殆ど真上から太陽が歩き続ける二人に照りつけてくる。 木々は
つるを絡ませ進むに連れ益々その色を濃くし、侵入者を頑に拒んで
いるというのに、どうしてか涼やかな木陰とはなってくれない。
うねる道のその部分にだけ正確に陽は当り、焦げ付くような感覚に
オイフェは思わず恨めしそうに空を見上げた。
 気持ちいいくらいの青空だ。 行けども行けどもまるで出口の
みえない今の状況をよそに天気はあくまでさわやかで、それがまた
却って憂鬱な気分を助長している。
「なあ、本当に着くのかね」
 たまりかねたドルドラムが口を開いた。
「この森のどこかにあの猫屋敷があるというのは、それは紛れもない
事実だろうよ。 しかし、噂では結界が張られ、常人では辿り着けぬとか。
現にこれだけ歩き回っても、まるでそんな気色も見えぬ。
勘を頼みにうろついて、無駄足に終わりゃせんかと心配なんじゃが」
「必ず見つけるわ」オイフェは下らないとばかりにあっさり答えた。
「この森全部焼き払っても、絶対に行くのよ。 猫屋敷には、あの
女がいる。 彼女なら、必ず何か知っている筈だわ」
 やれやれ、とドルドラムは見つからぬように首を振った。
一瞬でも弱気にみえたのは単なる見間違いだったようだ。 今のオイフェは、
鉄火姫は下手に止めるとすぐにも背に負った弓を取り出しかねない。


 庭ではネモがいつものように丸くなっている。 短い階段を降りようと
した時、ケリュネイアは離れた高木の影から一斉に鳥が飛び立ちうるさく
鳴き立てるのに驚きそちらを見上げた。
「どうしたのかしら」
「昼寝もできねえな。 ……なあ、何が起きてるか、知りたいだろ?」
 ネモが狡そうに問いかけてくる。 ケリュネイアは軽く笑い、首を振った。
「いいわ。 出てゆく程の事でもなさそうだし」
「ずいぶん余裕ができたじゃねえか」ネモは顔をあげた。 
「ちょっと前ならすぐ血相変えて走っただろうによ」
「というより、離れられないの」ケリュネイアは寝室の方を目顔で示す。 
 先程まで弱々しく聞こえていた呻き声も今はやんでいた。
「成る程な」ネモはまた丸くなる。 その様子にふと疑問を感じ、ケリュ
ネイアは何気なく訊ねてみた。
「ねえ、本当に何かあるというの?」
「聞いてどうするんだ」
「父さんがいないのよ、今此処で騒ぎを起こす訳には行かないわ。
何が『彼女』に影響を与えるかわからないもの」
「だったら自分の目で確かめた方がいいだろ。 まあ、今回のは敵じゃ一一」
 嗄れた声が強く弱く苦悶の色をたたえて響き、話は途絶えた。
顔を見合わせると、いつも飄々としているネモの目に、どこか苦々しげな
表情が浮かんでいる。 きっとそれは其所に映る自分の表情でもあるの
だろうとケリュネイアは思い、ふうと小さく息を吐いた。
「様子を見てくるわね」
「ああ」同情する所など見られたくないのだろう、ネモはそっぽを向く。
しかし振り返るケリュネイアの背後から渋々と声がかかった。
「まあ、あれだ……早く行った方がいいぜ、多分な」


「多分じゃないわ、絶対よ」
「確かに、猫屋敷の賢者様はセルに肩入れしているがのう」
 同じ所をずっと回っている様に思えてならない。 無駄じゃないかと
言われずともオイフェは既に胸中で厭という程自問自答していた。
 ドルドラムも流石にこれ以上口を挟むのはやめた。 ただ無言の内に、
いつまでも後をついてくる。 諦めるのを待っているようだとオイフェは
思い、じりじりしながら何か方法はないかと頭を巡らせた。
 目的は達せられなくてはならないのだ。 途中にどれだけの事がなされ
ようとも、ただ闇の向こうに消えたその人の手を捕まえられないのなら、
何もないのと同じだった。
 迷っていると知ると、尚一層足をはやめるオイフェに必死でついて
歩きながら、ドルドラムは何かを思い出したように表情を緩ませた。
 二人とも、そこに居る筈のもうひとりの名は口に出さない。
ただこの時、オイフェは前を歩きながらふと視線をそらせ、ドルドラムは
俯いて黙々と歩を進めながら各々に、やるとなれば本当に森ひとつ
壊しかねないボルダンの大男を思い浮かべていた。


 家に入り、もがく音が伝わってくる扉の前まで来ると、ケリュネイアは
取手を持ったまま少しの間逡巡していた。
 徐々に次の発作までの間隔は短くなり、この屋敷に張り巡らせた
強固な結界ですらそれを抑えきれはしない。
落ち着く度にザギヴは必ず「もう限界かも知れない」と言った。
否定しても弱々しく笑いを浮かべ、感謝と、信じていない事を暗に示す。
 今も声が聞こえてくる。 こちらまで頭がどうかして来そうな悲鳴だ。
自分に何が出来る。 でも、放っておく訳にも行かなかった。
ケリュネイアは思いきって扉を開けた。

 「セル……来て、くれた、の……?」
「私よ。 そうね、セルはもう数日でこちらに着くわ。 父さんも一緒に」
 寝台の端にもたれるように身を投げ出していたザギヴは、何を言っているか
わからぬようにこちらを見た。 黒く長い髪は乱れ、幾重に分かれ広がっている。
ぞっとする程青白い顔に見開く瞳には、何かを渇望して止まぬ人間の、狂気に
似た執着が浮かんでいた。
「今、回復の魔法をかけてあげるわね。 大丈夫よ、もうすぐだから」
 助け起こそうと腕を回すと、思いの他おとなしくされるがままになっている。
額にかかった髪を手でかきあげ、そっと後ろへ撫で付けた。
ふっくりしていた頬はやつれ生気はなく、乾いた唇は傷付いて細く血を
流している。 焦点のあわぬ眼差しにあって辛くなり、ケリュネイアは目を伏せて
回復の呪文を唱えようとした。
「いいえ、来ないわ……もういいの、もういいのよ……」
「今度は本当よ。 セルは必ず来る、だから一一」
 なだめようと髪に触れていた手に、青白い腕がさっと伸びた。 驚く間もなく
強い力でぐいと締めつける。 痛さでケリュネイアが呻くと、下からザギヴが
笑みを口端にたたえ見上げていた。 
 少なくとも先程よりは元気そうだ。 ケリュネイアは瞬時にそう感じた。
しかし、この場合の元気というものは、決して歓迎できる材料ではなかった。
瞳に浮かんでいた諸々の感情は、もはや異様な光と化し、笑顔はそのまま
暗い淵を覗き込んだ者の表情と同質に取れた。
 あえぐように、うわごとのように、ザギヴは喋り続ける。
「動くのよ、私の中で誰かが。 いつでも突き破れると笑っているの。
私は、ただ皮1枚だけになって、裂けて、千切れて。 痛いかしら。
苦しいかしら。 いいえ、でもそれを過ぎれば楽になるのね、きっと。
何も考えずにすむもの。 ただ苦しく、ただ冷たく、希望など抱かなければ
絶望にもまた気付きはしないわ。 そして怪物になるの。
醜い、怪物になるの。 そうしたら私を殺してくれる、セル?」
「ザギヴ!」
 たまらずケリュネイアは声を荒らげた。 
「誰も来ない。 誰も来ないよ、待っていたけど、これ以上待てないの。
セルも。 ベルゼーヴァ様も。 ……ネメア様も。
そうよ、次元のはざまに落ちたんですもの、もう帰って来れないわ。
私を生かしておいて。 私が一番憎んでいる私を残したままで」
 はじまりと同様唐突に言葉は途切れた。 弱々しい笑い声が響いている。
ケリュネイアは何か言おうとしたが声にならなかった。 ネメアの名を
聞いた途端、のどに何か頑丈な木枠がはまっているように苦しくなった。
 やがて、ザギヴは笑うのも止めた。 瞳が平静に戻っている。
「ごめんなさい……」消え入りそうな声がようやく言葉を結ぶ。
「まだ、大丈夫よ……セルは、もうすぐ来るのよね……?」
 ケリュネイアは黙ったまま頷いた。 ザギヴの体から力が抜け、締めつけ
ていた手ががたりと床に落ちる。 寄り掛かる華奢なその人を支えながら、
ケリュネイアはいつまでも相手の長く黒い髪を撫でていた。
窓から差し込んでくる陽光がやたら眩しく、別世界の様に思えた。



「落ち着いたみたいだな」
 屋敷から出ると、ネモが待っていた。
「眠ったわ。 本当に眠れているのかは、わからないけど」
「そうか」
 ネモは短く答え、身軽に段を降りる。
「待っているのは、待っているだけなのは、辛いわね。
私だって、本当は兄さんを探しに行きたい。 でも一一」
「おっと、お客さんだ」
 ネモが遮って言い、森の向こうに目を向けた。
「誰?」
「自分で確かめろって言ったろ? そうだな、そいつはお前とは単なる
知り合いで、しかしとんでもない勢いで何か探していやがる。
その為なら世界がどうなろうが構わないと思っているぜ。
参考になるか? まあ、ならないように話してるんだがな」