海賊の船より下ろされた小舟で漕ぎ進み、群島のひとつ、
他より抜きん出て大きく、巨竜の棲むといわれる地へと辿り着く。
 セルは一緒に来てくれた船員に礼をいうと、浜へ降り立った。
先はいくらも行かぬ内、草生い茂る未踏の森へと変わる。
原始の風景をそのまま残してきた此の地の植物は、枝一本、葉一枚に
渡るまで皆おしなべて大きく、立派である。

 歩き出して後、すぐにみつかる洞窟は天と地を水が結ぶ不可侵の
座所へと続いている。 何でも途中には例の海王も居るという話だったが、
セルはそちらへは向かわず、じめじめする斜面を草をかきわけ進んで
いった。 
 蔦のぶらさがる木々。 切れ切れに陽光が射し込む。 はっきりと
眼にする事はなくとも、視界の端で遊び好きな悪魔が手を繋いで踊っている。
 何か踏んだ、と思った途端、ぎゃあ、と声をあげてコカトリスが
飛び出した。 ごめんごめんと謝りつつ、怪物の吐き出した白い
霧状の息をひょいと避ける。 とばっちりを食らった周辺の尖った草が
みるみる間に石へと変質した。
少々の騒ぎを終えて、また静けさが戻ってくる。
 他に誰もいない所。 息を潜めるとじっとこちらを伺う、気配だけが
幾つも感じられる。 美しいけれど、一旦空気を乱せば忽ち牙を剥き
襲い掛かってくる凶暴な景色。 遠い昔、故郷の森にも似た空気があった。
ずっとよくわからぬ何かに怯えていたものだ。 今ではそれすら懐かしいが。
 ぶつかった木の枝がしなり、水滴を散らす。 空を見上げれば
薄く細長く白い筋が遠く、高くにたなびいている。
とても穏やかだが、時には一転掻き集められた雲がむくむくと膨れあがり、
降り出した雨は轟音あげてしたたかこの地を打ち据える事もあるだろう。
為す術もなく震え、束の間しのげる場所を探して逃れ、空を見上げる。
 雨。 ひとりでいるのは嫌いじゃないが、濡れるよりは屋根の下にいたい。
人が沢山いると便利で良い。 ただ、ある程度距離をとっておきたいが。 
もっとも、そんな事がどうでもよくなる時もある。 

 島は決して小さすぎるという訳でもなかったが、人ひとり見つけるのに
苦労することもなかった。 ひとつには、セルが以前にも此処へ来ていたからで、
そしてもうひとつの理由としては、だから誰かが逃げてくるとしたらそいつが
座っている場所なんて他にいくらも有りやしなかったからだった。
 そうだ。 森を抜け、丈の低い草花が茶けた地面にへばりついている突端。
セルは岩に腰掛けている不格好な男の姿をみると、頷いた。
生ぬるい風が吹いている。 海は足元の断崖から遥か遠く続いていた。
 男もこちらに気がつき、ゆっくりと振り返る。 
「あんたがアンティノ?」セルは訊ねた。
初対面だと思っていたが、何となく見覚えがある。 どこかで会ったのか。
しかしリベルダムの豪商なんぞに知り合いがいる訳もなかった。 そして、
目の前にいる当の男もちっとも金持ちそうには見えなかった。 色々な糸の
混ざったぶ厚い布にすっぽりくるまり、手を脇の下にはさむように腕組みし
背中を丸めて座っている。
 元々丸顔なのもあるだろうがそれ程やつれてもいない。 薄くなった頭髪の
下からてらてらと脂が浮いていた。 無精髭が頬の輪郭に沿って黒い点々を
まき散らしている。 その黒点がもぞりと動いて男は重い口を開いた。
「何故わかった」
「何が」
 男は眉をひそめ、ややあって億劫気に言い直す。
「何故、ここにいるとわかったのだ」
 ああ、とセルは頷いて暫し考えた。 最初に聞いたのはレルラからだ。
だが、アキュリュースにはもういなかった。 そこからもしやと思える
微かな痕跡をたどり、この人界から隔絶された島へ逃れたのだと気付いた。
 しかし、経緯を説明して何になるだろう。 自分で訊ねておいて男は、
まるでそんな事に興味は持てないようにみえた。 
 そして、セルも実際、どうでもよかった。 気になるのは別にある。
アンティノが居ると聞いてこんな所までやって来た。 道中、たびたび
考えた。 彼は今どんな気持ちでいるんだろうと。
 ひょっとしたら、彼だってまだ他人の暮す町の中で、のんきに日を送る道が
あったかも知れない。 実際、何が変わったというのだ。 自分だって、
あの時の前後で何が違うというわけでもないのに。
 自分は何ひとつ変わっていないのに、もう戻れない所まで来てしまっている。
まだ間に合うつもりでいた事柄が、既にどうしようもない所へ来ていたのだと
思い知らされる。 洞窟の祭壇で、聖光石の廃鉱で、廃墟と化した帝都の宮殿で、
いつもどうしようもなく自分の無力さを呪いはしなかったか。
 そうなったらもう、何も考えられない。 そうだ、降りしきる雨も。
どれほどに身を打とうが、立ち尽くし、空を仰ぐ。 

 ちっとも問いに答えようとしない相手に飽きたか男は、また視線を
海の彼方へと向けた。
その横顔をみて、セルはまた考えを改める。
案外、……そう勝手に、自分はこの男の事を何か悲劇風に考えたり
していたが、そうでもないんじゃないか。
現に、目の前にいる男は実に普通で、ごく日常の風景の中にいそうな
たたずまいをしている。
「大方あの聖杯を狙ってきたんだろう」
 男は云った。
「うん、そんな所」
「勝手にしろ。 俺の用はもう済んだ」
 しかし別に男は懐から神器を出すでも、どこに隠したか示すでもなく、
本当にただ投げやりに言い捨てただけだった。
またセルは迷った。 この男に、聖杯についてもっと問い質すべきか。
「ごめん、まだ考えてなかったわ」
「何だ」
「確かに聖杯は探してたし、あんたがいるって聞いて此処へきたけど、
別にいらないんだよね、それ」
 誰の下に渡ろうが、余り大差はない気もしていた。 老獪なエルフの
手の上で遊ばされるか、破壊神の魂を宿した皇帝が次元のはざまから
闇の軍勢を率いてやって来るのか、均衡を保つ為腐心する竜王がまた
何千年の昔から繰り返される動乱を決定的なものにせぬよう動くのか。
 どう転ぼうが、きっと世界に先はない。 錯覚しているだけだ。
それが神によって生まれた中の出来事なら、同じように循環し、
神を越えてまた別の形へと変容する未来を望むのなら、今までこの
世界を動かしていた力は終焉を迎える。 その先へ進むことが可能だと
して、けれどそれは、その世界は今の世界では無くなっているだろう。
自分も、ようやく何度目かの役割から解放される。


「あ、そうだ、良ければ見せてよ、禁断の聖杯。 
勿論今日じゃなくていいし。 そうだね、何日か、何週間か
わからんけど暫くこの島にいるから、気が向いたらみせてくれる?」
「見る……だけでいいのか」
「さあ? それもその内考える。 取りあえず来たから、何か
見ておきたいなと思って。 ほんと、それだけ」
 その奇妙な提案を聞いた時、男は一瞬ひどく嬉しそうな顔をした。
それから急に顔を真っ赤にして否定しはじめた。
「いや、いや、いや、いや、そんな訳にはいかん、それは」
必死に首をふる男に、セルは取り立てて口を挟むでもなかったが、
ああやっぱりな、と内心では了解していた。 

 まるで先程の問いに対する答だというように、セルは男のみていた方へ
眼を向けた。 どこまでも広がる海。 しかし、此処からだけは
西の彼方に黒く浮かぶ影をみる事ができる。
 それは、実際はただの小島ともいえぬ岩なのだ。 近くまで行けば
それとわかる。 だが男には別のものにみえたかも知れない。
セルがかつてそう錯覚したように。 勿論それを男に確認する事は
しなかった。 そう思うのなら、それで何が悪い訳でもないだろう。
そう、考えていた。