戸棚の一番上の段、右から三つ目の小箱の隣には、少し前から隙間がある。
ちょうど、小さな抱き人形がひとつ納まる程の。
掃除をすると云うのを、自分でやるから、と無理に下がらせて。
そのままにしてあるから、うっすら埃が積っていた。
そこだけぽっかりと空いているのは、まあ変には変。 でも、それが良かった。
何かあったのだとわかるから。 今はもう無いけれど。 返してしまったから。 
あのお人形。 確かにそこにあった。 少しばかり古ぼけたお人形。
 突然の訪問者が事もあろうに部屋の奥のクローゼットを動かして現れた日。

 贈り物の痕跡を、それをくれた人ではなく、持ち去った人の為に残すなんて、
奇妙な事だと思われるかも知れない。 自分では、ちっともおかしくなんか
ないのだけれど。 そう、おかしくなんかないわ。 全然。
 でも、幾ら言っても話の通じない人はいるから、訪問者は扉の向こうから
やってくるもので、決してクローゼットなんかじゃない、とかね。
誰ひとり、出自もわからぬような者が王女の部屋に上がり込むなんて、とか。
 どれもおかしな事で、絶対に有り得ない事だから、誰にも話せないの。
戸棚の隙間を少しあけておくのは、残しておきたいから。
だんだんと時間が過ぎれば、その内、振り返って記憶を取り出そうとしても、
おぼろげで曖昧なものへと変わってしまう。
だから残すの。 形のあるもので、残しておくの。 何もない場所を。

 あれから、いくらか時がたって、何も変わらぬ日常がおくられて。
折にふれ、私は部屋にお茶を持ってこさせ、ひとりきり、静かに
テーブルについたまま閉ざされた壁の向こうへ思いを馳せる。
そう、今のように。 
 最初から諦めていれば、こんな風に待たなくて良かったのだろう。
大抵の人間は嘘をつく一一そうとは自覚せぬままに、決して悪意からだけ
というでもないのだ、だから、信じなければ或いはそれでも良かった。
なのに未だ期待してしまうのは、何故なのか。
 あの人。 冒険者だと云っていたけれど、確かにそんな風体では
あったけど、物腰に漂う静けさにどこか違和感をおぼえた。
どこにいても目につく朱色の髪、のぞくと吸い込まれそうな瞳を持ってる。
そう、その目だわ。 思い出した。
 子どもの頃、私は周囲の大人はみんな信用できないと思っていて、
たった二人、年長の従兄とおさななじみの少年だけは本当の事を言うと
信じていた。 彼らがした約束なら、それは絶対なのだ。
 もう一度来てくれますかと尋ねたら、少し迷って、ええと頷いた
その目が、まるで子どもの頃の彼らのようで。

疑わずにみていたからかしら。 あの人も、もう一度陽の光の下でみれば
他の人と変わりはないのかしら。 いいえ、ティアナの目は確かなのよ。
きっともう、クローゼットの向こうまでは来ているの。 後は開けるだけ。
勿論、不器用だから時間がかかるのかも知れないけれど。
初めて出会った時も、暫く壁の向こうでがりがり、がりがり音がしていて。
ネズミかと思った。


 本当にネズミかと思ったわ。 一一そう、今のように。
ようやく動いた隙間から、一体何かしらと訝しむ程音が響いているんだもの。