統語論
とうごろん
1.構成素
統語論 (syntax) とは、言語学の分野の一つで、文の内部構造を研究する分野である。語がどのように並べば文として認められるかを調べる研究であるとも言えるし、語の並び方の規則性を探る研究であるとも言える。
「語をどのようにならべるか」などという、誰にとっても自明のことをわざわざ考えるのだろうか? 私は高校生のころ、なぜこんな当たり前のことをもったいぶって語ることが学問になるのか、理解ができなかった。しかし、当たり前の背後に潜んでいる何かを探し求めるのが学問であるのだということがやがて分かるようになった。リンゴが木から落ちるのは「当たり前である」ので、みんなが見過ごしてきてのだが、実はそこに何が働いているのかを考えることは、物理学なのである。それと同じようなものだろう。
すべての学問においてそうであるが、基本要素を得たとしても、それらがどのように相互に関連しているかを理解しなくては意味がないのである。また、言語学の存在意義のひとつは、言語を客観的に観察し正確に記録することであり、
そのため、私たちがいかに自明に思っていたとしても、客観的に観察し、規則として記述しておかなくてはならない。
さて、文の内部構造を分析する手法として、ブルームフィールドという学者が考えた直接構成素分析 (immediate constituent analysis)という手法がある。これは文を原則として2つの構成素 (constituent)と呼ばれる要素へと分割していく手法をとる。分割する位置を決めるのは、置き換えの原理である。たとえば「東京に着いた」という文があるとしよう。「東京に」は「大阪に」とか「自宅に」などと置き換えても意味が通じる。よって「東京に」は一つの構成素を作っていると考えられる。また「着いた」は「向かった」とか「留まった」などと置き換え可能であるので、これも一つの構成素だ。このようにして「東京に」「着いた」という2つの構成素へと分解できた。この2つは「東京に着いた」という文の直接構成素 (immediate constituent, IC)であるという。
このように直接構成素を次々に求めていく。これが直接構成素分析と呼ばれる、文の構造の分析である。2分割ではなくて3つ以上に分割してもよいとする学者もいるらしいが、基本は2分割(binary cut)が原則だという。この分割の結果をどのように書き表せばよいだろうか。もっともメジャーなのは、枝分かれ図として構成素構造を表示することである。枝分かれ図のほかには、かっこで囲む方式や、「ホケットの箱」方式などがある。
図示するとわかるのだが、直接構成素分析を行うと階層構造が明らかになる。文とは、要素が単に並んでいるだけではないということだ。文には構造がある、という点は非常に重要である。同音異義構造という、同じ音の並びでも構造が違うことで意味が異なっている2つの音の並びを区別し分けることができるのである。「怖いあの人の親」は、怖いのが「あの人」のこともあるだろうし、怖いのは「親」なのかもしれないが、構造を示せばあいまい性が解消されるのである。
2.文節
文という単位は誰にとっても分かりやすい単位だが、文より小さな言語学的単位はあるのだろうか? 国語学では、橋本進吉という人が考えた文節(ぶんせつ)という概念がある。文を構成する、より小さな単位が文節である。文から文節を採り出す手法として中学校では教えられているのは、文中で「ね」という助詞を挿入できる場所を探すという方法である。たとえば以下の文があるとしよう。
東京駅はここから歩いて5分だ
この文を文節へと分割するために、次のように「ね」を入れよう。
東京駅は(ね)ここから(ね)歩いて(ね)5分だ
つまりこの文は、4つの文節から成立していたと言えるというわけだ。次のように番号を付けよう。
1.東京駅は
2.ここから
3.歩いて
4.5分だ
1の「東京駅は」はさらに「東京駅」と「は」とに区切れそうな気がするが、文節は「自立できる最小の意味的まとまり」であるので、付属語を孤立させないように区切っていかなくてはならないという。「東京駅」が自立語、「は」が付属語なので、この二つはひとまとまりとみなす。よってここでは「東京駅は」が一つの文節だ。ではここで、1~4はどのような関係性にあるのだろうか? 「AがBだ」の形をしているとき、「Aが」は主部で、「Bだ」は述部という。この考え方からすれば、上記の1.は主部で、2.3.4.は、述部である。このように複数の文節がまとまっている場合、これを連文節という。しかし、2.3.4.の3つはどのように結びついているのだろうか? 4.が述部の中心部であるように思われるが、2.と3.は4.にどう関係しているのだろうか?
中学生の私は当時、ずいぶんと適当な手続きだと思ったものだ。「ね」が挿入されうるかどうかは主観によると思うのだ。もっと客観的な手法で分割していきたいと思っていた。
b. 東京駅はだここから歩いて5分
この2文を見てみれば分かるが、
「だ」(という助動詞)が生じておかしくない位置というのは文末である。
「東京駅は」の直後に「だ」がくると変に感じる。
これは「だ」という要素の出現位置が決まっている、ということである。
そもそも、すべての語(または形態素)は、このような特定の出現位置があるので
それにより分類が行われている。
そして各グループには、「名詞」とか「動詞」とかといった品詞(part of speech)がラベルとして貼られる。
「だ」の場合は、助動詞というグループに属するのである。
このように、すべての要素に品詞を与えることで、言語の要素には出現位置についての制限があることを表現できる。
次に行うのは、品詞間の配列順を記述することである。
たとえば、
文 → 名詞 助詞 名詞 助動詞
などという配列規則を作れば、
「文は、名詞 助詞 名詞 助動詞という順に要素が配列したものである」
ということを表現したことになる。
このような規則があれば、あとは要素を並べるだけで適格な文が作れるのである。
このように語または形態素を、出現位置によりラベル付けしてグループわけし、
それらのグループ間の並び順を把握すれば、文の内部構造を理解したと言える。
統語論においては、以上の作業が出発点となる。
現在、私たちは当たり前のように文を組み立てているが、これを改めて見直し、組み立て規則を定式化するわけである。
そしてさらに厳密に観察をすれば、いろいろと思いもよらない規則が浮かび上がってくることがあるのである。
英語や日本語の統語論は、理論言語学内で人気がある。
2.PCでの解析
以下は紹介だが、最近は文をコンピュータのプログラムによって解析できるようになりつつある。3つほどステップがあるらしい。
まず、形態素解析と呼ばれる処理によって、文を形態素に区切る。「形態素解析」と言ってはいるが、ここでいうところの形態素とは、どうやら主に単語のレベルのことのようだ。その区切られた要素間の関係を構文解析と意味解析により判別する。要素間の関係とはつまり、動詞がどのような主語ととるが、いくつの目的語を引き連れるのか、といった情報により判断される、名詞(群)と動詞との関係のことだ。
3.比較言語学における統語論
インド・ヨーロッパ語族比較言語学における統語論的研究は、20世紀にはそれほど進展しなかったといえるのかもしれない。デルブリュック(Berthold Delbrueck,1842-1922)と、ヴァッカーナーゲル(Jacob Wackernagel,1853-1938)の統語論的な研究が、いまも依然として参照されているのだ。
ただ、そのようななかで20世紀終わり頃からは、インド・ヨーロッパ祖語は、「主格・対格型」ではなくて、「能格・絶対格型」のシステムをとる言語なのではないかという議論が起こった。能格(ergative)とは、他動詞文の主語にあたる語がとりうる形のことで、語尾などが特徴的な形(有標)をとる。一方、絶対格(absolutive)は自動詞文の主語と他動詞文の目的語にあたる語がとりうる形で、特に特徴的な形をとらない(無標)。ずいぶんと変わった仕組みのようだが、バスク語など、このようなシステムを採っている言語は存在している。
このような議論が起こったのは、古典語の中性名詞で、主格と対格が同じ形式をしていることが、主格・対格を基礎とする統語論に疑問を投げかけたのだ。主格・対格型の言語としては、主格と対格が同じ形では困るはず。なぜ中性名詞は主格と対格が同じ形なのだろうか。ただ一方で、これまでの比較言語学は、主格・対格型のシステムを前提として再建をしてきている。能格・絶対格のシステムを提案したとして、どう考えれば、これと整合性がとれるのだろうか?
また、古典ギリシア語、ヒッタイト語、ガーサ・アヴェスタ語には、中性複数名詞を動詞の単数形で受けるという、変わった決まりがある。これはなぜなのだろうか? このような統語論的な疑問は、これまでの形態論にも疑問を投げかけている。これについては、もともとは中性複数は、「collective」という新たな範疇であったのだとする議論がある。
参考文献
The Cambridge Encyclopedia of the World's Ancient Languages, Chapter17 Indo-European.
言語学大辞典
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