その一週間程前なら私はエンシャントにいて、滞在中はずっとアカデミーに
入り浸っていた。 久しぶりに門をくぐってみると学舎は一部崩壊していて、
また誰か実験に失敗でもしたのかと可笑しくなったけれど、幸い図書館の
方は被害を免れていた。 昔の様にあれもこれもとまるで関連の無い本を取り
出してはひとしきり眺めた後、書庫の薄暗くて埃っぽい通路へ足を踏み入れた。

 人のいる気配は殆どない。 それでも、きっと何処かの隅に座り込んで
いたり、棚の前から梃子でも動かず資料を繰っている物好きがそこかしこに
潜んでいるに違いない。
いつもそうだったからだ。 係員が「もう閉めるぞ、早く出てきなさい」と
大声で触れ回る。 と、誰もいないとばかり思っていた暗がりのあちこちから
のっそりと学生が集まってくる。

 こちらとしては別にこのまま閉めてくれて構わない、明日の朝までゆっくり
調べものをしたいから、という気でいるのだが、勿論そんな要求が通る筈もなく
まだ明るい階下へと追い出される。
 そこにも夥しい数の書棚が並んでいて、静かな広い室内には靴音と、何か
書き綴る音、遠慮がちな話声が混ざりあい、低くざわめきとなって流れていた。
 とにかく本の沢山おける、散らかしても大丈夫な机をみつけてそこに居座る。
落ち着くと、ほとんど無意識に私は顔をあげ、窓際の一隅へと目を走らせた。
 其処には大抵、同じ女性が座っていた。 長い黒髪と、他人を寄せつけない
雰囲気はセラを思い出させる所があったけれど、明けても暮れても剣の稽古に
夢中で冒険と称して何処ともなく出てゆく弟とは違い、彼女は、埃とも、雑音
とも無縁な物静かな感じの人だった。 よく、読書に飽きてそのまま、顔を
あげ窓の外の風景を黙って眺めている所をみかけた。
 彼女がアカデミーきっての優等生で、銀腕帝の血を引く一族である事を
知らぬ者はない。 が、私にとって別段それは重要ではなかった。
私はただ、時々話がしたいと思った一一今調べている事も、行き詰まって
いる事も、彼女なら何か、他とは違う答が返ってくるように思えた。
そうではない、取り立ててどうという訳ではない話も、してみたかった。
 何故だろう。 彼女とは同じアカデミーに在籍する者、という以外殆ど
共通点はなかったのだけど。

 私は書庫に入り浸り、ともすれば他の事などどうでもよくなる。 一方、
彼女の中では世界は整然としていた。 常に完璧で、誰よりも熱心に学んで
いたが、それでいて特別のめりこんでいる訳でもないのはよくわかった。
自分が必死に這い回って探してくるものを、ごく自然に散歩でもしながら
みつけてしまう。
私はそんな彼女を、憧れと賛嘆のこもった目で眺めた。 
 一度だけ、話をした事がある。 その時の事は今でもよく憶えている。
朝から雨が降り続いていた。 重く暗く鈍色の雲が張り出していて、書庫は
いつにも増して湿気がこもって息苦しかった。 こういう天気が続くと困る、
と係員は言っていた。 貴重な古文書を収蔵している割には、ここは余りに
お粗末すぎる。 例えば、雨とか、適当に山と積み重ね雪崩を起こす学生とか。
 何だかやる気になれず、早々に降りてくると果たしていつもの席に彼女は
座っていた。 雨は激しく窓を打っている。 彼女は先もみえない景色に
じっと顔を向け、離さない。 
あまりにそれが長く続くので、私はつい、ふらふらと近寄っていった。
彼女はこちらに気付き振り返った一一依然降りしきる雨音を背にして。
瞳は思っていたよりずっと大きく、幾分ぼんやりした表情を浮かべていた。
「どうしたの?」私は黙っていた。 すると、彼女は少し考え、やや
弁解でもするように付け足した。
「思い出していたのよ……色々なことを」
 話しながらその目には段々と力が戻る。 どこか別世界の住人の
ようだった朧げな雰囲気は影を潜め、いかにも才媛らしい利発な声が響いた。
「あなたがシェスターね。 とても優秀だと聞いているわ」一一


 ゆっくりと波が引いて、現実に戻される。 私はもう学生ではなく、
彼女は此処にはいない。 人づてにディンガルの政庁に入って官僚になる道を
選んだと聞いた時、彼女にはふさわしいと私は思った。
 主に3世紀中心の歴史書のある所で足を止める。 大抵の禁忌はこの頃に
封じられているからだ。 探しているのは大物の禁術。 最高位の精霊
魔法とも、先人類によって封じられたといわれる聖闇の禁呪とも違う。
アーギルシャイアに出会わなければ、その存在すら知らなかっただろう。
幾つか心当たりの文献を探してみた。 これといった記述は出ない。
難航は予想していたが、本当にかけらも引っ掛からなかった。
 それでも、見つけなくてはならなかった。 私にはその必要があった。
特に貴重な文書は地下に納められている事を思い出し、階段を降りてゆく。
遠雷が鳴っていた。 一雨来そうだ、と余り愉快でもなく考えた。
大きさも厚さも、上の書庫とは比べものにならない地下の本。 今度こそ
閲覧者はいない筈だった。 だが、私は再び誰か出てゆくのを見た。
 黒く長い髪。 ちらりと振り返った時に一瞬のぞかせた美しい横顔。
あの、人を寄せ付けぬ孤高の雰囲気。
「……あ、」
 後を追い掛ける。 まさしく彼女だった。 そんなに早足で
歩いているとはみえないのに、まるで差が縮まらない。 縮まらぬまま、
彼女は出口へと歩いてゆく。
 尋ねたい事が沢山有った。 でもそれだけではなかった。 
何故だろう。 その後姿は誰かを思い起こさせた。
確かに弟にも似ているけれど、それ以上に。
私がどうしてももう一度会いたいと願うあの人に。
「別人よ……わかってるわ」
目の前を歩く彼女は、アカデミーきっての秀才で、あの人とは違う。
あんな妖しげな笑いは浮かべない。 
 図書館の大きな扉を開け放たれる。 雨が降りはじめていた。
「待って!」走り出した所で私は叫んだ。 彼女は前庭の中程まで来て
いたが、声を聞くとゆっくり振り返った。
「誰?」
 訝しげな声で尋ねる。
「私は、」何と言っていいのかわからなくなり、思わず言い澱んだ。
「私は一一」
「どうしたの?」
 相手は立ち止まったまま微笑した。 
前髪が雨に濡れて、額にはりついている。 そうするともっと似ていた。
「お聞きしたい事があるのです」

「禁呪を越える魔法があるというのは、本当ですか?」
 単刀直入に私は切り出した。 一笑に伏されるのも覚悟していたし、
答が返ってくるなど端から期待してはいなかった。
だが、相手は笑わなかった。 
「精霊魔法でも神官系でもない、古に封印された禁術があるというのは」

「その力を、あなたはどうしたいの?」
「人の身に余る禁術があるとして、あなたはそれを使えるの?」

「そんなもの、……より一層、孤独は深まるだけだというのに」


 返事を待たず、彼女は歩きだそうとした。
私は必死に呼び止めた一一まだ今言われた意味を、わかっては
いなかったが、この機会を逃したくなかった。
「書庫の地下で、一体何を探していたのですか?」

「思い出したのよ……色々なことを」
 一瞬目を伏せて、それから幾らか楽しげに、付け加える。
「ありがとう。 さようなら、シェスター」

 驚いているこちらの事など気にもせず、彼女は去ってゆく。
彼女は隠された魔法の存在を、否定しはしなかった。 だからまだ、
探す意味はあるのだと、私は思った。
「気付いてしまったのかしら。 それは少し、問題だけど。
でも、久しぶりに会えたわね。 ……アーギルシャイア」



 彼女の言葉の意味を理解したのは、それから丁度十日後、旅先の宿で
エンシャント住民消失の報を聞いたその朝だった。