ドイツ語


1.私の体験談

大学では私は第二外国語としてドイツ語を選択した。
読解重視の「文法」の授業と対話重視の「実習」の授業とがあった。「文法」の授業のスタイルは、さらっとしか文法解説しない割にがんがん生徒を指名して答えさせていく形式だったので、毎回緊張し、苦労した。また、ドイツ語の先生がなかなかに厳しく感じた。これくらい君たちすぐ分かるでしょ?といった感じだった。ドイツ語は1年生の前期のころは非常に嫌だった。

1年生の後期の授業では、ロベルト・シンチンゲルという人の「記憶(Erinnerungen)」というエッセイを読まされたが、今となってはその内容よりも、授業の予習の単語調べのために夏休みに辞書を引きまくっていた記憶しかない。ただ、そうしてなんとか踏ん張っているうちに、ドイツ語についてよりよく理解しようとして文法書を買ったりするようになった。だんだんと言語の構造に興味を持つようになった。

一方で、もうひとつのドイツ語の授業はテキストの読解よりも口頭での短文の受け答えを重視する授業だった。先生は、学習中の単語やフレーズを、いかに記憶に残すかを重視していた。口からのアウトプットが最も定着しやすい、という主義の先生であった。これは確かに私もそうだと思った。この先生は雑談時間が割と長く、ドイツでの生活習慣から、ドイツ語の歴史、ドイツでのドイツ語研究のことなどを解説してくれたりしたので、これは私の言語の歴史研究に興味を持つきっかけとなったのだと思う。

ドイツ語やフランス語などの第二外国語の勉強で紙の辞書を買うときは、まずは何よりも、収録語数が少なくてもいいので初心者向けの易しい辞書を買ってほしい。そのような辞書では、頻出の動詞の項目をひくと、その動詞の変化形が見やすく載っている。変化した形でもって検索できること、これが非常に重要なのだ。もとの形もよく分からない初心者のうちに、原形しか載っていない辞書を使うと、あれこれ迷って時間を浪費する。これは私の失敗談である。 私はやたらシンプルなページ構成で、収録語数が10万を超える辞書を最初に買ってドイツ語の勉強をしていたが、これは大失敗だったと思っている。初心者のうちはよく引く語は重要語になるのであるから、それらが色つきで目立つようになっており、変化形も載っている辞書を使うのが、分かりやすいし時間の節約になるのだ。収録語数はせいぜい5万程度でいいと思う。いきなり専門家レベルの語などは辞書で引くことはない。また、大学生は第2外国語ばかり勉強すればいいわけではない。第2外国語を効率的に予習するためにも、辞書は初心者に特化した分かりやすいものを買おう。私は「新アクセス独和辞典」(三修社)が使いやすいと思った。最近は電子辞書もある。値段ははるが、即座に検索結果が出るのでお勧めである。電子辞書ももちろん、動詞の変化形から原形(不定形)を検索することが可能である。


2.格


ドイツ語の文法事項で最も面食らうところはやはり(case)の変化ではないかと思う。格とは、文の中で名詞や形容詞がどのような文法的役割を果たすかという情報であり、語尾によって標示されることが多い。ドイツ語に格は4つあり、1格(主格「~は」)・2格(属格「~の」)・3格(与格「~に」)・4格(対格「~を」)という。格変化するのは名詞であるのだが、ドイツ語の場合は名詞自体の形は殆ど変わらず、冠詞がその代わりに変化して、何格であるかを標示してくれるという特徴がある。以下に「この」を意味するdieserの格変化を挙げよう。

男性単数女性単数中性単数複数
1格(主格)dieserdiesediesesdiese
2格(属格)diesesdieserdiesesdieser
3格(与格)diesemdieserdiesemdiesen
4格(対格)diesendiesediesesdiese

つぎに、この語が用いられている例文を挙げよう。

Diesen Kuß der ganzen Welt!


ここに挙げたコトバは、ドイツの文学者シラーの「歓喜の歌」として有名な詩の中の一部だ。
Diesen Kußは4格で「このキス」と訳し、der ganzen Weltは3格なので「全世界」と訳せばいいから、全体では「このキスを全世界に」というように訳せばいい。動詞がなくても名詞だけでこのようなことを意味することができるのは、ドイツ語のように格変化を持っている言語の大きな特徴であると思われる。

ちなみに、日本語にも格という考え方はある。日本語の助詞「を・に・が・へ・や・の・と・から・で・より」は、格助詞と呼ばれており、名詞の後ろに付いて格を標示する。英語では、格の概念は語順によってあらわされていると言える。大雑把に言えば、主語すなわち主格となる語は文頭に置かれ、目的語すなわち対格になる語は動詞の後に置かれる。

英語では格を標示する形式が殆ど退化してしまったのである。そのため、上記のフレーズを英訳したら、This kiss (is) for the whole world !とでもなるだろう。つまり英語では単に名詞を並べて、this kiss the whole world としたのでは、文意が通じないわけであるから、be動詞 is を持ってきて、this kiss を文の主語にしてしまうのだ。それか、動詞を使わずに前置詞 for の助けを借りてくることになる。


3.動詞の変化


上で紹介した格の変化は、ドイツ語の名詞についての話だが、ドイツ語は動詞もややこしい変化を示す。たとえば動詞の現在形は、人称と数に応じて語尾が様々に異なる。英語のように三人称単数の-sだけ付ければいいのではなく、3つの人称×単数と複数の2つとで、計6つの語尾を覚えなくてはならないのである。しかも、過去形も、同じように語尾がいろいろと変化するのである。

単数複数
1人称-e-en
2人称-st-t
3人称-t-en
現在形の語尾

単数複数
1人称-te-ten
2人称-test-tet
3人称-te-ten
過去形の語尾

過去形も、上のように、人称と数の2軸を持つ変化表を覚えておかなくてはならないのである。

さて、現在形・過去形とくれば次に思い浮かぶのは何だろうか? 私が思いつくのは、過去分詞である。なぜなら、英語の動詞の不規則変化はsing-sang-sungなどのように、現在・過去・過去分詞という3つセットで覚えるではないか。そして、事実ドイツ語も同じようにこの3つセットで覚えるのである。

それでは、過去分詞も上記の表のように、語尾がさまざまに変化するのだろうか? 現在形も変化するし過去形も変化するのならば、過去分詞も変化するのではないか? 私はこんな疑問を持つに至った。そして、しばらくこのことが気になっていた。しかし、やがて過去分詞は変化しないことが分かり、安心した。現在形、過去形、過去分詞と3つセットにして覚えるのは、覚え方の問題であって、この3つは等価な関係ではないのである。どのように等価でないかは、この先のどこかのページで、ゆっくり考えていくことにしよう。


4.ウムラウト

ドイツ語では ä ö ü という文字が用いられる。a,o,u の上に点が二つ付いた文字だ。これをウムラウト(umlaut)という。ä は「アー・ウムラウト」、ö は「オー・ウムラウト」、ü は「ウー・ウムラウト」という。

öとüについて、発音のしかたを表にまとめてみると、以下のようになる。

口の構え(唇の形)口の中(舌)
öoe
üui

ウムラウトという音の存在は、「母音が後続の音の影響を受けて、前舌化(fronting)する現象」を、ドイツ語が文法の中に取り込んだ結果である。「前舌化」とは何かというと、そもそも言語音は、発音時に舌が上下前後に動いて発音されるわけだが、母音の a, i, u, e, o の5つは、前舌母音後舌母音とに大きく区別できるのである。 i, e が前舌母音、 u, o が後舌母音である。このうち後舌母音の u, o はその名の通り口の中で舌が後ろのほうに盛り上がって出す音で、さらにこのとき、唇が前に突き出される。前に突き出された唇は「円唇化」しているという。つまり後舌母音は円唇化するのが普通なのである。以上がふつうの母音なのだが、ドイツ語のウムラウトは、これとは少し違った音になっている。円唇性は保たれたまま、前舌になるのである。よって、もともと前舌の母音である i e には、点々が付いたウムラウトの文字はない。

 ちなみに、ウムラウトを「母音交替」と呼ぶ場合が稀にあるようだが、これは混乱を招き、適切ではない。なぜなら、母音交替は、ドイツ語で「アプラウト」と呼ばれることが普通だからだ。このため、私はウムラウトを母音交替とは訳さないこととする。ウムラウトは、日本語でも「ウムラウト」といえばよく、これで十分通じる。無理やり日本語にすることはない。

 また、フランス語でも同じ点々を文字の上に付けることがあり、これを「トレマ」というのだが、ドイツ語のウムラウトのように前舌化せよという意味ではない。トレマは「この音は直前の音とは別の音節に属しますよ」という意味で用いられる。たとえば、「エゴイスト」はフランス語でégoïsteと書くが、この ï がトレマのついた i である。これはウムラウトではないというのは、ウムラウトが前舌化させる記号であり、また i はもともと前舌母音であるから、前舌化のサインを付与する必要がない、ということからも明らかだろう。
 ここでの ï は、その直前の o とは別の音節にあるという意味である。つまり o と i の間に音節境界があるので、まとめて読んではいけない、ということを意味している。なぜならばフランス語では、oi が同じ音節にある場合は[ワ]と発音するからだ。(例:oiseau[ワゾー]「鳥」)
 同様にして、フランス語で「クリスマス」はNoëlと書く。このëは直前のoと別の音節に属する意味でトレマが付いている。oeが同じ音節だと[ワ]と読むことがあるからだ(例:moelle[モワール]「骨髄」)。eはもともと前舌母音なので前舌化の意味でのウムラウトを付与する意味は無い。
 このように言語によって、補助記号が意味するところは様々なので、注意する必要がある(もとより、文字をどう読むかも厳密には違いがあるのだが)。


5.音素の中和


ドイツ語の特徴の一つとして、語末の有声音が無声化することがあげられる。たとえばGuten Tag「こんにちは」のTagは、[ターク]というように発音する。語末のgが[グ]でなくなり[ク]になるというわけだ。もちろんgの音が無いわけではなくて、Gutenの語頭は[グ]と有声なのである。つまり無声化するのは語末だけである。これを語末における「音素の中和 (neutralization)」という。

私は大学生のとき、この用語を言語学の授業で聞いたとき、だからどうした、と思った。名前をつけただけではないか、名前をつけることが言語学なのか、と。しかし、やがて考えは改まってきて、 このような現象が特徴的な現象だと捉えたうえで、現象に名前をつけておくのは、学問的な議論をする上で必要なことだ、と今では理解している。たとえば「音素の消失」などという、類似する現象が出てきたときに、中和という用語を持っておくことが現象の整理につながるのである。

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