語幹異形態
ごかんいけいたい



英語の sing, sang, sung は、語幹異形態(stem allomorphy)または語根異形態(root allomorphy)の関係にあると言われることがあり、母音交替を示している現象である。

こんな説明だけでは、どうもよくわからないのが当然だ思うので、より詳しく説明しよう。言語学は、このあたりから概念的になってきて、時として、あやしくなってくる。慎重に議論を追うことが必要だ。

sing, sang, sung という3語において母音が i a u と変化しているのは母音交替という現象だと主張するということは、この3語が全く別の形態素から成り立つのではなくて、同じ形態素から成り立つと主張することになる。なぜならこのサイトでは母音交替を、同一形態素が異なった母音を伴って実現することだと定義したからだ。

 では、どこに同一の形態素があるのだろうか。この3語に共通しているのは、語頭の s と語末の ng という部分だ。こういった形は、形態論的に取り扱いが難しい。

というのは、語尾が異形態を示す場合には、語尾がくっつく接続部分が音変化するというケースが多いので、形態素の形式が相互作用のトリガーになったとみなせる場合が多い。たとえば英語の複数語尾{-s}は、x(=/ks/)のあとでは/s/ではなくて/iz/のような音になる(例、boxesなど)が、これは/ss/で同じ音が連続してしまうのを避ける変化だとして記述しやすい。
しかし、語幹が異形態を示す場合には、そうでなくて、語の真ん中が周囲の影響を受けずに突如変化したように見受けられるからだ。 では、s-ngが、共通する形態素なのだろうか? 確かに、そういった見方もできるだろうが、以下に紹介する考え方をとるほうがより普通である。

一般に、語は1つ以上の形態素が結合することで成立している。この3語について、それぞれ形態素へ分割してその成り立ちをみてみると、次のように構成されていると考えることができる。


単語 単語を構成している形態素群
sing = {sing}
sang = {sing} + {過去}
sung = {sing} + {過去分詞}


つまり、音の並びを単にどこかで区切って分割するのではなく、語彙的な意味と時制とに分割するのである。ここでは {過去} とか {過去分詞} といった、変な形態素が出現している。ここで {過去} というのは、過去形の語をつくる役割を持つ形態素である。また同様に、{過去分詞} というのは、過去分詞の語をつくりだす役割の形態素である。妙な形態素だが、このような概念的な形態素を使っている学者はそれなりに存在する。たとえばチョムスキーは1957年出版の『文法の構造』(Syntactic Structures)という本ですでにtakeの過去形tookについて、take+past→/tuk/というような書き方をしている。pastというような、意味的な形態素を使っているのだ。
論文では、{過去}ではなく、T[+past] などと書く研究者が多い。Tというは時制tenseの意味の記号で、[+past]というのは過去を表わす記号だ。
このように、意味はあるが形式がない形態(ゼロ形態 zero morph)を用いることで、ふつう1語と見なされる語を複数の要素に分ける考え方を、語彙分解(lexical decomposition)という。語彙分解は、多用すると理論的に収集がつかなくなって行き詰ることが知られている。事実、言語学のある理論において行き詰ってしまった過去の実例がある。 。なので私は嫌なのだが、ここでは便宜上、語彙分解を採用する立場で話を進めよう。sing, sang, sung はすべて同一の形態素{sing}を要素として含んでいると考えるのだ。

そして、この考え方に加えて、

(1)形態素{sing}は形態素{過去}と結合した場合に、母音 i が æ に変わる。
(2)形態素{sing}は形態素{過去分詞}と結合した場合に、母音 i が ʌ に変わる。
(3)上記(1)(2)の場合には、形態素{過去}と{過去分詞}は、音素としては実現しない(音素ゼロ(/Ø/)で実現する)。


という形態音韻論的ルールも存在していると考える。これによって、以下のような音素の並びとして実現すると考えるのである。

単語 実現した音素列
sing /sing/
sang /sæng/ /Ø/
sung /sʌng/ /Ø/



つまり、この3語は動詞の現在形か過去形か過去分詞かが異なるのであるが、すべて {sing} という形態素を持つという共通性があり、したがってこの3語における母音の入れ替わりは、同一の形態素内で起こっているとみなせる。よってこのsing, sang, sung は母音交替を起こしていると言えるのである。


補足
以上は、語を形態素の足し算とみる考え方である(IAモデルという)が、別の取り扱い方も考えられる。形態素という独自のレベルを設定しない「生成音韻論」という理論では、singとsangの関係は特定環境における音素の変換だとみなして、次のような規則を想定するのだ。

i → æ / _[+verb, +root, +past, -participle]


これは、[+verb, +root, +past, -participle]という環境、つまり動詞であって語根であって、過去の意味があり分詞ではないという環境においては、i は æ に変化する、という規則だ。この類いの規則があれば、あとはただひとつの/sing/という形(基底形)さえ想定すれば、他の語形を導きだすことができる。
 この考えだと、母音交替の定義に形態素の同一性を用いないので、語彙分解をしなくてよい。上記のような規則自体が母音交替という現象を起こすのだと考えることになる。ただしこのような規則が本当に適切な一般化であると言えるかはよく検証する必要がある。このような規則が、他の語に対して適用されてしまって、ありもしない語形を導き出してしまうかもしれないのだ。たとえば、英語の動詞 hit 「打つ」の過去形は、現在形とまったく同じ形 hit であるが、上記の規則に従えば過去形は /hæt/ であることになってしまう。 すなわち現実と異なる過去形を導いてしまうので、上記の規則は現実的な規則とは言えないのだ。またついでに付け加えとして述べておくと、母音交替を上記のような音韻変化だとみなすことは、『一般言語学講義』という本の中では、「言語学者のおおくが抱く謬見である」として正面から否定されている。




以上から分かるように、母音交替を見出すためには、母音の入れ替わりが同一形態素内においてか、そうでないかが分かっていなければならない。よって、母音交替を論じたいなら、まず形態素についてよく理解していなければならない。そういった意味では、母音交替は音韻論というよりも形態論に属する問題であると言えるのだが、形態論的観点がなく、表向きの語形の類似と母音の変異だけを見て「母音交替だ」と呼んでいることがままあるので注意しよう。

つぎに名詞 song についても、動詞sing と母音交替を起こしていると言えるのか検討しよう。つまり、songとsingが同一の形態素を共有していると考えられるかどうか考えてみる、ということだ。

結論から言うと、songもsingは形態素{sing}を共有している異形態の関係であると考えられることが一般的だ。動詞と名詞という、品詞区分を超えて同じ形態素が共有されているということである。songを形態素へ分割すると、以下のような構成をとるだろう。

song ={sing}+{名詞}
形態素{sing}は形態素{名詞}と結合した場合に、母音 i が o に変わる。


またしても、{名詞}などという形態素が登場している。名詞という性質を持つ抽象的形態素を想定する。論文では Ø[+N] などと書かれることがある。音はゼロだが性質としては名詞(N)である要素ということだ。このような抽象的形態素が{sing}とくっつくことによって「母音変化i→oが引き起こされ」、songという名詞が実現していると考えられている。

しかし、T[+past] だとか Ø[+N] とかいったものは、そもそも形態素と認めてよいのだろうか? これらは、完全に概念的で、音形を持たない理論的構築物である。形態論はこうして意味論(semantics)につながっている。このあたりの理論的な取り扱い方は私には手におえないので、専門書を参考にしていただくとしよう。最近では、分散形態論(distributed morphology)と呼ばれる理論が、こういった抽象的形態素を提案している(f-morphemeという)。

参考文献
Hans Henrich Hock "Principle of Historical Linguistics" p543

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