曖昧母音の理論
1.曖昧母音
中学校で英語を習い始めると、曖昧(あいまい)母音なるものの存在を知ることとなる。発音記号でəと書かれるやつである。これが日本人には理解しがたい概念だと思う。曖昧母音とはどういうことか。どういうふうに発音するか、決まっていてほしいと思うのが普通だ。
この曖昧母音は、比較言語学でも登場する。名前もついていて、これを「シュワ」(schwa)というのである。シュワと聞くと私はアーノルド・シュワルツェネッガーしか思い浮かばないのでこんな名前がついてゴツイのかと思いきや、言語学用語としてはなんと曖昧な母音なのである。そして、このシュワをめぐる比較言語学の論争も、その本質であるところの曖昧さを巡る論争であった。
「父」を意味するラテン語はpaterであるが、サンスクリット語ではpitar-である。また、「立った」はギリシア語でstatosであるが、サンスクリット語ではsthita-である。このように、ラテン語やギリシア語でaがある場所に、サンスクリット語ではiがある。おそらく、ヨーロッパでaとなったが、インドではiになったという音が祖語に存在したのであろう。では、それはどのような音だったのだろうか?
この祖語に想定される正体不明の音について、どういう音なのかわからないのだがせめて表記だけでもなんとか決めようとして、さまざまな学者がいろんな表記上の提案をした。たとえば、ソシュールは、これにAという表記を与えた。しかし、この表記法は広まらなかった。また、ヒュプシュマンという学者は、aとiの間の音だと推測して、äという表記をとろうとした。しかしこれも広まらなかったようだ。そうした中、ジーファース(Eduard Sievers)という学者が提唱した、eを逆さまにしたəという表記をとることが広がったようだ。ジーファースはこの表記を「シュワ」と名付けた。
伝統的な考え方は、インド・ヨーロッパ祖語に6つの母音を認めるという考え方であった。すなわち、/i u e o a ə/の6つである。これに対し、喉音理論を用いると、5つの母音/i u e o a/で済むという利点がある。なぜなら喉音理論ではラリンガルHを想定するのであり、əはこのラリンガルHが子音間でəになった音だと考えるからである。
2.バロウの理論
以下のような喉音理論の問題点が明らかになっていった。
まず、ヒッタイト語のh(またはhh)で表記される文字の音価は、子音である。したがって、これが母音になるということ(母音化)を安易に認めることは難しい。
このため、イギリスのバロウ(Thomas Burrow)は、ラリンガルHを純粋に子音として取り扱うこととして理論を構成した。すなわち、əという曖昧母音をたてないこととしたのである。
参考文献
言語学大辞典「喉頭音理論」
William F. Wyatt Jr. "Indo-European /a/"
神山孝夫『印欧祖語の母音組織』大学教育出版 p94-96
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