生成文法
generative grammar


 ここは比較言語学のサイトだが、チョムスキーに始まった、言語学の中の一大潮流、つまり広く生成文法と呼ばれるものについても、少し述べてみようと思う。生成文法を知ることで、言語学という学問が持つ特徴がよくわかるからだ。
 私は生成文法の最新の動向を知っているわけではないが、大学生の頃にそれなりに関心はあったので、これまでの大雑把な流れは語れるだろうと思っている。


1.生成文法とは

 1940年代中ごろまで、言語学の中の一大潮流は、記述言語学であった。とくにアメリカにおいては、「データ中心主義」「分割・分類」を基本方針にすえ、少数民族(たとえばアメリカ・インディアンなど)の言語のように、一般的に世間や、学会にも知られていない言語をフィールド調査をして記録して、どんな音や単語や文法で形成されている言語なのかを明らかにすることだ。これを「記述」という。そのなかで、文という言語単位の研究は、直接構成素分析(Immediate Constituent analysis, IC分析)という手法によっていた。ユージン・ナイダ、ケネス・パイク、ルーロン・ウェルズがその研究者である。

 いわゆる生成文法(generative grammar)は、ゼリグ・ハリス、ノーム・チョムスキーにより始まった。生成>ということばは、「新しいものを生み出す」という意味で日常用いられるが、チョムスキーは全く異なる意味で用いている。生成 (generate)とは、文を定義する法則を明示的(explicit)に示すという意味である。ここで「明示的」というのは、生成文法以前の言語学による文の研究は個別事例の列挙ばかりでいわば暗示的・例示的な研究だったということへの対比として用いられた表現だろうと思われる。また、完全に数学用語だと理解してもよいかと思われる。
 当初、「言語は文の集まりであり、文は単語の列である」という単純化された見方をした。この非常にシンプルな言語観は、生成文法に特有のマクロな視点によるものである。マクロな視点とは、まず個別の単語ではなく、単語というもの全体と文との関係について考えてみようとすることである。すなわち、「文は単語の列」と考えれば、単語が適格な順序で列をなせば、それはその言語において一般に認容される文となる。他方、適格でない並びとなった単語列があるとすれば、それはその言語において一般に認容されない文である。したがって単語の適格な並びを指定する法則性がどの言語にもあり、これが統語論であることになる。このような視点は言語は、言語をマクロ・レベルから俯瞰する視点であり、個別の語の語法を議論していく人には思いつかない視点だっとと言える。
 マクロな視点を持ち、個々の語の細かな用法を無視しよう。すると、単語はある種の単位 a, b, c, ... へと単純化できるので、これらの単位が並んだ形式言語(formal language)について考えてみよう。形式言語は非常に単純化された要素の並びであるから、複雑極まりない自然言語とはかけ離れている。しかし、単位の並び方を考える統語論にとっては、形式言語は適切な単純化といえるかもしれない。
 また、文法とは、チョムスキーによれば、理想的話者が本来的に持つ能力の記述であると定義される。
2.書き換え規則


学術上、どのような記法を採用するかは、学問が発展する上で非常に重要な分岐点となる。数学は数式を採用することで十分な形式性を備え、過去から現在まで議論を積み上げ発展することができた。では、言語学においては、文法をどのように書き表すべきか。十分な形式性を備えた記法のひとつとして、文を単語の列へと変える書き換え規則 (rewriting rule)が考えられる。たとえばSをabに書き換えることをS→abのように表すのである。この書き換え規則については、その規則の形状と書き換え結果について、研究がなされている。書き換えが完全に自由なものを0型文法と呼ぶ。そこに、3段階の書き換えの制限を順次加えていくことにすると、以下に挙げる1型、2型、3型というように書き換え規則が形を変えていく。

文法書き換え規則
0型無制限書き換えシステム
1型文脈依存文法σAτ→σφτ
2型文脈自由文法A→φ
3型有限状態文法A→xBまたはA→x
書き換え規則の4類型



では、上記のどの型の文法を、自然言語の構造を示す理論として採用すべきなのだろうか? まず、自然言語には有限状態文法では表現できない文例がある。たとえば英語ではeither A or Bみたいな言い方があるし、日本語でも「こそ~けれ(已然形)」という係り結びのような言い方がある。つまり、語が直後でなくて間をおいて少し後の語に影響を及ぼすような場合がある。なので、直後の要素だけを呼び出す有限状態文法は人間言語のモデルとしてはふさわしくない。あらゆる経路を列挙すればいいのかもしれないが、そういった列挙は大して有益な知見を与えるものではなく、文法とは言い難いだろう。

このような、間をおいた要素間の依存関係は、文脈自由文法ならば表現可能である。依存関係のある要素間に非終端記号をおき、その非終端記号を展開する規則を作ればよいからである。そこで考えだされたのが、直接構成素分析の考え方に基づいて構成素をつくるという考え方だ。そして構成素構造のモデルとして句構造(phrase structure)を採用した。句構造とは、いくつかの語を、中心となる語の品詞(名詞・動詞・形容詞…)に基づいてグルーピングしたのち、名詞句(NP)・動詞句(VP)・形容詞句(AP)といったラベルを貼ったものだ。これは非常に理解しやすく、中学生でもわかる概念だ。言語学者が採用するにしては素朴すぎるかもしれないが、とにかく、句構造を書き換え規則の中に入れたものが、句構造規則と呼ばれるものであり、それは例えば S→NP VP といったかたちになる。これが繰り返されて「木」つまり樹形図が出来上がる。要するに文SというのをブレイクダウンしてNPやVPなどという句へと分けて、最終的に語彙を入れて具体化する考え方だ。これが句構造文法だ。これにより直後の要素だけでなく離れた要素についても記述ができるようになった。

したがって文脈自由文法は有限状態文法より強力な表現力を持つ。しかし自然言語の理論として採用するにはやはり不十分なモデルであるという説がポスタルという学者によって唱えられた。モホーク語という言語が、文脈自由文法では表せない特性を示すというのである。別の文法モデルが必要である。


3.変形


 チョムスキーは、統語論がひとつの文を分析するのにとどまるべきではなく、ある文と他の文との関係性についても論じるべきだと考えた。一例を挙げれば、英語の肯定文と疑問文の間にある関係性は、主語と動詞とを入れ替えである場合がある。たとえば、He is tall.とIs he tall? というように、主語と動詞が入れ替われば肯定と疑問とが変わる。このように、語の並びに操作を加えて意味の異なる文をつくる変形(transformation)という操作を導入した。

 変形は、すでにできあがった「木」を別の「木」に変える(数学っぽく「写像」といわれることもある)操作である。変形の前後で「木」は異なる名称が与えられて区別される。変形が適用される前の「木」は、深層構造とか d-構造などと呼ばれるもので、変形が適用された後の「木」は、表層構造とか s-構造と呼ばれる。このように、ある文の統語構造には、抽象的な表示(representation)と呼ばれる複数の状態があるという見方を採用することで、個々の単語の間にある依存関係について表現しようというのである。そうして、これらの表示の間には、流れのようなものがあり、その順番にしたがって適格な文が形成されるプロセス(派生(derivation)とよばれている)が作動しているという見方がとられた。

 こう聞くと、生成文法は、文がつくられて発話に至る、という動的プロセスについて述べているように思えるが、実際のところはそうではないらしい。生成文法が表現したいのは、いわば「オフライン」の静的な知識構造であって、発話の産出という動的プロセス、つまり「オンライン」の作動モデルではないとのことだ。したがって、派生というのは、時間の経過に沿った処理の流れではなく、もちろん誰かが行う操作でもない。数学でいうところの順序対なのだという。


4.GB理論


 変形は、当初は疑問変形や受動化変形など、いろいろな種類のものが提案されていたが、学問が深まるにつれ、やがて「移動(move α)」という一種類の変形に収れんしていった。なぜなら、変形という概念は、強力すぎるので、人間の言語に見られる構造を超えた構造を作ることができてしまうからである。そこで、「木」をつくったらそれを別の枝の生え方をした「木」に変えるのではなくて、「木」の構造自体は同じで、その中で要素は「移動」し、空いている枝の先へと移動していくという考え方になったのだ。また、句構造規則(S→NP VPなど)は、一般化されてXバー理論(X-bar theory)というのになってしまった。そこでは句構造規則の中の品詞が一般化されて X で表わされ、X’→(....) X (....) といったような形となった。X’はエックスバーと呼ばれ、要素Xに付随要素がくっついて拡大した、X を主要部とするまとまりを指す。

 このようにして、生成文法は、理論(≒仮説)のうえに理論が積み重なる構造をとる、複雑な学問体系を成して行った。規則で厳密に認容可能な文を規定しようとする標準理論の潮流が過ぎ去った後は、原理とパラメータのアプローチといわれる潮流がはじまった。

チョムスキーのGB理論(統率・束縛理論)と呼ばれる理論では、格理論、θ理論、さまざまな理論を内包して世界中の言語についての文法を作り出せるような一般性を持った文法(普遍文法universal grammarと呼ばれることがある)を作る流れになった。

束縛理論(binding theory)は、文の構造で名詞と代名詞、再帰代名詞の対応関係を説明できるとする理論であり、次のような3つの原理として表される。

原理(A)再帰代名詞は統率範疇の中で束縛されていなければならない。
原理(B)代名詞は統率範疇の中で束縛されてはならない(自由でなくてはならない)。
原理(C)名詞、固有名詞は束縛されてはならない(自由でなくてはならない)。

これらの原理は、以下の文の適格性・非適格性を説明できる。
a. The men think that [John is deceiving himself.].
b. *The men think that [John is deceiving themselves].
c. The meni think that [John is deceiving themi].
d. *The men think that [Johni is deceiving himi].
e. *Theyi think that John is deceiving the meni.
f. *The men think that [himselfi is deceiving Johni].

a.はJohnがhimselfを束縛しているので原理(A)を満たしており、適格な文である。b.はthemselvesが束縛されておらず、非適格となる。つまり原理(B)に違反している。c.はthemが束縛されていないので原理(B)を満たしており適格である。d.はhimがJohnに束縛されており原理(B)に違反しているため非適格である。e.はmenがTheyに束縛されており原理(C)を満たさず、非適格である。f.はhimselfがJohnを束縛しており、原理(A)と(C)に違反しているため非適格である。
個々の個別言語は、その具体的パラメータ設定の在り方で決まるというのだ。チョムスキーはこの有限のパラメータ設定で定まる個別文法を核文法(core grammar)と呼ぶ。普遍文法は、有限の文法しか許容しないということが帰結される。例えば、主要部の位置に関して、「前置」「後置」の2値がある。英語は「前置」であり、日本語は「後置」である。この有限性が、子どもの母語獲得を「説明する」のだと主張するのである。生成文法では当初、書き換え規則の生成力を限定することに関心が向けられていたことを思い起こそう。GB理論の流れは、当初とはかなり異なったものとなったのである。


5.極小主義

 チョムスキー派生成文法はこうした発展をとげながらも、90年代からは極小主義という「研究プログラム」を始めた。それまで築き上げた壮大なGB理論の体系は脇に置くこととし、人間の持つ言語を「計算computation」する機構はシンプルな仕組みではないかという想定に基づいて理論をまとめなおしていくのだ。この想定では、Xバー理論すらもはや不要であると考えられている。この考えは素句構造理論というらしい。要するにNPやVPはもちろんX’のような、語をいくつかグルーピングした単位が存在すると、計算機構がシンプルだという極小主義の想定に反するというわけだ。基本的に言語計算は、単語がいくつか最初に与えられて、それらの中の2つを選んでセットにしてゆく併合(merge)という操作を繰り返すだけで中間の構成物は無いということになっている。ここで文法観がミクロ・レベルから文を構成していく方向性になったことに注目しよう。これまでのマクロな視点とは逆で、ばらばらのものを組み立てて文をつくるという、ボトムアップ方式になったのだ。また、文法とはシンプルであり、単語が文へと組み上がっていくのに必要な素性(feature)という情報は、語の中にあらかじめ入っている、という流れになっているように思われる。

 このような流れで今に至るわけであるが、振り返ってみれば、文法観が大きく変わってきたことが分かる。認容できる文を厳密に導出し、認容できない文を厳密に排除しようと細かな規則を作ってきたのが初期だ。つまり標準理論では「文法とは、配列を厳格に定める規則である」という見方だった。しかし、幼児が不十分な言語刺激をもとに母語を獲得することを考えると、文法は一般性を持って既に生まれつき把握されていないといけないということで、規則を一般化して細かなことは選択できるということにした。つまり原理とパラメータのアプローチでは「文法とは、可変性を持つ大きな枠組みだ」という見方になったのだ。そして、これが追究されて極小主義では、もしかすると枠組みすらもなく、「文法とは2つの語が足し合わされてゆく有様である」というところまで変貌を遂げたのだ。


6.チョムスキーに対する批判

 チョムスキー派の生成文法はこのように、発見されてきた問題に対応するために、理論構成を変えてきた。その途中で、チョムスキー派とは異なる解決策を備えた理論が、いくつも誕生した。

 たとえば、生成意味論(generative semantics)という潮流が存在していた。生成意味論は、二つの文が同義であれば同じ深層構造を持つ(「カッツ-ポスタル仮説」と呼ばれる)という考え方を方法論上の原理とした。この考え方をとると、文法の変形部門への入力は意味表示であるということになる。生成意味論は収集がつかなくなって、形式的アプローチとしては破綻したが、現在、認知言語学(cognitive linguistics)という学問潮流になった。認知言語学は、ガチガチの規則ありきでなく、言葉のメタファーなどに代表されるような連想や発想などの人間の「認知能力」により文法規則が立ち現われて見えるだけなのだという学問的立場にたっている。チョムスキー派が言語は脳内の固有の「器官」の存在によって成立していると主張する(モジュール仮説という)のに対して、認知言語学は言語を特別扱いせず、一般的な認知能力により言語を操っているだけだとする。この2つの学問は表向きはかなり対立しているのだ。その議論は、傍から見ると大変興味深い。

 また、「言語を計算する」というが、いったい誰がその「計算」を行うのだろうか? という疑問を持つ人もいる。規則を「走らせる」、つまり実行する、もしくは、導出するのは、誰なのだろうか? 町田健先生もこの疑問を持っているように思われるが、この疑問は生成文法が「文法の知識」というものであるとすれば、あまり的を得ていない質問ということになるのだろう。つまり、生成文法は産出のモデルではないのであるから、実行というものは含まれないのである。たとえるならば、数学における因数分解された式を展開するだけであるので、その実行は数学自体には想定されていないのである。

 人間の言語獲得においては、否定証拠は用いられていないといわれるが、正規言語のクラスにおいて(すら)、否定証拠がなく正例しかない場合は、極限同定ができないということが証明されている。このことは自然言語の獲得には生得的基盤がなければならないということを支える根拠であるように考えられている。しかし、各語にたかだかk個の範疇を割り当てる「k値範疇文法(k-valued categorial grammar)」というクラスの言語が、正例のみから極限同定できるということが証明されている。k値範疇文法の記述力は文脈自由文法の記述力に満たないとされるが、文脈依存文法には匹敵するようだ。はたして生得的基盤を仮定する必要があるのかどうか、このような議論からのアプローチも貴重だろう。

 また、どの理論が「正しい」のだろうか? 私にはどの理論もある分野においては正しいだろうと思っている。もしかすると、仲の悪い生成文法と認知言語学ですら、語っていることのレベル感が違ったり、説明のための道具が違っているだけではないかという気もする。生成文法は、脳というブラックボックスのより高次の側の処理を記述していると言えるかもしれない。比較的メカニカルな配列規則である形態論・統語論の側に強いのだが、その説明道具に先験的な仮定を多用する傾向にある。一方で認知言語学は、脳・身体の中でもより「低次」な側からの記述であるので、より経験に基づいていると言えるかもしれないが、ロジックが立ち現われてくる前の段階の話をする傾向にあり、メカニカルな配列規則というよりも、やや緩い意味の記述に強いという印象がある。どちらも、言語という最高次の脳機能を学問的になんとか理解したいという点では共通しているのだが、他のサイエンスがそれに追いつくまで発展できていないために言語学は独自に分析理論を作り出してこのような異なる理論が生まれてきたのだ。そしてそれぞれが理論を深めようとして、理論的仮構物を増やす結果になり、仮構物をめぐる議論により、チョムスキー派生成文法と認知言語学は互いに仲が悪くなってしまったりした。しかし、アプローチ方法の相違というのは、しばしばみられることだ。


7.言語学という学問

『ブリタニカ国際大百科事典』に次のような記述がある。これは、大雑把な用語法であるものの、本質的で非常に的を得た鋭い要約であると私は思うので、ここに紹介しよう。

 言語学は社会科学として考えることができるが、その場合は人類学の一部であり、文化人類学の姉妹学科である。言語学のこの面は、ときに記述的ないしは人類学的言語学と称されて、標準的もしくは規範的言語学に対比される。別の観点、特に統辞論の観点からは、ある種の応用数学と考えられ、ときに生成的言語学と称される。言語学は、社会科学としては本質的に経験的、帰納的であり、応用数学としては合理的、演繹的である。言語学はこうして、哲学と科学との間を往復して振り子運動を行う。


 ここに述べられているように、言語学のアプローチ方法としては真逆な2つの方向性が存在している。チョムスキーの言語学は、合理的、演繹的であり、他方、認知言語学の方向性は、経験主義的、つまりは帰納的である。この2つは全く違うアプローチとして大ゲンカをしているように思われるのであるが、上記の記述によれば「振り子運動」だという。私が考えるに、学問全体としてはこの2つのアプローチを互いに行き来することで、より高レベルの知見にたどり着くのだろう。二者択一ではない、ということか。

 チョムスキーは、ある種の天才であった。彼は言語学を人文科学(文献学・歴史学など)に留めていることはせず、上で言うところの「応用数学」すなわちロジカルなサイエンス(論理学・数学・計算機科学)に結びつけた。これは、視野をあえて狭くすることで、達成された。しかし、今後の言語学は、天才の主導には頼っていられないように思われる。言語学は振り子運動であるから、次には逆の方向性が必要となる。今度は、視野を広げて、「経験科学」にしていくことが求められるのである。すると、どちらかと言えば、今度は一人の天才に頼るよりは、多くの人の協働作業になるだろう。そしておそらく、言語学は、他のサイエンスへ歩み寄ることが求められるだろう。認知言語学はそのような立場に比較的近い学際的性格を有しているので、言語学界に現れるべくして現れたように私は思う。

 また、注意すべきは先験的な仮定や、理論内のロジックのみで現象を説明するのではなく、(一般的な意味での)事実に基づく説明をすることだ。そうしていけば、いつかは、生成・認知等それぞれの学派が築いてきた理論を統合されて一つの体系ができるのではないか。その一例として、たとえば私は、統語論と意味論を全く区別しない理論言語学、外部からの刺激により変化する文法を表現する理論といったものが必要だと漠然と考えている。また、その研究のための道具としては、コンピュータによるモデル化、統計学などが、今後の言語学に求められていくと思っている。あくまで素人の想像にすぎないのであるが、私にはこのように思われる。


参考文献
ジョン・ライアンズ 近藤達夫 訳『言語と言語学』岩波書店
北川善久・上山あゆみ『生成文法の考え方』研究社
トマス・ワッソウ 原田康也 訳『言語への認知的接近(認知科学の基礎2)第1章 文法理論』産業図書
畠山雄二『情報科学のための自然言語学入門:ことばで探る脳のしくみ』丸善
『ブリタニカ国際大百科事典』
ノーム・チョムスキー 勇康雄 訳『文法の構造』研究社出版
ノーム・チョムスキー 福井直樹 辻子美保子 訳 『統辞構造論』岩波文庫
Noam Chomsky Aspect of the theory of syntax
岩波講座 言語の科学7

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生成文法の哲学


1.生成文法における「知識」

  生成文法という言語学の研究分野では、言語学の研究対象を人間がもつ「文法の知識」とされる。生成文法は人間のことばの産出・理解のモデルではないと生成文法の教科書でよく強調されているのだが、このことに疑問に思い始めていたからだ。産出・理解のモデルではないということは、何か静的な「知識」というのをイメージしているのだろうが、それは一体何なのか?

 畠山雄二先生は、著書である生成文法の概説書の中で、「オフラインの文法」などと言っている。オフラインとは要するに電源が入っていないコンピュータのようなものを想像しているのだろうが、言語を生み出す私たちの脳が「電源の入っていない」状態になるのだろうか? 人間の頭に電圧計を取り付ければ、その人が眠っているときですら脳波と呼ばれる電気活動が検出できるというではないか。電気活動がなくなるというのは、つまりは脳が機能しなくなったとき、いわゆる脳死のときではないのか。オフラインとはつまり、脳死のときの脳の状態なのだろうか。そんなことはあるまい。

  いったいこの世のどこかに「知識」という静的対象物が存在しているのだろうか? 言語を操れるということが「文法の知識」があるということなのではないか。操るという動作しか存在しておらず、動作しか知覚できないのではないだろうか。「知識」などというものがどこかに(おそらく脳内に)あると考えて、それを学問の対象にするというのは、可能なのだろうか? 動いているものを静止していると見なし、あたかも動きのないものに喩えているだけなのではないか。

  コンピュータで考えてみよう。ハードディスクなどの記憶媒体にあるデータとは、結局のところは、0と1の集まりである。それは、コンデンサが、電荷を持つか持たないか、という区別である。では、コンピュータにある「知識」を明らかにするのは、ある瞬間のコンデンサの荷電の状況を記すことなのだろうか? そうではないだろう。それは、あまり意味あることに思えないからだ。

  同様にして、人間の脳について考えてみよう。脳内におけるニューロンとそのシナプスの結合の状況をすべて書きとめるとする。それは、人間がもつ知識の解明として、有意義なことだろうか? そうではないと私は思う。それだけでは何も役に立たないだろう。知識を明らかにするということは、コンデンサやニューロンよりも、もっと上の階層の記述が必要となるのである。

  動的なものを静的にとらえるという、ことばの機能の例として、細胞内で起こる物質の変化の連鎖でクエン酸回路と呼ばれているものがあると養老孟司さんの本に書いてあった。これは回路とはいっても、半導体の回路のように物理的な通り道の存在を指すわけではない。単に代謝が決まった順で起こるのでそれを静的な対象物のように見なしてクエン酸回路と名付けているだけなのである。実在する構造ではなくて、人間の頭の中にあるだけなのだ。つまり、人間が使うことばは、動的過程を静的対象物として捉えるのである。
  数式でも同じことだろう。動的なものとは、つまり時間が経つと位置が変化するもののことだ。x座標が時間tの関数ならば、x=f(t)などと書ける。時間 t で変化する位置を持つ点を、位置ベクトル r(t) と表現できる。つまり動くものを静的な数式により固定して表現できるのだ。動きを学問するときに数式を使って止まったもののようにして扱うのであるが、なにも数式に頼らなければならないわけではない。日常言語でも同じことが可能だ。動いているもの、動きを、止まった言葉で表わせる。

  だとすれば、「文法の知識」なるものは必ずしも静的対象物を指しているとは言えないのである。一連の動きをコトバで表現すると静的なモノがあるように思えてくるだけである。その「知識」なる対象物が実在するわけではないかもしれないのだ。「文法の知識」とはおそらく聴覚か視覚から神経細胞が刺激されて人間の中に得られるイメージまで、もしくはその逆の過程の全体を指すのだろう。では現に進行中の生成文法における「文法の知識」の解明を目指す活動は、じっさいのところ何を研究しているのだろうか?



2.生成文法に対する見方


  ここで、理論的な言語学である「生成文法」の研究方法について、哲学の姿勢で眺めてみよう。題材として、ジョージア・M・グリーン、ジェリー・M・モーガンの『言語分析の技法―統語論を学ぶ人のために』(東京大学出版会)という本から、チョムスキー派生成文法の根幹をなす「派生」という概念についての解説を、以下のように抜粋してみる。

「生成文法における派生は、時間的空間的な存在ではない。
派生に空間的方向性はなく、派生は句構造標識の順序対の順序集合〈P0, ... ,Pn〉であって、処理過程ではない。
それぞれの順序対〈Pi, Pi+1〉の要素の対応関係の記述が変形規則である。
派生が適格であるためには、すべての順序対が適格でなければならない。」
(『言語分析の技法―統語論を学ぶ人のために』p13より。一部要約)

これを読むに、生成文法における派生というものは、なんだか非常に抽象的な概念のようだ。まず「時間的空間的存在ではない」というのだから、これは物理的な存在ではないことがわかる。したがって、生成文法は、物理学・化学・生物学といった自然科学系の学問ではないと推測できる。



3.フォーマル・サイエンス(形式科学)としての生成文法


  また、上での引用に、「順序対」という用語が出てきていることにも着目しよう。この順序対 ((ordered) pair)というのは、聴きなれないが、じつは数学の用語で、(a,b)のような、a,bの順序を考慮に入れている組のことを指している。つまり、(a,b)と(b,a)は、a=bであるときは、同じものであるのだが、そうでないなら、異なるものである、ということを意味している。このような数学用語を使うということは、生成文法は、数学のような立場にたっているということであると思われる。すなわち、生成文法は自然科学であるというよりは、自然科学を記述する数学の立場なのである。

  「派生が時間的空間的存在ではない」という記述からも、生成文法が物理的な存在についての知ではないことが伺える。つまり、派生とは、この世の存在ではない、ということであり、チョムスキー派の生成文法で中核をなす概念である派生が実在しないものならば、自然科学であるわけがない。おそらく、数学か、もしくは論理学のような存在である。私は、生成文法は、数学・論理学・理論的計算機科学などと並ぶフォーマル・サイエンス(形式科学)とでもいうべき学問であったと理解している。普通の用語法で言って、生成文法は自然科学ではなかろう。そうでなければ、派生の非実在性と整合しない。

 しかし、生成文法学者の中には、これと全く逆で「生成文法は自然科学である」と言う人がいる。たとえば、福井直樹先生は『自然科学としての言語学 生成文法とは何か』(大修館書店)という著作でタイトルでそれを主張しているのである。どうも分からなくなってきた。自然科学とは何なのだろうか? いや、そもそも科学とは何なのか?
  このような問いについては、別のページで、考えていきたいと思う。


参考文献
ジョージア・M・グリーン、ジェリー・M・モーガン『言語分析の技法―統語論を学ぶ人のために』(東京大学出版会)
福井直樹『自然科学としての言語学 生成文法とは何か』(大修館書店)

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