母音交替
ぼいんこうたい
1.母音交替とは
比較言語学の面白さの一つは、同系の諸言語をいわば「総合」していく点にある。その「総合」をおこなっていく上で非常に重要な観察すべき現象である「母音交替」という現象について、ここで説明しよう。
同一の形態素を持つ複数の語を観察してみよう。すると、ときどき、それらの語の中で同じ意味を担う部分(形態素)の母音が変化しているのが見受けられる。日本語の、風「かぜ」/kaze/と、風向き「かざむき」/kazamuki/で、形態素「風」の語末母音 /a/ と /e/ とが異なっている。
このように、形態素の中の母音が変化する現象を母音交替(ぼいんこうたい)という。母音交替は、英語で apophony とか vowel alternation という。また、ドイツ語では、特に歴史言語学的な意味においてアプラウト(Ablaut)という。漢字では「交替」と書き、「交代」とは書かないので注意してほしい。ここで、「交替」の言語学上の意味は、「互いに入れ替わることがある」、「入れ替わっている場合が見られる」という意味にすぎない。「人為的に、いつでも入れ替え可能である」という意味ではないことに注意していただきたい。
1-1.母音交替の例、母音交替でない例
例えば、酒「さけ」/sake/ と酒屋「さかや」/sakaya/ でも、「酒」が「さけ」と「さか」になっているので、 /e/ と /a/ が母音交替の状態にある、または、 /a/ と /e/ が交替している、と言える。
一方、酒「さけ」/sake/ と坂「さか」/saka/ という2語においても /e/ と /a/ が異なるが、これは母音交替とは呼ばない。
なぜなら、この「酒」と「坂」は、そもそも異なる形態素だからである。
異なる形態素が異なる音素を持つのは当然である。つまり、ある母音の入れ替わりを母音交替と呼ぶためには、その母音の入れ替わりが起こっているのが、同じ形態素内でなければならない。
子音交替という現象もある。空「そら」が青空「あおぞら」になるのは、/s/ と /z/ とが交替している。
日本語には漢字があるので、形態素の同一性は、漢字の同一性で確認できる。「酒(さけ)」と「酒屋(さかや)」は「酒」という漢字が共通しているから、これらは同一の形態素を持つと判断がつくということだ。
しかし、表記に用いる文字がアルファベット一種類しかない言語に関しては、同一形態素かどうかの判断が難しいかもしれない。
2.母音交替と形態素
続いて、動詞の母音交替について説明しよう。
動詞は語末がさまざまに変化するので、名詞よりも理解しづらいかもしれない。
まず例として、逃がす「にがす」/nigasu/ と、逃がす「のがす」/nogasu/ について考えてみよう。この2つの語には意味の共有があるので、同一の形態素を持つ。その同一形態素は本来まったく同じ形のはずだが、ここでは/nig/ と /nog/ という異なる母音をもって実現している。つまり、/i/ と /o/ の母音交替を起こしていると言える。
次は、英語での例を出そう。
sing 「歌う」という動詞の現在形がある。この過去形は sang で、過去分詞は sung だ。したがってこの3つの語の母音部分はi, a, u と入れ替わっているので、/i/と/a/と/u/の母音交替が生じている。なぜなら、その判断の前提として、sing, sang, sung はいずれも同一形態素を持つと考えられるからである。もしかすると、形態素の同一性について、この説明では納得がいかない人がいるかもしれない。そのような人に対しては、こちらの項目で、より詳しく解説しているので、適宜参照してほしい。
さて、こういった母音交替を見出すためには、母音の入れ替わりが同じ形態素の中で起こっているのか、同じ形態素の中ではないのかを、判断しなければならないのであるから、その言語にはどのような形態素があるのかについて、よく理解していなければならない。そのため、母音交替は、音韻論だけでなく、形態論にも属する問題であると言える。
3.造語法としての母音交替
以上が母音交替の概念の説明だ。ここからは注意点を述べよう。
母音交替のことを、造語法だと説明している本がある。造語法とは、既存の語に操作を加えて新しく語を作る場合の操作方法のことだ。母音交替は造語法なのだろうか?
もし造語法という操作だったとすると、法則のかたちで表現されるのだが、それが盛んに用いられることを、プロダクティブ (productive)であるという。逆に、その法則が用いられなくなると、プロダクティブではないということになる。母音交替は、インド・ヨーロッパ祖語からの発達段階のある時期ではプロダクティブな造語法であったかもしれない。が、祖語において果たして本当にプロダクティブであったかはわからない。また、次第にプロダクティブではなくなってきた。そして現在では、母音交替はいくつかの語のあいだの関係として観察されるだけになった。たとえば、英語の動詞の変化sing,sang,sungに見られるように、動詞の現在形から過去形・過去分詞を作る上での例外的な操作として見られていると言える。私たちはプロダクティブなルールが過去に存在していた痕跡を見ているのであって、現代の英語で母音交替がプロダクティブなルールであるわけではない。
母音交替は、音が入れ替わっているという現象である。その音の入れ替わりを文法上どのように利用するかは、時代や地域によって違う。すなわち言語によって違う。そのため、母音交替を造語法であると紹介するのは誤解を招くので危険だと私は思う。仮にもし、母音交替が造語法であったとしても、それはあくまでも過去のある時期において造語法に用いられたにすぎないことに、注意していただければと思う。
参考文献
Michael Meier-Bruegger "Indo-European Linguistics" Walter de Gruyter Berlin New York 2003
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