科学哲学、学問論
1.科学の哲学
言語学は、科学なのだろうか? これが、私の素朴な問いである。言語学が科学であると断言する先生は、けっこう多い。また、科学かどうかは論じず、いきなり専門的な各論に入る先生もいる。私はニュートラルな立場である(もとより、ただの、素人の、サラリーマンである)が、この問題には関心があるので、少し考えてみたい。
まず、科学とは何か? を考えなくてはいけないだろう。言語学概論の授業では、科学の定義から話を始める先生が多いからだ。そういう先生は、科学とは何かを考える。次に、言語学は科学の定義に該当すると主張する。そうして、科学としての言語学の授業が始まるのである。科学というにとどまらず、言語学は科学のなかでもとくに自然科学であると主張する人もいるようだ。
科学とは何か、自然科学とは何か、ということを論じる必要があるのは、言語学がまずもって手法が重要な学問だからである。whatよりも、howが大事な学問なのである。どういうことかというと、言語というものは多くの人々が日常的に使いこなしているのであり、その意味で言語とは何か(what)が分かっている人は多い。だから、学問としての言語学を根拠づけるためには、どのように(how)論ずるかが大事であり、科学的手法でもって言説を展開していると言わなくてはならない。なので、言語学は手法の厳密性にこだわるのである。かつては言語に対する、思弁的研究があった。とくに、語源の分野において、大した根拠もなく、語源を主張する人々がいた。そうしたことへの反省から、科学性があるのだと一言述べてから言語学は始まるのである。
ある学問が科学的かどうかは、科学的方法といわれる手法をとるかどうかに依存するようだが、その科学的方法というものが人によって何を指すかさまざまである。観察によって一般仮説を定式化していくことを科学的手法と呼ぶのかもしれない。しかし観察にも理論的なバイアスがかかっていると主張した科学哲学者もいた。純粋な観察というものは、可能なのか?
2.言語学は科学?
「言語学は科学だ! つまり、言語学というは、言語科学(げんごかがく)なんだ!」と主張する人がいるが、こういう人には注意しなくてはいけないと私は考えている。科学ということばがイデオロギーを帯びているからである。どういうことかというと、科学ということばは、いまでは多義的に用いられるようになってきたため、その定義はあいまいになっているにも拘わらず、科学ということばが持つ権力、もしくは政治性を、その人は利用したいのかもしれないからだ。なので、注意が必要なのである。
次に、「言語学は経験科学だ!」 という人もいる。経験科学ということばは、あまり耳慣れない。逆に、非経験科学ということばがあるのかは私には不明である。なので、言語学は経験科学であると発言する人がいるとすれば、それは科学にこだわりがあるというよりも、むしろ経験に基づいて言語学を進めたいという意思表示であろう。経験に基づいて進めたい、というのは、理屈だけで進める言語学に限界を感じているということである。こういう人は、チョムスキー派の生成文法のような、理論上の概念が多用された議論を嫌う傾向にある。よって、理論にさらに理論を積み上げていく感じではなくて、もっとシンプルに、言語データの中のある、単語の出現頻度を調べたりする、統計学的調査とかが好きなのかもしれない。
最後に、「言語学は自然科学だ!」という人については、私は警戒することにしている。この主張も、イデオロギー的である。それほどまでに言語学の権威づけをしたいのであろうか。また、言語学が自然科学だとすると、フィールドワーク的な人類学や、文献学や、文学といった、かなり多くの学問が、自然科学に入ることになってしまうと思うのだが。さらに言うと、「自然科学」という用語自体が、なんだかふんわりした啓蒙的用語ではないか。職業的な研究者が、自然科学という言葉を使うだろうか? もっと具体的な学問名を普段は使っているのではないだろうか。自然科学ということばは、高校生の用語みたいな雰囲気すらある。
参考文献
もどる