カントの哲学
Metaphysics by Kant
「我々は、ひなた雨の際に現われる虹は確かに単なる現象にすぎないが、しかし陽に照らされている雨のほうは物自体であるなどと言うことがある。」
「しかし先験的な見方からすれば、雨滴が現象であるばかりでなく、その円い形態すら、それどころか落下する雨滴を含むところの空間さえ、いずれもそれ自体として存在するものではなくて、我々の感性的直観の様態或は根本的変容にすぎない。」
(Immanuel Kant 1724~1804)
これらの文は、カントの『純粋理性批判』(篠田秀雄訳)に出てくる表現である。名文ではないだろうか。虹も、雨滴も、空間さえも物自体ではなくて、私たちの認識にすぎないと言っているのである。
カントの哲学を少し勉強する必要が生じた。まさかこの歳になって、哲学を必要とするようになるとは。しかもカントような"古い"哲学が必要になるようになるとは、夢にも思っていなかったが、関心の移り変わりというのは意外な方向に行くものだ。それで、具体的に、何をしたいのかというと、フランス語のtranscendantという語は、どう日本語にすればよいか、ちょっと勉強したいのである。この語がカントの哲学に出てくる用語かと推測するのである。もとより、カントの哲学を学ぶのは一生の仕事になると思っているので、敬して深入りしないようにしようとは思っている。
1.カントの哲学とは?
カントの哲学は、どのようなものか? 「カントは、哲学の教科書だ」と、哲学科出身の友達が言っていた。どういうことかと彼に聞くと、「カントは、哲学にできることと、できないことを決めようとした」と教えてくれた。
カントは、哲学がなんだか訳の分からないことを述べる学問になってしまっていると感じたかららしい。なので、「ここまでは確実に言える。」「ここから先は、どうにでも言えてしまうので、言ってはいけない。」などというように、哲学が言えることと言えないことを、区別しようとした。そうして、何でもかんでも論じようとする哲学に対して「ここで行き止まりですよ、それ以上は立ち入ってはいけませんよ」という立札を立てて回って、哲学の守備範囲を適切に制限しようとした。これをカントは、批判(Kritik)と呼んだのであった。
2.transzendentalという語の訳
論点が天下り的で恐縮だが、transzendentalという語が、カントの哲学のキーワードの一つであるようだ。なので、transzendentalがどういった意味なのか、素人ながらに勝手に考えてみよう。まず、ここで、カントが『純粋理性批判』の中で、transzendentalという語を定義する部分が、日本語訳ではどう訳されているかを確認してみたい。そこで、篠田英雄さんと中山元さんによる翻訳を以下に挙げる。見比べてみよう。
私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方―それがア・プリオリに可能である限り、―に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。
篠田英雄 訳『純粋理性批判』(岩波文庫)
わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。
中山元 訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫文庫)
ここに見るように篠田英雄さんの訳では「先験的」、中山元さんの訳では「超越論的な」、と訳されている。
世間的には、「超越論的」と訳すほうが、一般的であるようだ。中山元さんの訳注いわく、『カントのいう「超越論的(トランスツェンデンタル)」という語は、「超越的な(トランスツェンデント)」という語に基づいて、カントが哲学的な用語としてつくったものである。(中略)対象の認識そのものではなく、人間が対象を認識する方法そのものに、自己言及的にまなざしが向けられているのである。』。なるほど、人間が対象を認識している様子についての認識を、transzendentalな認識というようだ。
どちらかというと、私は訳文全体の雰囲気では岩波文庫の篠田さんによる固い感じの訳が好きなので、篠田訳を採用できないのは少し残念なのだが…。
3.transzendentという語の意味
では次に、transzendentという語について考えてみたい。transzendentalが「超越論的」であるというのなら、ではその派生元となるtranszendentを「超越的」と訳すことになろう。ではその超越的とはどういう意味なのか? これを理解していないのでは、本末転倒である。
専門家は超越的というのをどういう意味だと理解しているのだろうか。中山元さんの訳書にある解説によると、『超越とは、神や不死の理念のように、人間の理性によって判断できる領域を「超えた」ということであり、(中略)理性にとっては重要な課題ではあるが、その理念の真理性を保証することはできないものである』(p308)とある。そうか、ということは、理性によって判断できる領域というのを超えていることを超越と表現するということのようだ。では、理性というのは、どうもカント用語っぽいので、さらに定義を知る必要がある。
もう一つ、別の本を見てみよう。カント事典という本で「超越的」という語の解説としてこのように書かれている。『概念が可能的経験の限界を越えでているかいないかが、概念の使用に際して大切なこととなる。その使用が可能的経験を越えているときには、「超越的」といい、その限界内にあるときは正しい使用で「内在的(immanent)」(ときには「土着的(einheimisch)」)という。』(p336)。これは、なかなか難しい。「可能的経験」という用語が出てきた。この可能的経験とは何かを知る必要がある。が、ちょっと保留しておこう。
さらに、カント事典では『第一批判で、たとえば「神」や「不死」の諸理念が、「超越的」として排除された』と書かれている(p336)。私はこの「排除された」というのがポイントかと思われる。つまり、超越的というのは「排除されるものである」というわけだ。
さらに、『哲学の歴史』という本を読んでみたら、次のように書かれており、一見、ちょっと違うことを指しているようにも見受けられる。
「Transzendental」に「超越論的」という訳語を与えたのは『「いき」の構造』(一九三〇年)の哲学者九鬼周造(一八八八―一九四一)であるが、たんに「超越」ではなく、「論」が付加されているところに九鬼の工夫があった。つまり、中世哲学や講壇哲学の場合のようにそのような普遍的な概念が存在するということを天下りで受け容れることができず、経験一般にあてはまる概念が経験に先立ってどのような仕方で存立しうるかということそれ自体を、まず明らかにするという段階こそがカント哲学の当面の課題なのである。つまり、カントの「Transzendentalphilosophie」では、その種の普遍性の存在自体を明らかにすることからまず着手されねばならなかったのである。『純粋理性批判』でのカントの探究がこの段階に対応していることを明示するために、超越そのものではなく「超越論」という訳語がふさわしい、と九鬼は判断したのである。
『哲学の歴史』
ここで、太字にした「そのような普遍的な概念」「経験一般にあてはまる概念」「その種の普遍性」は、「超越」ということばを指している。
そろそろここらでやめておくが、このように「超越的」という語の文献学をし始めるとそれだけで研究テーマになってしまうが、強引にまとめるなら、「直接議論すべきではないもの」を指して、超越的という言葉が充てられている、と思っている。
4.とりあえずの整理
はまり込んで迷宮入りする前に、ここらで逃げよう。私は、以下のように、ゆるく理解しておくことにした。
- 「超越的(transzendent)」は、真理性を保証することができないもの、議論から排除されるべきもの、経験一般にあてはまる概念、普遍性 を述べるときに用いられる語である。
- 「超越論的(transzendental)」は、人間が対象を認識する方法 を述べるときに用いられる語である。
ひとまず、素人である私が、邦訳書や二次文献を参照した結果として、このように整理しておくことにした。
カントは、用語が多くて難しいのは確かだ。しかし、その洞察力の凄さからして、カントを"古い"などと片づけることはできない。この現代、21世紀になっても、大学でいまなおカントの哲学が研究されているのは、カントが、哲学という学問それ自体の基礎を、徹底的に考察したからなのだ。それゆえに、カントは哲学の教科書となったのだ。その「教科書」たるカントの著作の書きぶりは、決して淡々としたものではなく、むしろ饒舌といっていいほどに熱く、文学として読み込みたくなる魅力すら持っているのである。人は、何を認識できて、何を語ることができるのか。哲学が持つ不思議な魅力のようなものを体感できたような気がする。
参考文献
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_kant_intro.html
篠田英雄 訳『純粋理性批判』(岩波文庫)
中山元 訳 『純粋理性批判 1』(光文社古典新訳文庫)
九鬼周造全集 第7巻(transzendentalの訳し方について解説あり)
カント事典(弘文堂)
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