ゆっくりと階段を昇る靴音が響き、やがて宿屋の粗末な扉が開く。
先に行っていろと目顔で言ったセラは、影になった方の腕に何か抱え、
いつもと少しも変わりなくごく普通の様子で入ってきた。
久しぶりに会ったのに、どんな喜びやその他ないまぜになった感情を
交える言葉も、かける時が見つからない。
下手に口を開いても、相手の冷たい表情を前にしていては、きっと声は
中途で切れてしまう。 今までも、そうだった。
怖い訳ではないけれど。 そう、怖くは全然ないんだ、むしろ。
壁にもたれ膝を抱えた姿勢のまま、セルはじっと向いに座る相手を見ていた。
流れる黒髪。 尊大な態度の割に、未だにそれ程名を上げた訳でもなくて。
かなわない相手でも関係なく向っていって、あっさり返り討ちにあってしまう。
確かに綺麗な顔だけど、そんな時は却って見ていて恥ずかしくなる。
もうやめればいいのに、と思いながら止められず笑っていた。
どうした、と言いたげにセラが顔をあげる。
何でも。 セルは目を伏せ微笑した。
沈黙が続くのはいつもの事だった。 ひとりでいる時の静けさは時に
どうしようもなく仲間が思い出されて寂しくなったが、こうして
ゆるやかに過ぎてゆく時間の中では、むしろ言葉こそ面倒なだけだった。
ただ、そういう日常ではこの後、別の作業に移ったり、そのまま寝入って
しまうのが多々だったけれども、何故だろう。 どうしてか今夜は
ただずっと相手を見ていたいような気がした。
明日はまた猫屋敷へと行かねばならない。 それから、そして、と
次から次へと自分にかけられた言葉が浮かんでくる。
いつからそんな勤勉な人になったんだろう。 おかしくなり、それから
また明日は此処を発つから、まず準備は、その為に、と考え出して、
軽く重ねた手がぎゅっと力を込めて組み合わせられているのに気付く。
結構小心者だ。 終わっていないと、心配になる。
どこからか風でも入っているのか、灯が揺れている。
きちんと荷物を片付けていたセラも、する事がなくなったのだろう、
何とはなしにそちらをぼんやり向いたまま座っていた。
余り顔を見つめていると嫌がられそうだ、と思いながらセルは、
それでも相手から視線を外せずにいる事に少々驚いていた。
顎から耳朶へと続く輪郭。 アーギルシャイアもそうだけれど、
姉弟共余計な歪みなど何ひとつない綺麗な線をしていた。
ロイとはまた違う。 人間なんだけど、どこかこの世の物とは
思えない……ってそれは言い過ぎか。
喋るとただの口煩い男だし、威張ってる癖に結構「あっ」と
虚を突かれてる場面も多くて、しかも「弟」。
シェスターに再会した時の「姉さん、どうして……」って情けない声、
もう絶対忘れられそうにない。
そう、あのセラが、この目の前の無愛想な男が、絶句って。
ロイが一緒に行くとか言い出してなんかうやむやになったけど、あれ
ほっといたらきっともっと貴重な場面が展開されたに違いないとか
考えると、いや勿体ない事したわとか、ククッ。
「楽しそうだな」
低い声に驚いて目をあげると、セラが灯りを向いたまま微かに動いた。
「そう?」
「ああ、気持ちが悪い」
ちらちらと揺れる灯が、横顔に薄い影を幾つも重ね壁へと続いている。
「そうかな。 うん、楽しいわ、やっぱり」
「変な奴だ。 ……この後はもう決めてあるのか」
「後? あ、ええと、一応明日は猫屋敷へ行って、それから」
「猫屋敷だと。 またどうせ断れなかったんだろう」
「え、いや、まあ、今度はオイフェにも言ったし、ネモも心配して」
「あのダークエルフか」
「うん。 あと、ザギヴも連れて行くから」
セラは何か言おうとして座り直し、それから呆れたように頭を振った。
「まあ、お前らしいと言えば、お前らしいな」
それ以上待っていても何も起きはせず、早く寝ろと言われてお終いかなと
思いながら、まだセルはずっとそのまま相手をみていた。
別にどうしたいという希望もなかったが、強いて言えば今このままで
良かった。 穏やかで、心地よく、そこから閉め出される事もない。
もう僅かでもこの空気を動かしたくなかった。 にも関わらずセルは、
相手の動きを逐一見逃すまいと凝視している自分に気付いていた。
自分で自分を裏切るように、その目はセラを、この場が変わる時を
じっと待っていた。
願望ばかりだ。 相手が動くのを待っている。
一一「良くみると」都合よくセラが問いかける。
「細かい傷が随分あるぞ。 碌に回復もしなかったのか」
立ち上がり、こちらへと近付く。 自分では足を伸ばす事すらできない
距離を、易々と縮めてくる。
「動くな。 よく見えん」
長い指が肩を掴み、視界は遮られ薄暗く変わる。
目の前には触れそうに近くセラがいて、目をそらそうとしても頭を
動かす事ができない。
セラの手がゆっくり上衣の合わせ目に差し込まれ、胸のあたりをさぐる。
もたれようとする度体は押し戻され、セルは自分に覆い被さる影の向こうに
薄ぼんやりと照らす灯をみながら、何か忘れてなかったかと考えた。
一一どうした。 とセラが顔をあげる。
いいや、何でも。 とセルは首を振った。
「随分と傷があるな」相手はふと驚いた様子で言う。
「碌に回復しなかったんだろう」
「忘れてた」セルは笑った。 「そうだ、道具屋寄らなきゃ」
「荷物を調べて置こう。 何が必要なのかもわからんからな」
セラは立ち上がった。 視界が遮られ、途端に薄暗くなる。
「……全く、何てカオスだ」
器用に袋の中から取り出して一面に並べながら、セラは溜め息をつく。
「動くな。 薬が潰れる」
すぐ目の前には触れそうに近く相手がいる。 いるけど何か違うと
思いながら、どことなくほっとしてセルは微笑した。