指令法 injunctive
しれいほう


サンスクリット語の文法書には指令法(injunctive)という形式についてごく簡単に説明が書いてあることがある。指令法は相当マニアックな文法事項でよほどのことがない限り、注目する人はいないだろう。多くのサンスクリット語学習者には、どうでもいいかもしれないが、しかし、比較言語学的には指令法は謎を秘めた興味深い形式なのである。ここで少し言語学的考察をしてみよう。ところで「指令法」という日本語の術語自体、なんだかピンとこない名前なので、私はここでは英語のinjunctiveで通すことにする。

injunctiveは、形式として、時制の標識はない。また、オーグメントも無い。
injunctiveには、二つの用法があるという。その一つめは、否定のparticleである mā とともに、「禁止」を表わす、というのが文法書に載っている用法だ。


mā na indra para vr。n.ak
インドラよ、我々を見捨てるなかれ


そして、もう一つの用法は、動詞における別のテンスやムードの代わりとして用いられる、というものだ。 形式は変だし、意味も変で、わけが分からないのである。injunctiveとは何なのか。古くは、これはムード(法,mood)のひとつだと考えられてきたようで、指令法という訳語もそれに基づくのかもしれないのだが、しかしそれにしては、injunctiveは別のムードの代わりをする性質があるのである。

これをキパルスキーはconjunction reductionと呼んだ。conjunction reductionとは、文が2つ接続されている場合に、後ろの文においては、前の文で登場した要素を省略できる、という慣習のことだ。たとえば「私が食事を作った、そして彼女が食べた。」などというとき、彼女が食べたものを表わす目的語は「食事を」であろうが、省略されて何の問題もないだろう。これと似たような考え方をして、文が2つ並んでいるような場合に、後ろの文で現われる動詞は、前の動詞のテンスやムードを引き継いでいると考えれば、いちいち形式的な表示をしておく必要はないわけだ。その意味で、テンスやムードを標示する形式が"reduction"してよいのだ。

 もしかすると、「禁止」を表わすという用法のほうも、conjunction reductionの一例と考えられるのかもしれない。というのは、māという語が現れればそれだけで「~するな」の意味になるのであるから、続く動詞については語彙的な意味さえ分かれば、テンスやムードについて全く無標識でもいいわけだ。なので無標識なinjunctiveが使われるのだ、と考えるのである。
また、ホフマンの古典的研究においては、injunctiveはヴェーダにおいて聞き手が既に知っている事物を指す場合に使われるという。
インド・イラン語派以外では、初期のギリシア語で、オーグメントの無い形式が用いられることがあるが、これがconjunction reductionの残滓である可能性がある。

injunctiveは示唆深い形式だ。なにせ現在というテンスを表わす語尾の-iや、インパーフェクトのオーグメントが無いのだ。発想を変えてみれば、これらの形式は必ずしも必要なのだろうか? 過去の言語においては、これらは必須の要素ではなかったのかもしれない。つまり、起源的には動詞とはまったく別の、副詞的な要素にすぎなかったのであり、それが文法化(grammaticalisation)されることで動詞にくっつく要素へと変わったのかもしれない。

シンプルな無標の動詞形式をeventiveと呼ぼう。eventiveの動詞形式を再建すれば、動詞に関するカテゴリーをより簡素化できる。 Strunk(1994)などは、人称語尾が同じであることから、現在とアオリストはPIEにおいて同じであったとする考え方を示した。すなわち現在とアオリストという、アスペクトによる形式の差異はなく、形式的にはただeventiveだけがあったとする考え方である。こう考えると、アナトリア諸語にカテゴリーとしてアオリストが無いのと繋がってくるように思われる。

参考文献
高津春繁『印欧語比較文法』岩波全書セレクション
James Clackson Indo-European Linguistics p130-
Paul Kiparksy "The Vedic Injunctive: Historical and Synchronic Implications"


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