喉音理論
こうおんりろん


1.母音交替のパターン


インド・ヨーロッパ祖語の母音交替に着目しよう。
インド・ヨーロッパ祖語の母音交替は、e / o / Ø(ゼロ) というパターンを示すのが通常である。
以下、ギリシア語の例を挙げる。

steikh-ō
stoikh-os
e-stikh-on

ところが、このパターンでなく、ē / ō / e というパターンを示す語も存在する。

ti-thē-mi
thō-mos
the-tos

また、ā / ō / a というパターンもある。

phā-mi
phō-nā
pha-tos

さらにまた、ō / ō / o というパターンも存在している。

di-dō-mi
dō-ron
do-tos

以上より、母音交替のパターンは、全部で4パターンである。

パターン1 e / o / Ø
パターン2 ē / ō / e
パターン3 ā / ō / a
パターン4 ō / ō / o


2.理論的な音素の導入


母音交替は全部で4パターンだと考えてしまうのが普通であるが、実は違った見方もできる。
上に挙げた1~4のパターンを、「音の長さ」と「調音点」の観点からよく見てみよう。

(i)音の長さ

   ・音の長さは、パターン1よりもパターン2,3,4のほうが、1単位長くなっている。

(ii)調音点

   ・パターン1のeは、パターン2,3,4ではそれぞれe,a,oに変わっている。
   ・パターン1のoは、何ら調音点の変化を受けていないで、そのままoである。
   ・パターン1に何もなかったところに、パターン2,3,4ではe,a,oが出現している。

以上(i),(ii)を合わせて考えると、こう言えるのではないか。

  パターン1の母音交替が基本である。
  しかし、パターン1の母音の隣に「何らかの変化する音」が存在していた場合があり、その結果、パターン2,3,4のパターンも生じた。

こう考えれば、例外的な3パターンを、基本の「e / o / ゼロ」のパターンに還元させることができる

過去において、パターン2,3,4という3パターンの母音交替があったのではなくて、「3つの音素」が存在していたために
現在のような母音交替になっているのだと考えられるのである。
その3つの音素は以下のような特徴をもつだろう。

・隣に母音 e がある時は、その母音を ē, ā, ō にして、自分自身は消失する。これを音色付け(coloring)という。
・隣に母音 o がある時は、その母音を長くして、自分自身は消失する。
・隣に母音が無い時は、自分自身が母音 e, a, o になる。

この性質を持つ音素をそれぞれ順に、E, A, O と書くことにしよう。

この3音素の導入により、母音交替の4パターン

パターン1 e / o / Ø
パターン2 ē / ō / e
パターン3 ā / ō / a
パターン4 ō / ō / o

は、過去には、

パターン1 e / o / Ø
パターン1' eE / oE / E
パターン1' eA / oA / A
パターン1' eO / oO / O

であったことになる。  これにより、4パターンではなくて、すべて e / o / Ø のパターンだったと言えるのである。

 パターン2は母音の隣に音素Eがあった事例、パターン3は母音の隣に音素Aがあった事例、パターン4は母音の隣に音素Oがあった事例に過ぎないのである。

 ここで導入した3音素E,A,Oは、喉音 (laryngeals)と呼ばれる。  そして、このような考え方は、喉音理論 (laryngeal theory)と呼ばれている。
 この考え方を最初に示したのは、F.ソシュールであり、その弟子達によって理論と呼べるまでに精緻化され、今に至っている。


3.疑問点


いくつかの疑問点もある。

まず、3つの母音交替のパターンを、1つの母音交替のパターンに還元させたのであるが、そのために3つの新しい音素を導入しているのである。
これは説明としては適切なのだろうか。
議論のすり替えになっていないだろうか。

また、3つの音素は、どういった響きをもった音だったのだろうか?
「隣の母音の調音点を変える」などという振る舞いをする音であると指定したが、そのような振る舞いだけから定義してよいものだろうか。
音素の実体が見えてこないので不自然な気がするのである。

 事実、ソシュールがこの考えを示した1880年頃には、あまりに理論的であり、かつ音声学的に不明な音というのが納得されず、
この考え方もすぐには学界に受け入れられなかったのである。


4.喉頭化と声門化


喉頭化 (glottalization)とは、喉頭全体や声門の緊張、閉鎖を指す。英語のglottalizationというのが、相応しくない、間違いな英訳かもしれない。

声門化 (laryngealization)とは、披裂軟骨をきつく閉じて、声帯が披裂軟骨の反対側の一部分においてのみ振動するようにして発声することを指す。ふつう、有声音における「きしみ音」となる。

参考文献
Beekes, Robert S. P. (1995). Comparative Indo-European Linguistics: An Introduction. Amsterdam


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