ヒッタイト語


1.ヒッタイトの発掘

1906年、ドイツ人でベルリン大学の教授であったフーゴ・ヴィンクラー(Hugo Winckler)とトルコ人のテオドール・マクリディ(Theodor Makridi)は、トルコ(オスマン帝国)のボアズキョイ(Boğazköy)という村にある遺跡の発掘作業に着手した。
その発掘において彼らは、楔形文字(くさびがたもじ)が記された大量の粘土板を発見した。楔形文字は、古代のシュメール人がつくったと言われる文字で、三角に削った棒を粘土に押し当ててできる三角形のへこみを並べていくことで作られる文字だ。その数は、私たちが知るアルファベット26文字よりはるかに多く、600文字ほどがあるらしい。

粘土板の楔形文字の一部は、アッカド語(Akkadian)を表わしていた。アッカド語は、古代メソポタミア全土を支配するようになったアッカド人の言語で、紀元前2000年ごろにはメソポタミア地方で広く用いられるようになった古代の共通語である。このアッカド語は、インド・ヨーロッパ語族の言語ではない。アフロ・アジア語族セム語派(または、セム語族ということもある)に分類される。セム語派に属する言語としては、アッカド語の他には、アラム語、ヘブライ語、エチオピア語などがある。

アッカド語を習得していたヴィンクラーは、発掘したそれらの粘土板を、すぐにその場で読むことができた。読み進めるうちに、彼は、自分がいるこのボアズキョイ遺跡が、古代に存在した「ヒッタイト」という国の首都ハットゥシャ(Hattusha)にある王室文書庫であることを読み取った。ちなみに、このように発掘中にその遺跡が何という人々が暮らした跡であるかはっきり判明するのは、考古学の世界では稀であるという。ハットゥシャは現在、世界遺産に登録されている遺跡である。

そもそも、ヒッタイトとは、紀元前1700年~紀元前1200年頃に、現在のトルコ中央部に存在していた国である。エジプト、アッシリア/バビロニアと並ぶ、近東の第3の一大勢力であった。年代により、前17もしくは16世紀初頭から前1500年ごろにかけてのヒッタイト古王国(Old Hittite,OH)、前1500年頃から前1375年頃までのヒッタイト中王国(Middle Hittite,MH)、そして前1375年ごろから前1200年頃までのヒッタイト新王国(Neo Hittite,NH)に3区分される。紀元前1400年ごろからは特に勢力が強大になり、ヒッタイト帝国とも呼ばれている。
ヒッタイトの強さの原因は、製鉄技術を持っていたこと、スポークで軽量化した車輪が付いた台に人間が乗り、これを馬に引かせる戦車(Chariot)を用いたことにあるとされている。ヒッタイトは、紀元前13世紀初頭にシリアの都市カデシュ(Kadesh)をめぐり、ラメセス2世の統治下のエジプト王国と戦闘をした歴史がある。これはカデシュの戦いと呼ばれており、ヴィンクラーが発掘したのは、このカデシュの戦いの後に結ばれた平和条約が記された粘土板であった。このように隆盛を誇ったものの、ヒッタイトは紀元前1200年ごろ、「海の民」と呼ばれる謎の者たちによって、滅ぼされたとされている。


2.ヒッタイト語の解読


さて、粘土板の楔形文字は、おおよそはアッカド語を表記していたが、一部の粘土板の楔形文字は、それまで知られているどの言語とも言えない謎の言語が表記されており、ヴィンクラーはその言語については読むことができなかった。この未解読の部分を残した粘土板は、ベルリンとコンスタンティノープルの博物館へ送られた。こののち、1914年に、ドイツ=オリエント学会からこれらボガズキョイの粘土板を模写するようコンスタンティノープル博物館へ派遣されたのが、チェコ人のフロズニー(Bedrich Hrozný)であった。彼は粘土板を研究するうちに、この楔形文字で記された謎の言語は、インド・ヨーロッパ語族の言語の特徴を持つことに気づいた。特に、ギリシア語やラテン語にある、主格と属格におけるrとnの交替が見られることが、フロズニーにこの言語がインド・ヨーロッパ語族の言語だと確信させるに至った。

フロズニーは1915年に、ベルリンの西南アジア学会で自分の研究成果について報告した。そして2年後の1917年に、「ヒッタイト人の言語、その構造およびそのインド=ゲルマン語への所属」という表題で論文を出版した。ヒッタイト語がインド・ヨーロッパ語族であると発表は、アッカド語と同じくセム系言語であると予想されていたことからして大反響を呼んだが、現在ではその主張は学界に認められ定説化し、ヒッタイト語は、現在文証されている中では最古のインド・ヨーロッパ語族の言語であるとされている。こうして今では、フロズニーはヒッタイト語(Hittite (language))の解読に成功した人物と呼ばれるようになっている。そして現在の日本の高校世界史の教科書でも、ヒッタイトはメソポタミア地域に初めて現われてきたインド・ヨーロッパ系の代表的民族であると記述されるに至っている。

インド・ヨーロッパ語族に属する最古の言語が見つかったことは、比較言語学にとって非常に有益なことである。それまで文献不足のため証明不可能であった仮説が、ヒッタイト語を証拠として証明されるかもしれないからだ。ではヒッタイト語発見によってどんなことが明らかになったのだろうか。以下で見ていくことにしよう。


3.ヒッタイト語の音素


ヒッタイト語には次のような音素があったとされている。
まず、母音は、a, i, u, eの4つがある。そして対応する長母音であるā, ī, ū, ēの4つがある。長母音は、scriptio plenaと呼ばれる記法で表わされる。

子音は、閉鎖音(p,b,t,d,k,g,kw,gw)、破擦音(ts)、摩擦音(s)、鼻音(m,n)、流音(l,r)、渡り音(w,y)、喉音(H,h)がある。



4.ヒッタイト語の形態論


ヒッタイトの動詞活用は2種類あり、一つが mi 活用と呼ばれるもので、もうひとつが hi 活用と呼ばれるものだ。

mi 活用は、三人称単数語尾が-ziであり、これは*-tiから来ていると考えられる。

hi 活用で、一人称単数が-hiであり、三人称単数が-iである。これは他のインド・ヨーロッパ語族に類似するカテゴリーがない。よってヒッタイト語の hi 活用は何に由来するのかが議論の的となっている。ある研究者は、hi 活用はインド・ヨーロッパ祖語の「完了」から来ている形式だと主張する。また、別の研究者は、hi 活用はインド・ヨーロッパ祖語の「中動態」(middle)に由来すると言う。さらにまた別の研究者は、hi 活用は、インド・ヨーロッパ祖語に存在した独自の活用(h2e-conjugation)に由来するとしている。そして別の研究者は、インド・ヨーロッパ祖語より前に存在したインド・ヒッタイト祖語からインド・ヨーロッパ祖語とヒッタイト語が分かれ出たのであり、hi 活用はインド・ヒッタイト祖語に由来する形式である、という大胆な主張をしている。まさに様々な仮説が出ており見解は統一されていない。


参考文献
大村幸弘 (1981) 鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘.日本放送出版協会
ジョルジュ・ジャン『文字の歴史』創元社
The Cambridge Encyclopedia of the World's Ancient Languages
E・ドーブルホーファー著 矢島文夫 佐藤牧夫 訳『失われた文字の解読II』山本書店

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