哲学


0.高校の倫理の授業

  哲学とは何なのか? 私にはさっぱり分からない。言語学専攻だったから、哲学のことは分からなくてもいいのだろうと思う。しかし、言語学をやる中でときどき哲学がかかわってくることがあるのだ。哲学という学問が何なのか自分の言葉で語れないと、自分が哲学の何を気にしているのかも分からない気がする。これがスタート地点の認識である。今は分かるような気になるときもあるが、やっぱりよく分からないままである。

  高校には「倫理」という科目がある。私が通っていた高校では、倫理の先生が二人いた。ひとりはやたらと熱い、熱血な先生だった。みんなから「金八先生」とあだ名されていたこの先生は「高校の倫理は、哲学だ!」と宣言し、哲学者たちの人生や思想を熱く語る先生だった。この先生はソクラテスのことをソクラテスといい、アリストテレスのことをアリストテレスというので、この延ばして発音することについて生徒たちの中でネタにされていた。今となってはこの発音はギリシア語として正しいと分かったので、この先生の凄さを改めて認識した。高校生であった私にとって、哲学という学問があることは知ってはいたものの、まさか高校の授業に哲学があるとは思わなかった。というのも、哲学とは、どこかの山奥で仙人みたいな人がひたすら思索にふける学問であって、田舎の普通の高校で学ぶことができる科目だとは思っていなかったのである。この先生が、高校の倫理とはすなわち哲学であると言ったことは、私の中でインパクトが大きかった。

  しかし、授業を受けている他の同級生たちは、あまり授業に身がはいっておらず、この先生のせっかくの熱意も、のれんに腕押しであった。そんな中、私は比較的まともに授業を聞こうとしていたほうだと思う。さて、高校3年生になったとき、倫理は選択科目の一つという扱いであり、もはや物好きな連中だけが選ぶ科目となっていた。そこで物好きの一人として私は倫理を選択したところ、授業の担当は、もうひとりのほうの先生で、「金八先生」とは真逆の、表向きあまり熱意の感じられない物静かな先生だった。授業は淡々と進み、それほど面白くはなかったので、私は授業をあまり聞かず、センター試験対策として日本史の教科書をひたすら読んでいた(今となっては申し訳ない)。ただ、この先生の言っていたことでひとつだけ耳に残っていることがある。それは日本を代表する哲学者で、倫理の教科書に必ず載っている、西田幾多郎についてのことだ。この先生は西田について、「世の中の学者の中には、西田幾多郎の研究に一生を費やす人がいるのだが、こんな人に一生をかけて研究することはない」と言っていたのだ。私はいまだにこの一言が頭に残っている。それは、あの先生の何かの強い思いの表れで、なんらかの矜持だったのかもしれない。おそらく、西田幾多郎の思想が好きではなかったのだろう。西田の思想は戦争に利用されたとか言われることもあるからかもしれない。西田の思想をほとんど分かっていない私だが、この一言は今もなぜか覚えている。

  このように、私は高校の倫理という授業で哲学の一端に触れたと思っており、今でもそれは正しいと思っているのだが、根本的な疑問が一つあった。それは、なぜ言っている内容の次元がばらばらなのだろうかということだ。ギリシア哲学は万物の根源について考えたりする。中世以降は、神の存在などについて語ったりしている。かと思えば、フランシス・ベーコンが「知は力なり」などと言ったとか教えられる。サルトルみたいに文学者なのか哲学者なのかよく分からない人もいて、どう生きるべきかというような問いをたてたりしている。そして西田幾多郎は、善の研究などといった本を書いている。いったい、哲学というのは、どういう中心軸を持つのか、よく分からないのだ。哲学は、雑多な学問の集積なのだろうか?

  他の学問を考えてみよう。たとえば言語学ならば、分野として歴史言語学から言語習得論までさまざまあるものの、それらはすべて言語を中心軸としている点で共通している。また、数学ならば、微積分があったり確率があったりするが、数に関する学問だと言えるだろう。それに対して、哲学はどうか? 万物の根源という、物理学の基礎みたいな話から始まり、宗教の話をしたり、人生の話をしたり、善の研究だと、まとまりがないではないか。高校生ともなれば、知に体系性・階層性を求めるものである。こういった、単発的で相互にあまり関連性が見いだせない知識群は、学問としての魅力に欠ける。

  高校倫理の教科書の記述を読んだだけで、それぞれの哲学がわかるはずがない、というのが私の今の結論である。仮に高校倫理の教科書だけで哲学が分かったと言っている人がいたら、それは何も理解していないと言っているに等しい。高校倫理は、キーワード紹介の科目なのであって、それは哲学の姿勢とは全く異なる。それを掘り下げて、なんとか哲学の姿勢をわからせようと熱い授業をしてくれた「金八先生」に、私は感謝している。高校生という最も柔軟で回転の速い時期にあのようなキーワードの棒暗記を強いられるのはかわいそうではある。そしてあの、まとまりのなさは、世界中の哲学のよいところどりをする高校倫理という科目がもつ限界である。したがって今思えば、倫理の授業で欠けていたのは「哲学者」たちがある思想に至った時代背景や社会的な機運といったバックグラウンドの説明だろう。それがないと、紹介される思想がどう重要であったかが分からないのだ。世界中の思想の最重要ポイントだけ取り上げるあまり、分断された相互に関連しない知を紹介されている気がするのである。なのでソークラテースという発音と西田幾多郎への不満しか記憶に残らないのである。彼らは確かに重要な哲学者であるかもしれないが、時代背景の満足な説明なしには、どのような意味で重要なのか分からない。
  ということで、哲学とは何かがまったくわけが分からないままに、私は大学に入学した。



1.ことばの哲学


  高校の倫理は、ぶつ切りの寄せ集め学問のように思えた。そうした知の寄せ集めよりも、相互に関連しあった体系的な学問がやりたいと大学に入ってから気づいた。そうして言語学にある統語論・形態論・音韻論…という、積み上がった体系みたいなものになんとなく惹かれ、専攻を言語学に決めた。言語学の授業を受け、本を色々と呼んだ。こうなると、自分の専攻する言語学が、一番エラい学問であるように思えてきた。あるとき、哲学専攻の友達に「結局、哲学はコトバの問題に帰着するんだから、言語学になってくるんじゃないの?」みたいなことを言った。かなり不遜な発言ではある。哲学より言語学がより根本的な学問だと思っていたのだ。その結果の一例だが、私はヴィトゲンシュタインの思想は、最初は言語に特有の論理を探求したが、のちに言語とはどのように用いられるかという、用法自体が言語の意味するところであるという考えになったのだととらえていた。こんな捉え方ではヴィトゲンシュタイン研究者は怒るだろう。しかし、言語学のほうがより整理されている気がした。

  しかし考え方が変わるような体験もする。西洋古代哲学の授業で紹介された『テアイテトス』というプラトンの著作を読んで、衝撃を受けた。この著作は「知識とは何か」をテーマとしている。この中でヘラクレイトスの「万物は流転する」の考えを説明した箇所があり、そこを読んで、ことばというのは世界のある部分をことばとして固定するが固定した瞬間にもう対象は変化しているとすると、ことばは全くもって何かを指し示すことについて無力なのではないか。そのようなことを考えさせてくれた著作だった。なんでこの著作に興味を持つに至ったのかというと、私は「知識とは何か」というこのテーマに関心があったのだ。



2.哲学が持つ歴史的・各論的性格


  もしかすると哲学は、知識とは何か、人生をどう生きるべきか、宗教とは何か・・・、と個別のテーマについて考えるという意味で「各論」であるといえ、その意味では言語学よりも"実践的"なのかもしれないと思えてきた。このように、哲学は意外にも実践的な学問であると考え直してみれば、時代の変化に沿ってそれが論じていく内容を変えていくのも、納得できる気がしてくる。哲学には、史的な、社会との関わりの観点が大きく盛り込まれているのである。





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