三単現のs


1.日本人の違和感


英語では、「動詞が三人称・単数・現在形のとき、後ろにsをつける」という決まりが存在する。中学校の英語の授業でこの規則を習うとき、私はかなり「違和感」を覚えた。どうしてこんなことをしなければならないのか。日本語には、こんな規則はない。こんなことはしなくていいはずだ。

ところが、言語というのは慣習であり、その人が生まれたときに身近に存在している言語に合わせなければならない。理由など関係なく、慣習に従うのが求められるのだ。それが、その時代の「正しい言葉づかい」を実践することとなる。なので、日本人は中学1年生で英語を三単現の s を付けることを疑問に思ったとしても、中学3年生で高校入試の勉強をする時点では、当たり前のことだと思うようになる。このようにして疑問を疑問と思わなくなるのだ。しかし、いま改めて考えてみると、疑問は何も解決していない。この s は、何なのだろうか。

歴史言語学の結論から言うと、過去に存在した屈折語尾の名残なのである。 つまり、もともとの語末のかたちが、消えずに残っているだけなのであり、s をわざわざ「つけている」わけではない。もとからあるものを、「残している」というのが正解なのだ。

極論すれば、これは名詞の複数形のsと大差はない。 何らかの意味をもつもの(「複数」など)が形になって言語上に実現するのは、きわめて自然なことである。 名詞のほうは、可算名詞の複数には一律にsを「つける」ので、従う気になれるのだが、動詞のほうは、三人称・単数・現在だけにsを「つける」ので違和感が残るのである。

単数複数
1人称    
2人称    
3人称-s  
英語の動詞の屈折語尾(現在)


ヨーロッパの言語を一つでも学んでみたら、この仕組みがヨーロッパの言語には広く残っていることがよく分かる。 たとえばドイツ語の現在形では以下のような屈折語尾を動詞に「つける」必要がある。

単数複数
1人称-e-en
2人称-st-t
3人称-t-en
ドイツ語の動詞の屈折語尾(現在)


ドイツ語は英語よりもさらに面倒くさいと思われるだろう。が、機能面の話をするなら、これにより、情報をより確実なものにする効果がある。 なぜなら、動詞を見れば主語の人称や数が分かるからだ。 主語が読み取れなかったり聞き取れなかったとしても、動詞が認識できれば、主語が単数か複数か、何人称か、現在形か過去形か、などが分かるのである。面倒な手続きを踏んだほうが、確実性が高まるということである。


2.日本人の感覚


日本人は、このように人称(person)と(number)によって動詞の屈折語尾をさまざまに変化することは面倒くさいだけで特に意味を感じないが、 ヨーロッパの人々は逆に、人称と数による変化を、当たり前のことと思っているのかもしれない。

戦乱の時代に、ポルトガルから日本にやってきたジョアン・ロドリゲスは、日本語の文法を解説した著書を記している。そのうち、『日本語小文典』と呼ばれている著作には、次のような記述がみられる。

日本語の動詞はラテン語とちがい、〔主語の〕数と人称に応じて語形をかえることはなく、単数・複数のべつを問わずすべての人称にわたって唯一の語形を用いる。数と人称は動詞と共に現われる主格形〔の名詞〕や代名詞から悟る。


これはとても興味深い記述だと私は思うのだが、どうだろうか。日本人なら、こんなことを、わざわざ書き記すだろうか? 書かないだろう。人称と数による変化なんて、日本人ならば無くて当たり前だ。むしろ、あったら不思議なのだ。なので私は中学で英語を学ぶときに違和感を覚えたのである。が、ポルトガル人からすれば完全に逆なのだ。日本語の動詞は人称と数では語形変化しないのだ、とわざわざ書くほどのことなのである。

このように、言語学においては、母語話者でない人の意見というのは、非常に貴重なのだ。母語話者が当たり前のこととして見落としてしまう言語の特徴を、当たり前に思わず指摘してくれるからだ。その結果、対照言語学的に貴重な意見を得られる(したがってわれわれ日本人がインド・ヨーロッパ語族比較言語学を行う利点もあるはずなのだ。このことは神山先生が著書で書いておられる)。
しかしそうは言っても、私たち日本人のみならず、ヨーロッパの人々にも、こういった語尾のこまごまとした変化を覚えることは、正直なところ、「面倒くさい」と思われているのではないだろうか。というのも、ザメンホフという医師が作り上げた、「エスペラント」という人工言語では、このような人称と数による語尾の変化は、一切ないのだ。
単数複数
1人称      
2人称      
3人称      
エスペラントの動詞の屈折語尾(現在)

このように、エスペラントの現在時制では人称と数は語形に影響を及ぼさない。ザメンホフは言語を手段と見ていたのかもしれない。伝達手段としては、習得が楽なほうがよい。なので人称と数による語尾変化は不要というわけだ。
その一方で、「言語は伝統であり、民族のアイデンティティである」と考える人もいる。そのような人は、語形変化をなくすなどということは考えないだろう。独自の語形変化こそが、独自のアイデンティティの根拠である、自分の言語の個性だと考えるからである。 私は言語学に興味があるので、単に言語学的事実を述べるだけだ。中学1年生の時に疑問に思った点は、言語学を学ぶことで自分なりに整理がついた。ちなみに、このような語形にかかわる現象を規則として定式化する言語学の分野を、形態論という。


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