経営
経営
1.経営とは
「経営」とは何か? これほど多義的でよくわからない語はない。どうも、会社の偉い人が「経営者」で、その人たちがやることを「経営」と呼ぶことが多い気もする。では、どこまでが経営者か? 社長は、経営者だろう。専務や常務といった人も経営者と呼ばれるかもしれない。では取締役なら経営者か? 執行役員は経営者か? 部長は経営者ではないのか? 経営戦略室の人たちは平社員のくせに経営を考えているのか? 会社を離れて、たとえば大学の学長は、経営者か? それとも大学は理事長が経営者なのか? もうわけがわからないのである。つまり、どこまでが「経営者」なのか? これは要するに「経営」という言葉自体が曖昧ということだ。正しい定義など無い。とりあえず「経営者=会社の偉い人」くらいにしか帰納的定式化はできない。「経営」に至っては定式化不可能だ。だからこそ「経営の本質は○○だ!」というような、どこかの会社の社長の書いた本が出回る。GEのジャック・ウェルチの本の邦題が良い例だと思う。「わが経営」。つまり、私にとっての経営はこういうものでした、経営とは個別具体的なものですよという含意が、この邦題にある。
会社の偉い人は、正しい判断もするだろうが、間違った判断もする。社運をかけた投資に失敗することもある。失敗も経営のうちなのだろうか。いい時もあるが、悪い時もある。そういった活動をすべて含めて、経営と呼ばれている気がする。しかし山あり谷ありの社長の人生が経営と同義では、少し整理が足りないということで、経営学という学問が存在しているようだ。私は詳しくはないが、経営学には、一方に理論的研究があり、他方に実際の企業の事例(「ケース」と呼ばれるようだ)を学ぶ実践とがあるように見受けられる。どちらにしても、経営は成功も失敗もあるがどうすればより多くの成功を達成できるのかという視点に立ち、より良い経営のありかたを探すために学問的な知見が積み上がっているのだろう。
では、ここでは、規模を拡大させつつ、高利益率を維持している会社を見ることで、経営の一事例を観察してみたいと思う。
2.信越化学の経営
塩ビやシリコンウエハーを製造している「信越化学」という会社がある。一般にはあまり知られていない会社だろうが、その経営については一定の高い評価がなされているようだ。その裏付けとして、信越化学の株価は、化学業界で群を抜いて高水準にある。この信越化学という会社の経営について、いくつかの学問的分析・研究も存在している。例えば、山内・渡辺(2005、東工大社会理工学)『日本化学企業における、インスティテューションと技術経営との共進ダイナミズム』という論文がある。この論文は、信越化学が日本の化学メーカーの中で突出した業績をあげている要因として、
(A)ポートフォリオが汎用分野(塩ビ・シリコーン)と成長分野(半導体・通信関連)でバランスしている。
(B)各事業分野がそれぞれ世界シェア1−3位に位置づけられている。
(C)リスク分散を世界3極体制で行なっている。
(D)日本人の持つ特質(集団の強さ、学習能力、柔軟性)と、トップの強力なリーダーシップとがうまく結び付いて機能している。
などを挙げている。これらは私個人としてきわめて的確な意見であると感じている。が、一方で上記(A)〜(C)は信越化学を現時点で見たものであり、結果に過ぎないとも思われる。これらについては以下でより根本の要因を考えていきたい。
もう一つの研究例として、浅羽・須藤(2007、日本経済新聞出版社)『企業戦略を考える』で、信越化学が紹介されている。日本国内の塩ビ事業に13社目の後発で参入し、アメリカでは最後発でシンテックを設立した信越化学が、いかにして世界シェア1位になったかの要因として、
(A)少数精鋭の合理的経営
(B)マーケットの熟知
(C)他社よりも早い投資
によって他社を市場からふるい落としてきたのだとしている。
私はこの3つの中で、(B)マーケットの熟知と、(C)他社よりも早い投資の2つに着目し、この2つはいかにして可能となったのかを考えていきたいと思う。
3.調査
ここでは独自調査をしてみた。そして、私が感じた信越化学の目立った特徴を以下に列挙することとした。
特徴の列挙は、大きく2つに分けることにする。一つは、会社の体制・組織・行動といった、外から読み取れる面の特徴である。もう一つは、社風・メンタリティといった、外から見えない面の特徴である。
さて、調査といっても結局、本に頼ることになった。以下の書籍が情報源である。
・信越化学工業80年史(以下、『社史』)
・金川千尋『毎日が自分との戦い』1(2007、日本経済新聞出版社)
・金川千尋『社長が戦わなければ、会社は変わらない』(2002、東洋経済新報社)
その他インターネット上の情報も参考にしている。
3.1 信越化学の体制・組織・行動
3.1.1 市況の観察
信越化学の会長である金川千尋は、朝出社したら、海外子会社に市況を聞くのが日課となっている、と自ら述べている。
市況をチェックするのはトップが行なうことであるとインタビューでも述べている。以下にそれを紹介する。
——どうすれば、自信を持ってマーケットの判断ができるのですか。
金川 理屈はなにもありません。市況を見ていればわかります。変わり目、よくなるとき、悪くなるとき、じーっと見ていれば、市況が教えてくれる。
大事なのは、値段とその引き合いの内容です。(需要家が)急いでいるのか、量も売れと言っているのか。「急いでほしい」と言われたときは、1つのサインです。1ヵ所なら特殊事情かもしれませんが、数ヵ所からオーダーがきたときは(潮目が)変わったなということがわかります。
逆は、注文のキャンセルやリスケジューリング(遅らせること)です。これは見逃したら具合が悪い。だから、毎日注意して見ている。他人に任せることではない。ほかにトップはすることがないんです。鉢巻きをして「頑張れ」と言うのがトップの仕事なら楽なもんですよ。(日経ダイヤモンド編集長インタビュー)
このように、情報が下から社長まで上がってくるのを待つのではなく、トップ自らが情報を毎日手に入れようとしている点は注目すべきである。意思決定のスピードがこれによって速まるものと考えられる。このように社長が市況の情報を直接得ている会社は、少ないのではないか。
また、市況に左右される製品を扱うので、好況期に長期の契約をとることにも注力しているように見受けられる。例えば、信越化学は1986年頃から、引き伸ばして光ファイバーの材料とする「光ファイバー用プリフォーム事業」を行なっていたが、金川は「市況の常として必ず反落する時期が来る。特にプリフォームは需要を電線業界のみに依存しており、需給が逆転したときの逃げ場がない」「市況が逆転したときに備え、市況の強いいまこそ全力を挙げて需要家から長期のコミットメントをとってほしい」と事業部に指示した(社史p253)。この結果、2002年に光ファイバー市場が急激に縮小した際も、信越化学は長期売買契約を生かして国内・海外ともに販売を拡大したという(社史p309)。好況時からいずれ来る不況を見据えた行動をとっている例である。契約を巧みに利用していることも注目すべきことであると思われる。
一般的な会社では好況期、不況期の対応のノウハウは事業で蓄積されているだろうか? どの程度、契約を生かしているのだろうか?
3.1.2 川上の統合(特に原料)
信越化学は“川上”にも注意をして事業を行なっているように見受けられる。例えば信越化学の「レア・アース事業」では、レア・アース原料の安定確保のためにアメリカやカナダの企業と契約を結んだという(社史p116)。
信越化学の「半導体シリコン事業」では、金属ケイ素が必要な原料であるが、オーストラリアでケイ石を採掘し精製する会社(シムコア社)を1996年に子会社化して、原料からの一貫生産体制をとることにした。これ以前は、ブラジルやノルウェーから金属ケイ素を輸入していたが、1995年頃から世界的に需給が逼迫しているためにこの買収を行なったという(社史p193)。
いずれも原料確保のための行動であるが、原料を別会社から購入するというのではなく、自社で資源へと直接接近する姿勢が見て取れる。一般的な会社がこういった行動を、リスクをとってまでする必要があるかは不明であるが、この例は原材料が入手しづらくなった際の行動として参考になるものと思われる。
3.1.3 コモディティの重視
一般的な会社ではコモディティ事業の位置づけ方は、「研究開発に費用を投じなくても収益を出せる安定的収益源」だろう。
ところが信越化学のコモディティの事業に対する姿勢は、かなり異なっている。以下に信越化学の社史の記述を引用する。
「これからは“ファイン化、スペシャルティ化の時代”である」という見方が多く、汎用品である塩ビは「市況変化の影響を受けやすく利益を上げることが困難」といった見方がされ、国内外とも塩ビの大規模な設備投資を行なう企業は見当たらなかった。
しかし、当社の塩ビ事業を率いていた金川副社長は、こうした大勢をよそに、生産性を上げ価格競争力を高めることで、塩ビは今後も世界を舞台に発展する有望な製品であるという確信を持っていた。(社史p88)
前節でも触れたが、塩ビはすでに成熟産業であるとして、その将来性に疑問を抱く向きも少なくなかった。しかし、そのなかでも金川副社長は、1988年当時、日本の塩ビ需要は過去10年間平均で伸び率5.9%に達していることなどから、住宅資材などの用途を中心に、需要は安定的に増大すると見ていた。
そして、塩ビのように国際的な景気動向に影響を受けやすい国際市況製品が成長していくためには、
(1)安定的に競争力のある原料を入手すること
(2)最高のプロセス技術を改良・開発すること
(3)製造コストを世界的に最も競争力あるものとすること
(4)品質の安定化と絶えざる改良を行なうこと
(5)最強の販売力を保持すること
(6)物流コストを最小限にすること
などが重要として、それらの実現に取り組んだ。(社史p97)
(略)塩ビはともすれば新たな研究開発の余地がないと思われがちであったが、当社は重合技術やプロセス改良など、塩ビ生産技術の研究開発を重視していた。
(略)当社では塩ビ不況期にも、研究開発部門がさまざまな取り組みを続けていた。(社史p98)
以上のような記述がある。コモディティを事業として持ち続けるということは市況に注意し続ける必要があり、そのため上で述べたように社長である金川自らが海外の市況を毎日チェックしている。市況の細かなフォローは面倒ではないかと私は想像するのだが、それでもコモディティの事業を保有するのを苦にしている様子は見受けられない。むしろ、どの事業もコモディティ的性格を持つものと認識しているような節すらあり、コモディティをうまくやっていくことこそが経営であるという考え方であるようにも思われる。
社史p327、金川の発言
「製品はコモディティとスペシャルティに大別されますが、スペシャルティ製品でも希望する価格で買っていただける製品はそう多くありません。現在、スペシャルティ製品である300mmウエハーでも、コモディティ化が進んでいます。それでも(価格競争ではない)差別化を図ることが可能です。たとえば、1ヶ月間に数十万枚のウエハーをつくっても不良品ゼロを維持していけば、需要家の信頼を勝ち取れます」
こうした、財の付加価値に頼りきりにならないという金川の考え方は、スペシャリティ・ファインを志向するような他の化学会社の考え方との違いだろう。
3.1.4 海外事業部の設置と海外向け人材採用
信越化学は、金川が入社した年あたりで、プラント輸出を主として行なう「海外事業部」を社内に設置した。
当時はまだ、信越化学は国際性に富んでいる状況ではなかった。海外事業部はできたばかりで、交渉・契約のやり方も手探りであったようである。金川は技術系の上司に、インドで契約済みの単価を変更するよう命じられ、その通りインドの顧客へお願いに行ったが結局契約締結後なので何もしてもらえず、物笑いになって帰ってきたという失敗談の記述もある。(『社長が戦わなければ、会社は変わらない』P140)
失敗もあるが、実際にはプラント輸出はかなりの数の国々に対して成功したようであり、その収益は信越化学が不況下でも無配転落せずに済んだ要因になったという。この海外事業部の設置は、信越化学の歴史にとって重要な役割を果たしたと私は考える。というのも、金川が信越化学に転職して配属になったのが海外事業部であったからである。
そもそも金川は、大学卒業後に入社した極東物産ではまず最初に総務部、次に管理部、そして日本国内の営業に配属された。英語で海外とのやり取りをするようなことは無かったようだが、赤十字の外国人職員などから個人的に英語を習っていた。転職を決意して信越化学へ来た際には、国際的な仕事がしたいと希望を出したという(『毎日が自分との戦い』p78)。この結果、希望どおり海外事業部に配属となった。
金川の転職のきっかけは合併による社内の不和や商社というビジネスに嫌気がさしたと記述しているが、おそらくは海外で仕事をしたいという要望がもとからあったものと私は推測する。
信越化学の強みのひとつは、金川の“経営力”であるといわれている。では金川はなぜそもそも経営に立ったかといえば、それは塩ビの子会社シンテックの経営による塩ビの拡販などの海外事業が社長の小田切に評価されたことによる。そのシンテックをロビンテック社と合弁で立ち上げるきっかけとなったのは、プラント輸出先の南米で出会った人物からの引き合いであったという。とすれば、金川がプラント輸出を担当していなければそもそも金川がシンテックを立ち上げて後に子会社化し、自らシンテック社長となって経営するという流れもなかったということである。
以上は信越化学の個別事情であるが、この海外事業部という考え方は着目すべきであるように思われる。現在も信越化学には、独立した組織としての「国際事業本部」がある(社史p386)。
また、会社としても国際的な展開をひとつの事業と捉えていることがうかがえる。たとえば社史で、「マグネット事業は塩ビ、シリコーン、半導体、国際事業に次ぐ第5の柱」との表現で記述している部分がある(社史p114)。国際展開がひとつの事業だと認識していることがここから伺える。
取り扱う製品別に事業部を分けるのは自然であるが、それだけの括りだと海外で偶然入手した別の製品に関する案件を持ち帰ろうという動機が持ちにくくなる恐れがある。ここで、「海外事業部」という括りで、ひとつの事業部を持てば、海外で見つけてきたどんな案件であろうが持ち帰ることに対する動機付けとなる。
海外に関するどんな案件でも取り組めば自分の業績となるようなインセンティブを与えられている人物や部署の存在が重要なのかもしれない。
3.1.5 回転日数の改善
現預金・売上債権・在庫の3つはそれぞれ、現預金→在庫→売上債権→現預金…と互いに科目が移り変わっていくものであると考えられるが、好ましいのはこのサイクルのうち売上債権と在庫になっている期間が短い状態である。
信越化学は「営業資金効率化小委員会」というプロジェクトを開始し、支店や工場で在庫滞留日数・債権回収日数の短縮に努めた結果、1990年12月から1992年3月末までに140億円もの資金の創出に成功したという(社史p128。この頃の信越化学の1年間の連結売上高は4,600億円程度)。
このプロジェクトの実務の細部は不明であるが、このような活動が全社で統一的な方向性のもとに行なわれた点は注目に値する。社内の各箇所へトップが号令を発しないと実現しないことだと思われる。信越化学の強力なトップダウンの指示系統の存在がこれを可能にしたと考えられる。
3.1.6 研究と製造の一体化
信越化学では研究と製造は常に一体のものと認識されている。これはホームページ上の記述からも分かる。『開発部門はテーマに沿って素材の開発を進めると同時に、製造部門との緊密な連携のもと、工場設備を利用して量産化へ向けての実践的な研究開発を行います。これを効率的に行うために、信越化学ではすべてのR&D拠点が工場敷地内にあり、各事業や製造部門と密接に結びついています』。
たしかに同社のホームページを見ると分かるが、信越化学では工場内に研究所が存在しているようだ。
先端的研究も、独立した研究所で行なっているということはない。研究は、アウトプットである製造と結び付けて考えるのである。
3.1.7 ファインに対する慎重姿勢
聞くところにによれば、化学メーカーの事業は凡そ3つに分けられ、それは(A)コモディティ、(B)スペシャリティ、(C)ファインの3つであるという。
(A)コモディティは主に基礎化学品を指し、コストの低さこそが競争力となる事業である。(B)スペシャリティは顧客の要望にあったグレードをすぐに作って提供できるかの勝負である。(C)ファインは、いかに優れた特性を持つ化合物を発見・合成できるかどうかの勝負である。
このような定義に従って述べるとするなら、信越化学が塩ビでシェアを拡大していった背景には、コスト競争力のある塩ビ製造技術を研究し続けたという姿勢があり、コモディティの製造技術に関する研究を怠らない姿勢があったものと思われる。
また、信越化学のシリコーン事業はおそらくスペシャリティに分類でき、現在シリコーンのラインナップは4000種もあるという。
一方で、信越化学はここで定義したところのファインにはあまり手を出さない方針であるように見受けられる。医薬品用カプセル等を製造するセルロース事業はあるものの、農薬・医薬品原体の開発・販売は信越化学の事業には無い。金川は、リスクの観点から「当社は基本的に人体に入るものは深追いしない」とも述べている。
ファインに頼らない、むしろ慎重姿勢である点が特徴的だ。
3.1.8 商社的行為
この報告の他の箇所とも重複するが、信越化学の特徴は販売の重視・資源への接近・積極的な海外展開といったように、商社のような機能が強くなった化学メーカーだという点である。これは一般的な会社グループとはかなり異なる点だと考えられる。
信越化学には子会社が多くあり、販売活動をそれぞれの子会社が行なっているだろうが、販売を重視する経営者が、グループ本体のトップであるという事情もあり、本体が中枢になって子会社は手足になっていると推測される。販売を中枢に据える、これがポイントに思われる。
3.2 信越化学の社風・メンタリティ面
個人的の受け止め方によるところが大きいので根拠が必ずしも論理的でないこともありうるが、以下に信越化学の社風やメンタリティの面で特徴であると私が感じた点を挙げることにする。
3.2.1 強いトップの権限
信越化学が強いトップダウン経営であるというのは至るところで認識されている事柄であると思われる。社長が最大の権限を持つのはピラミッド型をした会社組織であれば当然のことであるが、信越化学はその強さの度合いが大きいのではないかと感じられる記述がある。
まずもって、信越化学の社史でも、金児昭の著書でも、小田切や金川に関する記述が非常に多い。
金川は社長就任後も積極的な投資を繰り返してきたがそのリスクをとることができたのも、社長がその下の序列(副社長や専務)とは圧倒的に差があり、下の意見に惑わされること無く一人の意思で物事の進退を決定できたからではないかと想像される。
好業績のために必ずしも強いトップダウン経営にしないといけないわけではないが、強いトップダウン経営がなされている組織は、慎重を期する横並びの権限の組織よりもスピードが速い分、効率的であり、変化にも対応しやすく、経営判断さえ的確であれば成長しやすいと思われる。したがって信越化学の急成長を他社と比較する際には、この社長権限の強さの分を割り引かないと比較評価できない。
社長がリスクを一人が背負って決めるのは、本来は危ないものである。会議で大勢で検討するほうが堅実である。このあたりは会社の社風による。
3.2.2.合理思考
信越化学は日本的な慣習にとらわれず、欧米的ともいえるような合理思考をもとに経営されている面があると思われる。特に私の印象に残ったのは、既に結ばれている契約を変えることも恐れない態度である。これについて、信越化学の社史に、小田切による興味深い記述があったので以下に引用する。
「当時を振り返ってみますと、(中略)血の滲む合理化を実施しました。多少目途が立ち始めていた昭和55年には、追い打ちをかけるように第2次オイルショックが起こりました。原燃料が暴騰し、資源国とのコスト格差が急激に拡大し、エネルギー多消費型産業、石油化学工業を中心に世界的な大不況に見舞われた時代でした。
当社におきましても、5工場中4工場が赤字となり、大変な経営難に直面いたしました。
なかでも鹿島工場の赤字は莫大で、シリコーンがいくら頑張っていても、このままでは当社全体の経営を危うくするレベルに達しており、この工場の立て直しが経営の最優先課題になっていました。
鹿島コンビナートは、昭和43年に発足した日本における最新鋭の国際規模の石油化学コンビナートで、立地条件、公害対策、港湾設備など、他に類を見ないほど優れており、かつ参加各企業の各事業も日本最強の事業集団でありました。
しかし、昭和43年に締結された企業間の契約は、『鹿島コンビナートのコストが、日本のみならず国際的に見ても最大の競争力を持ち続けうる』ことを根底においた『物の流れ中心』の内容と体制になっており、各企業の努力や市場原理がまったく働く余地のないものでしたが、原油価格の暴騰により、この根底が覆されたわけですから手の打ちようがありませんでした。
当社は、いわゆる『優先塩素』、『エチレン価格問題』など基本問題を抱え、他社とは比較にならない大きな皺寄せを受け、塩ビ事業は致命的な痛手を被ったのです。
この難局打開のため、(中略)コンビナートの関係各社にコンビナート契約の改定を繰り返し強く申し入れ、改定のためのテーブルに着くように要請し続けました。
しかし、石油化学全般が不況のさなかにあり、各社の利害が相反するため、遅々として進まず、『信越は身勝手すぎる。信越さえ契約を守れば何の問題もない』として日増しに関係各社の当社に対する感情は悪化し、当時は、関係各社の人々に会うことすら苦痛の日々が続きました。
このような状況下、私に勇気を与えてくれたものが、(A)社内でできるあらゆる血の滲むような合理化に黙々と取り組んでくれた、勤勉で誠実な皆さんがおられたこと、(B)当社の優秀な塩ビ製造技術は、海外事業本部の優れた営業力により、世界の競合ライバルメーカー(略)を相手に次々と競争に打ち勝ち、塩ビ製造設備の技術輸出を成功させ、第1次オイルショック以後の経営難を救うべく大きな貢献をしていたこと、(C)シンテックが創業(昭和49年)以来、競争の激しい米国において、あらゆる苦難を乗り越えて立派に経営を続けてきた、その当社経営者の経営力でした。
(中略)金川さんは、私が不退転の決意で臨んでいることを十分理解され、連日、鋭意交渉にあたってくれましたが、当社に対する非難の声が強まるだけで、進展は見られず、暗礁に乗り上げた状態が続きました。この間に、これまで進めてきた交渉方法では解決できないと判断し、最悪の事態に対する準備をも始めてもらいました。
一方、私は、当社主要金融機関に対し、事情を説明し、当社の行動について理解をいただくとともに、長期戦に備え、支援をお願いして回りました。
このような舞台裏の準備のもとに、十分に練り上げた契約改定要請の文書を関係各社に届けるとともに、鹿島電解よりの優先塩素引き取り辞退の行動に出たのです。
関係各社は、当社の並々ならぬ決意と万全の体制を察知してか、(中略)当社の主張に耳を貸していただけるようになりました。ようやく旧契約に基づく権利、義務をいったん棚上げにし、新契約作成のテーブルに着いてもらうことができたのです。
このような経緯で、昭和58年にできあがった新契約は、当社の主張が取り入れられ、市場原理が働き、各企業の努力がそのままその企業に利益をもたらすとともに、コンビナート全体の発展にも繋がる本来のコンビナート精神が発揮できる形となりました。」
(以上、社史p69〜72、原文は下線なし)
信越化学は過去に結んだ塩素の引き取り契約により、塩ビ不況の中でも塩素を高い価格で買い続けるという義務を負ってしまっていたが、この構造的な問題を、契約に従わないという強硬な形で解決した。強行な手段に出た背景には、海外のシンテックから安く塩ビ原料が調達できるという事情があった。金融機関への説明(おそらくは同業との関係が冷え込んだ時に備えた借入の準備などと推測される)など、相当の準備をして臨んだことが伺える。日本的慣習を重視する会社であれば、同業との付き合いがあるにもかかわらず契約に違反する行動をとろうという発想がそもそも出ないのではないかと思われる。
他の例としては、信越化学は借入金を極力すぐに返済する方針をとっていることがあげられる。金川は「会社が潰れるときは借金で潰れる」という考え方を持っており、借入金は無いほうが良い、という姿勢で経営をしていると考えられる。この結果、信越化学の自己資本比率は非常に高く、2008年には70%を超えている。銀行との付き合いを考えるといったことでなく、シンプルに合理性をもとに行動している。
一般的な会社は、株式の関係等で借入金返済はせずにいたりする
このあたりも信越化学の合理思考との違いが見受けられる点であると思われる。
100%子会社化したシンテックの社長には最初アメリカ人を据えたが、その人物は塩ビ等の汎用品を扱ったことが無く、経営の方針が合わなかったので、違約金を払って契約期間が終わる前に辞任してもらったという(社史p63)。また、オーストラリアで金属ケイ素を精製するシムコア社を子会社化したが、そのシムコア社のCEOも更迭している(『毎日が自分との戦い』p152)。
このように、人事や借入先の決定、そして同業他社との契約の内容までも、経済的合理性でもって判断を下し、白黒はっきりすることを厭わない。
3.2.3 研究や技術に依存しすぎない態度
信越化学はメーカーであるので当然、研究開発は重視しているのだろうが、研究を企業価値の中心に置いているとは思われない。少なくとも金川は、新規事業の立ち上げに関して、「研究者には事業化を任せない」と明言している。
「研究と事業とでは、サナギとチョウほどの違いがある」と金川は表現しており、過去に新規事業立ち上げを研究者に任せた際には失敗したことがあるので、それに懲りて事業化の判断は経営の経験がある人が行なうべきと考えるようになったとも書いている。(『社長が戦わなければ、会社は変わらない』p134)このように、研究と事業との区別をトップが明確に認識しているという点は、着目すべき点である。私の印象では、一般的な会社では、研究と事業を連続しているものと捉えているように思われる。
研究開発に経営資源を集中投入することによって独自の高付加価値の財を生み出し、競争相手が殆どいない、あっても数社であるような財の市場で高利益率の販売を保つ、というのが、ニッチトップ戦略をとる企業の方針であると思われるが、信越化学の経営はおそらくこの方針ではない。新規分野ではなくて、塩ビやシリコンウエハー等、既に競争相手が多い分野で競争をして、競争相手を撤退させてシェアを握るという方針である。
金川は、信越化学が成長したのは技術が秀でていたからだとは考えていないようである。「信越化学は塩ビ技術ライセンスをファイアストンやテネコ・ケミカルズに供与したが、両社とも(当社と同じ技術を手に入れたにもかかわらず)塩ビ事業はうまくいかなかった。結局は、収益に反映されるのは(技術ではなくて)経営である」との趣旨の記述をしている。(『毎日が自分との戦い』p167)。少なくともこのような記述からは、経営者の研究や技術に対する見方がニッチトップ戦略の会社とは異なるように感じられる。
3.2.4 販売の重視
金川は販売を重視した経営をしている。生産した製品は、必ず完売するという姿勢を持っている(社史p129ほか)。「作った物は全部売ります。それが(信越化学の)歴史と伝統だから。」と述べている(週刊ダイヤモンド編集長インタビュー8)。信越化学の会社ホームページの中にも、金児の著書にも、「フル生産・フル販売」という表現が幾度と無く登場する9。そのほかにも、プラントを増設した際に、まだ増設工事が完了する前から、営業担当者がその増設分の販売先の確保に走るという記述がある(社史p129)。
ただし販売力の重視のため営業担当者の数を増やす、というわけではないようである。少人数の営業担当者でいかに販売力が強くなるのかは信越化学のノウハウであり不明であるが、世界中に販売するために海外子会社と協力している旨の記述は社史に見られた。例えば、子会社のシムコア社の金属ケイ素の拡販のためには、国際事業本部やシンテック、信越インターナショナルヨーロッパなどと連携したという記述がある(社史p194)。
営業の人数は増やさないものの、販売活動にあたる営業という機能を非常に重視していることが、『プレジデント10』の金川へのインタビュー記事に「事業の成功の7割は営業で決まる。」という記述があることからも分かる。
3.3 まとめ
以上の内容を再度簡潔にまとめてみる。
信越化学は、いわゆる「ニッチトップ」戦略とは異なる戦略をとっている。信越化学の売上高規模の大きさは、主に塩ビや半導体シリコン事業といった、市況をフォローする必要のある製品の事業から来ている。これらの事業を支えるものは、社長自らが情報を収集しマーケットを熟知することに加え、強いトップの権限でリスクを背負って他社よりも早く設備投資を実行する判断・実行力であり、その投資の為に日々キャッシュを得る、信越化学の伝統ともいえる販売重視の姿勢である。国際事業本部や海外の拠点の存在も、世界中での販売活動を支えている。他方でコスト競争力も常に意識されており、原料調達先を自社グループに取り込む等の対策もされている。医薬・農薬といったファイン分野には、リスクを考えて進出しない。研究や技術に過度に依存しない態度も見受けられる。全体に渡って、合理性を判断根拠に行動している。
問題としては、トップダウンの経営方針・合理思考が、必ずしも日本企業・日本人の考え方や姿勢に合致しないのではないかという懸念点がある。少数精鋭かつ販売重視という姿勢も、各事業部に対し過度の負担をかけるおそれがある。これまで早い投資で他社に先行してきたが、この早い投資が失敗するリスクもある。
対照的に、信越化学とは異なり、いわゆる「ニッチトップ」戦略をゆく会社があるとしよう。この会社は、バルクな市況製品に注力せず、高付加価値財の研究開発活動に注力するだろう。事業はコモディティ・スペシャリティ・ファインなどに分かれているかもしれないが、おそらく重視しているのは高付加価値のファイン分野である。よって今後コモディティで規模を拡大するといった行動はとらないように見受けられる。ここが最大の違いであろう。
信越化学のように強大な権限の中枢がないとする。その場合は、頭脳が分散されているために販売や海外展開のノウハウが子会社に埋もれていたり、事業部間で共有されていないおそれがある点や、グループ全社的な業務改善の取り組みがしづらい。また、研究に対し資源を積極的に投入する姿勢があるが、信越化学と異なりファインに注力する為、これらファイン分野の研究開発費を安定的に賄い続けられるかという問題もある。規模が拡大しなければ買収のリスクもあろう。
4.レゴ社の経営
次に、信越化学とかなり異なるタイプの会社を取り上げてみよう。デンマークの玩具会社レゴの経営改革について書かれた『レゴはなぜ世界で愛され続けているのか』(日本経済新聞出版社)という本を読んでみた。
レゴは、組み立てブロックで、建物や街並みをつくることができるおもちゃである。このような伝統的といえるおもちゃ会社であったレゴ社は、子どもたちがテレビゲームや電子玩具で遊ぶことが増えていることに危機感を覚え、1998年にポール・プローメンという外部の人材を招き会社を大きく変えることを図った。プローメンは、イノベーションの理論(「イノベーションの7つの真理」)に従って会社を大きく変えようと考えた。それは以下の7つであるという。
1.創造性と多様性に富んだ人材を揃えること。
2.ブルーオーシャン市場(誰も手を付けていない市場)に進出すること。
3.顧客主導型になること。
4.「破壊的イノベーション」を試みること。
5.オープン・イノベーションを推し進めること。
6.全方位のイノベーションを探ること。
7.イノベーション文化を築くこと。
それぞれの詳述は省略するが、これらはいずれも、裏目にでることになった。
1.創造性と多様性に富んだ人材を揃えることを目指して、レゴ社はデザイン・ブームの先端都市へ拠点をつくったが、その拠点と本拠地とが融合しなかった。本拠地側で拠点を制御・管理できなかった。チーム間の協力ができなかった。
2.誰も手を付けていない市場への進出を図り、ムービーメーカーという計画を立てたが、この拡大を急ぎ過ぎた。相応しいペースでなかったので、需要の増減に合っていなかった。たとえば、最初のセットを「育て」てから追加セットを売り出すべきであった。
3.顧客主導型になろうとして、従来の組み立てるおもちゃの要素を減じてしまった。これが、組み立てを好む旧来からのレゴファンの不満を買った。ジャック・ストーンというカッコいい顔のキャラクターをデザインして売り出したが、この架空の人物が、客には受け入れられなかった。
4.破壊的イノベーションを試みることの一例として、ダーウィン計画と呼ばれるレゴの3D化プロジェクトを立ち上げたが、この計画はとん挫した。あらゆることを3Dでしようとして、急ぎ過ぎた。技術的な困難もあった。そして、このプロジェクトは社内の他の部署から隔絶していたので、誤りを修正してくれる仕組みを持たなかった。
5.レゴ・ファンのアイデアを取り込んだソフトウェア開発という形で、オープン・イノベーションを進めようとしたが、利益を出せなかった。
6.全方位のイノベーションを探るということで「ガリドア」というオリジナルシリーズを作ったが、ヒットしなかった。なぜならその頃、子どもたちはレゴ社の「バイオニクル」という別のシリーズに夢中になっていたであり、投入タイミングが早すぎた。
7.イノベーション文化を築こうとしたものの、新しいプロジェクトのチームが本体と連携しなかった。
幅広いイノベーションに挑戦するときには、段階的に取り組み、学びながら進むことで、リスクを小さくしていかなければならないのであったが、急ぎ過ぎて目先のことにとらわれてしまった。イノベーションには順番やペースが重要であるが、それを考えられなかった。
結果として、イノベーションを試みたプローメンは、解任された。次に社内から抜擢された人物は、ヨアン・ヴィー・クヌッドストープ(Jørgen Vig Knudstorp)という、まだ30代の人物であった。
ークヌッドストープはくしゃくしゃの髪に、ハリー・ポッターのようなメガネをかけ、レゴのことならなんでも少年のように目を輝かせる人物だった。経営陣の目には、実年齢の33歳より若く映ったにちがいない。勤続20年や30年の社員がめずらしくなく、40年などという古株もいるレゴにあっては、18か月前に入社したクヌッドストープは新人中の新人だった。しかしそれでもすでに、レゴグループ内で随一の人脈を築いていた。
博士号を持ち、幼稚園で一年半、教員になるための実習を受けてから、産業界に就職したという変わり種で、レゴの前は、世界的な戦略コンサルタント会社マッキンゼー&カンパニーのコペンハーゲン支社に勤めていた。1990年代後半、マッキンゼーのコペンハーゲン支社は、競争心旺盛なデンマーク人ばかりだった。当時の同僚によれば、クヌッドストープはそんな社内で異質の存在だったという。温和で、ちょっとオタクっぽく、いつも最新の電子機器を持ち歩いていたらしい。それでもコンサルタントとしては優秀だった。しかし保守的で男くさい文化にはなじみきれず、入社から2年半で退職した。マッキンゼーでもそこまで早く辞めるのは、めずらしかった。
(『レゴはなぜ世界で愛され続けているのか』p85)
クヌッドストープは会社の問題を以下のようにまとめていた。
・経営陣に、連携がない。自分の担当しか見ていない。
・とりすました態度をとっている。
・デザイナーや開発者が、自社のビジネスへの関わりを把握していない。
・部下に仕事を割り振れない上司がいる。
・決定事項を実行することが不得手である。
・在庫を正確に把握できない。よって財務予測が立てられない。
レゴ社は、革新的なことをしようという強い思いのあまり、多くの方向に向かい過ぎ、すべての新事業を管理できなくなってしまっていたのである。つまり「統制」と「集中」を欠いていた。そして、実行力がなかった。危機に陥ったレゴ社ではまず何よりも実行が重要であると考えたクヌッドストープは、あえて戦略をたてず、サバイバルのための行動を重視した。危機において重要なのは行動であり、つぎに習慣、そして信念という順を意識したのである。
過去に廃止したデュプロという人気シリーズを復活させた。また組み立てブロックの特殊ピースが、生産コストが高いにも関わらず増えすぎていたので、ピース数の削減を目標化した。また、FMC(全部製造原価)の順守を徹底した。こうして創造のエネルギーに統制と集中を与え、レゴ社の業績は回復した。
レゴ社の2015年のアニュアルレポートを読むと、驚異的な業績数字が並んでいる。ROEが、なんと60%だというのである。日本企業は「8%のROE目指して頑張れ」と伊藤レポートに書かれて追い立てられている中であろうが、レゴは余裕の資本生産性を誇っている。何も自己資本比率が低いのでこのような高ROEが算出されてくるわけではない。自己資本比率は63.7%だとアニュアルレポートに書いてある。つまりは、高いROEの理由は本業の利益率が高いという、本来的な理由なのである。営業利益率(Operating margin)は34.2%、税引き後の売上高純利益率(Net profit margin)は25%にも達している。業種が違いすぎて単純比較に意味はないが、信越化学ですら、当期純利益率は11%くらいである。このように、いかにレゴの業績が良いかが数字で明らかになっている。
5.「アントレプレナーシップ」と「マネジメントスキル」
私が非常に共感を覚えた新聞記事を挙げよう。LSI開発の会社であるメガチップスの進藤晶弘会長は、日経産業新聞でこのように書いている。
「起業家には、アントレプレナーシップ、専門分野のナレッジ、マネジメントスキルが必要だ。ナレッジは社会に出て仕事をすればある程度身につけることができる。しかし、アントレプレナーシップとマネジメントスキルは対極にある資質であり、一人の人間がバランスよく調えることは至難の業だ。アントレプレナーシップは性格、意識、資質が混然一体となった、人間力とも、広義のリーダーシップともいえる。自己責任意識、強い意志、挑戦心、決断力、リスクテイク、人への関心など定量化が困難な資質で、「熱い心」そのものだ。」
「一方、マネジメントスキルは事業を組織化して展開する能力だ。マーケティング、組織経営、財務など、論理的かつ定量化が可能で、後天的に身につけることができる。いわば「冷静な頭脳」だ。」
進藤氏が起業家の条件としているのは、まさに、経営者が持つべき素質でもあると思う。そして、上で見てきた信越化学の事例で、金川社長が持っていたのは、このアントレプレナーシップとマネジメントスキルの2つなのではないかと思う。これに対し、レゴ社の事例では、アントレプレナーシップが社内に点在していたように思われる。それらがまとまりを欠いていた。そこでクヌッドストープ社長は、アイデアが先立ち行動がまとまらないレゴ社を統率するため、まずはマネジメントを重視したように思われる。