムであり否定すべきである、資本主義の論理を推し進める政府には歯向かうべきである」という考えになる。これがNさんの考えだった。こんな幼稚なまとめかたではNさんは怒るかもしれないが。ちなみに、日本共産党は、Nさんいわく、方向性が違っていて、興味がないらしかった。
そのNさんが亡くなった。なんでも、急性肝硬変だという。急性肝硬変っていうのは、相当無理なお酒の飲み方をしないとならないだろう。Nさんは、酒を飲み過ぎたのだ。なんということか。左翼ではあるけれども、バランスのとれた穏健な人だったNさんが、いつしか酒に溺れて、そして、亡くなるとは。酒に走るのは、やはり辛いことが多かったからだろう。辛さに耐えかねて酒を飲むようになったのだろう。
私は、こういった、いわば世間から極端に乖離した考え方を持つ人がいるとは思っておらず、共産主義などというのは、歴史の本の中の話であると思っていた。しかし大学に入ってみると、実際にそのような思想を持ち、さまざまなデモ活動・集会活動などをしている人がいることを知った。適当に勉強して、そこそこの会社に入って、無難に人生を終える。こういう生き方が大多数だが、しかしNさんのように思想を持ち、思想を貫こうとしてさまざまな困難に遭い、結果として、挫けてしまう人を目の当たりにして、人の生き死にまで左右する思想というものに関心を持つようになった。
2.日本の無思想
養老孟司さんの『無思想の発見』(ちくま新書)を読んだところ、日本というのは、無思想の国だという。たとえば、宗教を考えてみればわかる。私たちは、神社に初詣に行ったと思えば、お寺でお葬式をし、ハロウィンやクリスマスを祝う。このように宗教の原則性はない。特定の宗教を信じてしまえば、この習わしが壊れてしまう。なので、宗教的には無思想であると言える。また、終戦前は天皇万歳だったのに、戦争が終わってみればマッカーサー万歳になった。変わり身が早い。大学生時代はマルクス主義者で大学紛争をやっていたかと思えば、会社に入ってすっぱりと忘れ、サラリーマンの出世争いにまい進する。これも変わり身が早い。つまるところ、日本社会は、「世間」というのが強く、「思想」はない。これをして、日本は無思想である、というようだ。丸山真男という高名な学者も、日本に思想はない、と書いたらしい。
日本で、思想を持つことは、世間と対立するということになるのだ。つまり、Nさんは、思想を持っていたがゆえに世間と対立せざるを得ず、亡くなった。日本の無思想に敗れたと言えるかもしれない。そもそも、共産主義者が、資本主義を否定する考えを持つならば、経済活動に参加できないことを意味する。会社に入る自分を正当化できなくなる、ということだ。もし、共産主義者で、かつ会社に入って経済活動をする、そんな自己矛盾を放置していられる人なら、純粋な思想家ではない。つまり、共産主義者は日本に居場所がない。もし、日本にいるとすれば、革命の準備をするしかない。
世間が強い日本で、最も楽な生き方は、世間の流れに沿うという生き方である。思想という硬い考えを持たない。もっと、緩く生きる。世間がAに流れたら自分もAを追い、世間がBに流れたら自分もBを追う。そういった生き方が、日本の「大衆」の生き方であるだろう。こうした一方で、外国には、確固たる思想が生きている。アメリカは自由主義・民主主義の国である。自由でフェアな競争と合理的判断で物事が進む国だ。自由を優先するということは、必然的に、周りに従えということはできない。したがって個人の個性が重視される個人主義の国となる。ヨーロッパは、キリスト教的な考え方、経済的な格差が残りつつも、社会を大きく変えないという保守性が残っていたりする。では、日本の大衆の、無思想という生き方は、これでよいのだろうか?
その回答として、養老さんは、「大衆を信頼する」、という。つまり、無思想でよい、ということだ。また、司馬遼太郎・大宅壮一も、同じく、大衆を信頼すると言ったらしい。思想を持たない日本の大衆は、思想を持たないゆえに経済活動に専念してきた。これで日本は経済大国になった。それはそれで結構ではないかというわけだ。無思想は変な迷惑をかけない。思想なんて、あるほうが厄介だ。アメリカは独自の思想で中東に介入して、戦争をした。そういう、手前勝手がないだけ、無思想のほうが良い、ということか。養老さんは頑固そうだから無思想なんて許せんと言うのかと思えば、無思想でよいという。これは意外だった。
日本の無思想はどこから来たか。養老さんによれば、それは仏教からだという。空という概念。諸行無常という概念。日本人がみんな仏教を信じているということではない(それだと無思想に矛盾する)。仏教に由来して、いろいろな特徴はそぎ落とされ、無思想という特徴だけが日本社会に残った、と考えればよいか。私には仏教の詳細を論ずる知識がないので、この是非の判断はつかないが、しかし、そんな気も、確かにする。これを確かめるには、仏教が来る前の日本は、どのような思想があったかを調べればよいだろう。無思想だったかどうか。私には今のところわからない。
3.思想と哲学
少し話がそれるが、思想と哲学はどのように違うのだろうか。哲学は、究極の真理を考えるもの。したがって、哲学は、究極の真理を求めるがゆえに、日常とは離れてしまう。しかし、思想は、日常と哲学の間くらいにあって、感情や情緒とその人が生きた時代が反映されるものだ。このように語られている動画を発見した。なるほど、これは、わかりやすい。
日本独自の哲学として、「無」をキーワードとした哲学がある。それは、西田幾多郎の哲学である。私は西田について語れるほど勉強したわけではないが、佐伯啓思の『西田幾多郎』を読んだところ、なかなか興味深く感じるところが多かった。日本の無思想、これを哲学的に深めると、こうなるのか、と思った。西田は、深く自分に沈潜して、日本人の生き方を考えた哲学者であった。「無」という自分の「場」があって、そこに外部状況によってさまざまな属性が乗ってくる。矛盾すらしている多くのものが、自分という一つの場に乗ってくる。そこで、集合して、形になっているのである。これが、「矛盾的自己同一」などと西田が呼ぶ状態である。人は、そこでさまざまな行動をいわば無意識的に選択する。しかし、結局のところ、最後は「無」こそが自分自身だという。西田幾多郎の哲学は、どこか謙虚さを感じられる。
Nさんは、日常に安住する人ではなかったが、かといって、哲学者というわけではなかった。究極の真理を語るだけなら、大学で学問をやっていればよかったのだが、しかし、Nさんは、社会を変えようという思いを、実践に移さないではいられなかった人だった。理想を求めて、行動をする人だった。ボランティア活動も、その考えから来た行動のひとつだったと思う。
4.世間と思想
Nさんが共産主義思想を持つに至ったのは、家庭の事情があったと聞いていた。親のリストラと、家庭内不和があったという。その意味で、Nさんは弱い立場に置かれた人だったし、弱い立場の人を助けたいという考えを持った人だと思う。世間は、同質・一様でなく、世間の大衆の中には、強い立場の人もいれば、弱い立場の人もいる。その弱い人たちにとっては、世間の流れは、厳しい仕打ちになることがある。リストラで会社を首になるなんていうのは、その例だろう。そうなると、世間から厳しい仕打ちを受けた人たちは、やはり、思想を持つようになる、と私は思うのである。
その厳しい仕打ちを受け止める仕組みが、かつては、宗教であったと思う。宗教が、この世の中は厳しくて生きづらいが、あの世で救われるので、日々頑張り続けるように、と促していた。しかしいまや、日本の大多数は、無宗教だ。また、日本の世間は、小さな宗教・新興宗教を毛嫌いする傾向があるようにも思える。そこで、Nさんにとって、たまたま見つけられたのが、共産主義の思想であった。もしかしたら、オウムの思想になっていたかもしれない。そこで、「そんな思想にはまるなんて、とんでもない」と批判するのは簡単だ。しかし、そんな立場はある意味で傍観者的である。弱者がすがるべき、穏健な思想については、世間が、尊重しなければいけない。
日本社会の無思想は、日本の特徴として、維持すべきものかもしれない。しかし、すべての人が無思想なわけではない。思想を持っている人がいるということも、大切にすべきであるような気がする。いざ弱い立場になって、世間に居場所がなくなってきたとき、やはり頼ってしまうのは、思想だと思う。
参考文献
養老猛司『無思想の発見』(ちくま新書)
佐伯啓思『西田幾多郎』(新潮新書)
『日本人は何を考えてきたのか 昭和編』NHK取材班 編著(NHK出版)
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