サンスクリット語



ウィリアム・ジョーンズのサンスクリット語に関する見解から、インド・ヨーロッパ語族比較言語学が誕生したということは、すでに述べた。ここでは、サンスクリット語の特徴について述べよう。


1.梵字


変わった形の文字がお墓や供養塔に記されていることがある。私はこれをサンスクリット語の文字なのかと思っていたら、実はそうではないようだ。

これは青森県弘前市にある忠霊塔だ。「忠霊塔」の字の上に漢字でないような一文字がある。重要な意味のある文字に違いないだろうと思って、調べてみたら、これは「種字」というものだという。種字は仏や菩薩を表わす文字だ。そしてこれは、釈迦如来を表わすバクという種字だという。

  このような字は一般に「梵字(ぼんじ)」と総称されるようだが、正確には悉曇(しったん)文字の一種らしい。悉曇とは、11世紀のアラビア人地理学者アル・ビールニーがこの文字をネパール語の写本で見て、シッダマートリカ文字と呼んだことに由来する名前だという。シッダは「完成したもの」、マートリカは「母」を表すという。

  さらに、悉曇文字が属する系統は、インドのマウリヤ朝時代に完成してインド全体に普及した「ブラーフミー文字」のうち、北方系ブラーフミー文字というくくりに入るらしい。インドの文字の歴史は、非常に複雑だが、これには理由がある。あとで少し述べるが、インドでは文字に過度に依存しない、口頭での伝承を重視する風潮があったのである。

2.デーヴァナーガリー


梵字はサンスクリット表記に使われる文字ではなく、現在、サンスクリット語を記すのに用いられるは、梵字と同じく北方系ブラーフミー文字に分類される「デーヴァナーガリー文字」である。デーヴァ(deva)というのは「神」という意味であり、おそらく美称だ。なので単に「ナーガリー(文字)」と呼ぶ人もいる。デーヴァナーガリーは、現在もヒンディー語やネパール語の表記に用いられている。

このサイトでは、今後サンスクリット語をローマ字で表示するが、このページではデーヴァナーガリーはどんな文字なのかを一通り簡単に紹介しよう。

まず、母音は以下のようなものがある。
अ aआ ā
इ iई ī
उ uऊ ū
ऋ ṛॠ ṝ
ऌ ḷॡ ḹ
ए eऐ ai
ओ oऔ au
母音

次に、子音についてみてみよう。ここからは以下のような表に、音をプロットしてみよう。まず、破裂音と鼻音については、左側の5列に配置される。

無声無気音無声有気音有声無気音有声有気音鼻音半母音歯擦音気音
軟口蓋音क kaख khaग gaघ ghaङ ṅa
硬口蓋音च caछ chaज jaझ jhaञ ña
そり舌音ट ṭaठ ṭhaड ḍaढ ḍhaण ṇa
歯音त taथ thaद daध dhaन na
唇音प paफ phaब baभ bhaम ma
破裂音・鼻音
上の表で、硬口蓋の無声無気音のローマ字表記は c である。これが現在のサンスクリット語の通常のローマ字表記であると思うのだが、100年以上前のシュライヒャーやソシュールなどによる比較言語学の黎明期の本では、kにアキュート・アクセント(´)を付けた文字で表されている。同様に、硬口蓋の有声無気音は j であるが、古くは g にアキュート・アクセントをつけた文字で表された。硬口蓋の鼻音も、今は普通は ñ であるが、かつては n にアキュート・アクセントである。このように、デーヴァナーガリーのローマ字表記には時代によって違いがあるので、古い本を読むときは注意しよう。


次に、半母音、歯擦音、気音を並べると以下のようになる。
無声無気音無声有気音有声無気音有声有気音鼻音半母音歯擦音気音
軟口蓋音ह ha
硬口蓋音य yaश śa
そり舌音र raष ṣa
歯音ल laस sa
唇音व va
半母音・歯擦音・気音

ここでも同様の注意を述べよう。古い本だと、硬口蓋の歯擦音は、śaでなくてçaと書かれていたりする。また、そり舌の歯擦音は ṣa でなくて ša と書かれたりする。

これらデーヴァナーガリーで語をつくるときは、横書きする。書く向きは、左から右である。「般若心経」から例を挙げよう。

रूपं शून्यता, शून्यतैव रूपम्

rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam
「物質要素」(色)は、「実体がないという状態」(空性)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である。


一番左のरूは、rūに対応する特殊な字形である。ं は「アヌスヴァーラ」といい、ṃに対応する。ूは、子音のあとがūであるときに付ける記号である。न्यは、nyaを表すためnaとyaをくっつけたような形で、結合文字という。 ा は、長音を表し、ここではtaをtāにしている。 ै は、aiに対応する。最後の ् は、母音を取り消す「ヴィラーマ」という記号で、म (ma)のaを取り消している。
もともとは、インドには文字に頼る伝統はなく、口伝の伝統が非常に強かった。バラモンと呼ばれる祭祀を司る階級は、「ヴェーダ」という祭祀に関する知識を、文字に頼るのではなく、暗誦し、口伝で次の世代へと伝承していた。それはサンヒター・パータという1行ごとの口承、パダ・パータという1語ごとの口承、クラマ・パータという1語と1語がつながった形での口承であり、これらをもってそのテキスト全体が完全に伝承されることとなる。パダ・パータからサンヒター・パータを再建するための詳細の規則を教えるための「プラーティシャーキア(Prātisākhyas、各派ごとの)」と総称される音声学書があり、音便や、組み合わせ文字について記述されている。


2.サンスクリット語の文法


「サンスクリット語に文法なんてあるんですか?」と聞かれたことがある。サンスクリット語は古い言語であり、つまり"原始的な言語"だから、文法といえるような複雑な規則は無いだろう、と思われているのかもしれない。しかし実際は「文法がない」どころか、実際には非常に複雑な文法を持っており、古典サンスクリット語は一般人がうかつに学び始めるとすぐ挫折するほどだ。辻直四郎『サンスクリット語文法』(岩波全書)など開くと、その複雑さにめまいを覚えるかもしれない(しかし、文法好きにとっては大変面白い言語である)。

古典サンスクリット語は紀元前5世紀~前4世紀に死滅しかかった際、いくつかの文法書が書かれた。 このうち最も有名なのが、パーニニという人物によるものだ。パーニニが記した『八巻の書(Aṣṭādhyāyī アシュターディヤーイー)』と呼ばれる、8巻4章の文法書は、スートラという、短く覚えやすい2行の連句の形式で極限まで簡潔に表現され、いわば”代数学的”な規則として書かれており、意味を理解するのは難しいが、古典サンスクリット語を完全に規定した文法書と言われている。その後、パーニニのこの文法書を解説する「注釈」がいくつか書かれた。その中では、約150年後にパタンジャリという人物によって紀元前2世紀半ばに書かれた『大注釈(Mahābhāsya マハーバーシャ)』は分かりやすいという。このように古典サンスクリット語はインドの文法家たちによって規則として保存された結果、今なお日本で学ぶこともできる言語となっている。
 たとえば入門書としては、J.ゴンダ『サンスクリット語初等文法』(春秋社)が有名かと思われる。


3.ヴェーダ


 古典サンスクリット語をさらに起源へと遡ると、「ヴェーダ」の言語にたどり着く。ヴェーダとは何か?
 アロマテラピーの一種として、「アーユルヴェーダ」というものがあるそうだ。このアーユルヴェーダとは、総合的な健康術のようなものらしい。なかでも、額にオイルを垂らす「シロダーラ」という施術が有名で、これをヘッドマッサージ、ヘッドスパの一種として実施しているお店(サロン)があったりするみたいだ。
 この「アーユルヴェーダ」だが、インドのエステに分類される。インドに旅行に行ったときに、このオイルを頭に被る施術を受けてくる女性もいるようだ。ということで、日本で一番有名な「ヴェーダ」は、このアーユルヴェーダかもしれないが、そもそもヴェーダとは「知識」といった意味を持つことばで、とくに宗教的知識を意味する。インドは、非常に宗教的儀式が発達した地域であった。古い文献には、宗教的な祭式に用いられる賛歌・祭詞、それらの意義、儀式の細かな実施方法とその意味などが記されており、これらはヴェーダ文献とかヴェーダ文学などと呼ばれている。ヴェーダは儀式を執り行う祭官の職掌により、4つに分けられる。

リグ・ヴェーダ (Ṛgveda)
神を祭の場に呼び、讃える賛歌集である。日本語でも和訳が出ている(辻直四郎『リグ・ヴェーダ賛歌』岩波文庫)。
サーマ・ヴェーダ (Sāmaveda)
詠歌に関する規定。
ヤジュル・ヴェーダ (Yajurveda)
祭式の実務の規定。
アタルヴァ・ヴェーダ (Atharvaveda)
祭式全般に関する規定。

ウパヴェーダは、武術に関するダヌルヴェーダ、音楽術に関するガンダルヴァ・ヴェーダ、建築法についてのスターパティア・ヴェーダ、健康法に関するアーユルヴェーダがあるという。

古典サンスクリット語はパーニニらインドの文法家たちによって記された文法書とその注釈で伝承されてきたことばである。一方で、ヴェーダは、より古いことばで記されており、それは「ヴェーダ語(Vedic)」と呼べるものである。音や文法の特徴としては、rとlの区別の度合いが小さい、異語幹曲用があり、指令法(injunctive)がある、古典サンスクリットで好まれる過去分詞を多用する名詞構文が少ない、古典サンスクリットで使われなくなっている未完了・アオリスト・完了といった時制の区別がある、などの点が挙げられる。

ヴェーダの文献としては内容から、以下のように4つに分類できるという。
  • サンヒター (Saṃhitā) 本集(賛歌、祭詞、呪文)
  • ブラーフマナ (Brāhmana) 散文で書かれた祭式の規定、その神学的説明、神話、伝説
  • アーラニヤカ (Aranyaka)
  • ウパニシャッド (Upaniṣad)

    参考文献
    言語学大辞典
    辻直四郎『ウパニシャッド』講談社学術文庫
    ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑
    書いて覚えるヒンディー語の文字
    ブリタニカ国際大百科事典6「言語学」(p657)
    佐々木閑『100分de名著 般若心経』NHKテレビテキスト
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