海を渡ればアキュリュースがある。
影だけが映る、その都市。 更にそこから果てしなく続く大地を、自分が
再び踏む事はかなわなくとも、禁断の聖杯より産み出されし怪物ならば
きっといつかは戻るかもしれない。 その怪物は特別なのだから。
彼は試行錯誤の果てに、それを沢山の残骸の中から見い出した時、
ひどく誇らしい気分になった。 満足して、しばらく眺めた後、
大急ぎでまたそれを仕舞い直した。
彼より他に、誰もこの島にはいなかったからだ。 一体他人は、
この怪物をどう考えるのか、知る術がない。 彼はその事を
少々残念に思った。 そう、ただちょっと、先に伸ばせばいいのだ。
終わりのはじまりは、それからでいい。 じきにきっと彼を探して
追っ手が現れる。 勿論いつまでも待てる訳でもないけれど。
彼が作った怪物は、彼にどこか似ている。
例えばそこに一枚の紙片があったとして、貴方はそれを折り、教本に
載っている複雑怪奇な図を何とかして自分の手の中に現出しようと
試みるが、しかしその不格好な結果に軽く失望を覚えるだろう。
己の造り出したものは己自身の姿をどこか受け継いでいる。 例え
他人の設計図であったとしても、それは変わらない。
長じて後、易々と折り進み、そのどこからみても教本通り、理想の
線形を保っていると意気揚々棚に乗せ、少し離れて誇らしげに
我が作品を鑑賞する。
と、どうだろう、理想とみえたその鶴は、やはり欠点だらけ、
歪んだいつもの自分の作品でしかないのだ。
皆そんなものだ、と彼は思いきれなかった。 そうやって上達してゆく
のだ、と自分を慰めても充足には至らなかった。 軽々と自分を越えて
前をゆく者たちの背中は、現に速度を落とすでもなく、道を違える事もなく、
遥か先へ進んでいるではないか。
彼は今まで、悔しげに睨み付けるしかなかった。
いいだろう、世の中には自分より少しばかり器用な者も多いのだ。
例えば彼には扱えなかった巨人を商品として武器に仕立てあげたり。
同じように振舞ったつもりが、何故か一方にばかり信望が集まっていたり。
前者はくすくす笑う声だけ残し巨人を連れて去っていった。 誰も彼らを
止められる者などいなかった一一当たり前だ。
後者は颯爽と現れ、快活な笑い声を響かせる。 彼のちょっとした癖を
からかい、軽口を交えながらリベルダムの繁栄について大いに語る。
たまたまロセンから来た客が居合わせたりすると一一彼は内心、
あまり気が進まないながら紹介したのだが、話が終わらないうちに男は
両手を広げ、大きな声で言いはじめた。
あなたの叔父さんを知っていますよ、前によくして貰ったんです。
闘技場へ足しげく通っていた、ええ、あなたもお好きなんですか?
それはいい、是非一緒に……
客が暇を告げる頃には、大抵親しげに話しているのが常だった。
男は彼より前に立ち、彼より先によく通る声で手を振りながら叫んだ
一一それでは、ええ、お休みなさい、ではまた今度の日曜に!
彼はいつもその少し後ろで黙って愛想笑いでもしているしかなかった。
全く鼻につく奴だったが、しかしもう死んだ、毒入りの酒で悶え死んだ。
いい気味だ。 いくら一足飛びに進もうが、生き残れなければ意味はない。
馬鹿な奴だ。 愚かな事だ。
しかしどれだけ嘲笑っても、あの男には届かない。 ただ虚しさだけが残る。
何かを造り出そうと試みる。 頭の中で、とりとめもなく、いくらでも
素晴らしく怪物は膨れ上がり、常に一致せず、全体を捉えることは甚だ
困難である。
想像は、現実の素材を得てはじめてゆるやかに規定され、流動的ながらも
より具体的な事物として距離をおくことが可能になる。
島に着いて数日後、彼は壊れた舟と散乱した古の怪物らしき材料を発見した。
命がけで運んできただろう部下の姿はどこにもなく、実験に必要な道具も
すべて揃っているとは言い難かった。
しかし彼には、先人類の英知の結晶たる禁断の聖杯があった。
不思議な事に作業している間、彼は寝食を忘れ没頭してもまるで平気だった。
時々思い出したようにうつらうつらと舟を漕ぐ。 目覚める少し前から
未知の怪物について考え、完全に起きるとそれまでとの境は曖昧なまま
過ぎ去ってゆく。
ともすれば材料となる腕の一部を見つめたまま永遠とも思える時は流れ、
何を造るのか、何の為に造るのかという声がこだましている。
自分が造る腕。 頭の中に存在していた時にはいかようにも形を変え、
曖昧模糊としていたものが目の前に放り出されている。
見たくない所に目を瞑ろうとし、これで終わりと思ってもまたすぐ本当に
良いのか、自分はおかしいんじゃないのかと迷い出す。
合間にうとうとしながらもう自分は此処から逃げられないのだとふと思う。
終わらなくては立ち上がる事すら出来ない。 終わってもその先はない。
いつも腕が心にのしかかっている。
何故造るのか。 何の為に造るのか。 どこまでも続く作業の果てに、
ちらちらと光を受けて反射する粉が薄黄色の風景の中で舞っている。
見ようとしてもまだ怪物の姿をはっきりと確認する事はできない。
だから目を凝らす。 首をひねる。
まわり全部を闇に消してその中心にほんの一瞬、影が走る。
いいしれようのない至福。 自分はお前に会う為だけに生きている。
どこかで見た覚えのある小娘が突如空間を割って現れた怪物に驚いている。
もう少し、どうせなら大勢が恐怖し、逃げまどう様子を見たかったものだが、
とりあえずこれで良しとしよう。
そうだ、いずれは大陸に渡り、実現するだろう光景なのだ。
だがしかし、確かにこの怪物はそう簡単に倒れるものではないが、
自分が全身全霊を込め、闇の神器の力を借り、多大な犠牲の後に
造り上げた長年の悲願の結晶ではあるが、完成した時はこれを作る
ために自分は生きていたのだとまで思い、実際その期待に違わぬ
凶暴さと醜さを兼ね備えた魂の半身ではあるが、それでも尚、
一抹の不安が拭い去れないのも事実だった。
いやそんな事はない、ない筈だ、既に怪物は自分の手を離れた。
悠揚と浮かび上がり、この島に生きるもの全ての命を奪おうと
している。 手始めに自分を食らった後に。
彼は死ぬ前にもう一度怪物の姿をみようと振り返って顔を上向けた。
誇らしさと共に、これまで味わってきた苦渋の日々が蘇ってくる。
いつも、いつもあの男が自分の前に立って笑っていた。
奴も死んだが、自分ももう終わりだ、解き放たれた怪物には、
そんな妄執など関係ない未来が待っている。 それでいい。
幸せだ。 とてつもなく幸せだ。 あの男に会った事すら幸運に思える。
己の半身よ、強大で醜くこよなく愛しい怪物よ、抱き締めるように
すべて食らい尽くしてくれないか。 夢中になって抱き返してやる。
粉微塵になっても歓喜の歌を聞かせてやろう。
どうやらそこまで考え、誇らしさに目頭が熱くなるのをおぼえつつ、
彼は怪物が大きく口を開けるのをみた。 中でひらひらと揺れる舌。
恐ろしいのか嬉しいのかさえわからない。 ただ沈黙の中、鼓動だけが
痛い程大きく響いている。
自分の感動には無理がある、と思った時が最期だった。