子どもの頃、何故空中庭園の花は枯れないのか不思議に思っていた。
塔へと続く石畳の通路は、どこもからからに乾いている。 こんなに広い
中庭なのに、園丁が水をやっている所をティアナは見た事がない。
どうして、と尋ねると大人は最初笑って、王女様は賢いこと、とだけ言う。
重ねて問うと、困ったように眉を動かし、愛想笑いだけは絶やさぬまま、
本当に不思議でございますねえ、とおどおどしながら答える。
目をしきりに動かし、周囲の反応を気にしながら、自分は無難な受け答えを
していると示しているように。
誰も答えてくれないその質問に、興味を示したのは結局二人だけだった。
「城の地下に仕掛けがあるのさ」
年長の従兄は頬をぽりぽり掻きながら無造作に言う。
「何でもずいぶんと凝った造りで、誰もその仕組みをよくわかってないらしい。
そこから水を汲み上げて庭の周りを通してるんだ。 ……え、何で知ってるかって?」
従兄は部屋の向こう端にいる母を気にしながらこっそり囁いた。
「ちょっと入ってみたんだよ、前に。 そしたら城中の水路がみんな止まっちゃって、
伯母貴にひどくどやされた。 怖かったね、あの時は」
「……ティアナは、本当にそんな所へ行ってみたいのか」
金色の髪をした少年は驚いて尋ねる。
「ええ、勿論よ」
相手が思わず見開いた目をそのまままっすぐ見返し、答えた。
「街へ出る事も適わないのに、城の中ですら歩き回れないなんてあんまりだわ。
ねえ、レムオン様も見てみたいと思うでしょう?」
少年は一瞬答えにつまった。 相手の願いに応えるべきか、危ないと止めるのが
いいのか悩んでいる。
「それは、……気にはなるけど」
「じゃあ、決まりね」
勢いよく立ち上がり、少年の手をきゅっと掴む。
「このお城には幾つも隠れた通路があるんですって。 行きましょう、冒険よ!」
一一そうして、ここから降りた所でお母様に見つかったんだわ。
ティアナはくすくす忍び笑いを洩しながら庭園の壇に腰をかけた。
弱々しい音で、舞踏曲が流れ聞こえている。 もう、自分ひとり宴を抜け出しても
誰も気付きはしないだろう。
目をあげると幾つも星がまたたいている。 これだけは昔から自由ね、と
別に投げやりになるでもなく、そう考えた。
他の事には、すべて見えない糸が引かれている。 話す事も、笑う事も、
歩く事も、考える事も、全て。
けれど、それはとても自分に優しくて、その中に居ればとても穏やかで。
気をつけねば、何が好きで、何を大事に思っていたかも忘れてしまう。
小さく段を上ってくる音が聞こえてきた後、庭園の向こうから人影が現れた。
目をこらす必要もなく、その動作ですぐに誰かわかる。
近付いてくると、夜空の下でその人の金色の髪は淡く美しく輝いた。
一一私と同じ、縛られている人。
「こんな所に来ていたのか」
「ええ、挨拶なら終わりましたから」
「それでは、一曲お相手をと申し込もうとした者達が皆がっかりするだろう」
「ふふ、レムオン様も私と踊ってくださるの?」
聞いているその人の横顔は、影になりよく見えない。 ただ、少し間があった後、
薄く微笑する気配が伝わってきた。
「それは光栄だが、フィアンセの気を害するといけないからな」
「あんな形だけの約束、ティアナはどうも思ってはいませんわ。
……一緒に踊ってくれなくては嫌よ、私、楽しみにしていたのですもの」
視線を僅かにそらし、相手は困惑とも宥めるともとれる曖昧な表情で佇んでいる。
いつから、こんな風に会話するようになったのだろう。
そんなに昔の事ではない筈だった。 いつの間にか、華奢な体格をした少年は消え、
かわりに人を寄せつけぬ冷たい表情を持ったリューガ家の当主がそこにいた。
貴族達は皆、その人の事を冷血の貴公子と呼び、敬意をもって遇するけれども
決して近寄ろうとはしない。
本当に変わってしまったわけではないのよ、とティアナは考える。
自分をみるその目の奥に浮かぶ光は、未だにとても優しかった。 ごく稀にみせる
笑顔にも昔を思い出させる何かは残っていた。
ただ、口を開くとその言葉は雑音に包まれていて、ようやく保たれていた
過去の幻影も微塵に砕かれる。
お互いの立場を踏まえた軽妙な会話。 適度に笑いをはさみ、少し辛口も
交えつつ、全体としては和やかで。
そして言質を取られぬよう気を配り、相手の真意をそうと悟られぬ様探り出す。
この人ならば、自分にかけられた糸に気がつかぬ筈はないのに。
逃げ方が、わからなくなってしまったのだ。 ……自分の様に。
私達はどちらも、絡まる糸の中でもがく内、尚一層深みにはまっていった。
同じようにしていた筈の従兄は冒険者になり、ふらりと王宮の外へ出てゆく。
羨ましい、とは決して言わなかった。 私達は顔をあわせると、「あんな人は」
「ファーロスのどら息子は」と言い合った。 その癖、相手からその言葉を
聞くと何だか面映くなり、急いで会話を断ち切った。
まるで、自分の姿をみているように思えたから。
逃げられぬと知ると、私達はその糸に、自分なりの言葉を付け加えた。
理由が欲しかった。 此処にいる事の意味を持っていたかった。
そして、気がつけば隔てている糸を挟み、会話する事しかできなくなっていた。
ティアナ、と佇む相手が何か言いかける。
腕を伸ばし、そっとその唇に指をおしあて、動きを止めた。
驚いて黙り込むその人を見上げ、覗き込む。 もし今この場で、地下にある
仕掛けを見に行きたいの、と頼めばどうなるかふと考えた。
一一でも、今は何も聞きたくないわ。
曲が変わる。 ティアナが微笑すると、相手はそれ以上何も言わず、ただ
黙って手を差し出した。 そっと自分の手を重ね、壇を降り立ち上がる。
滑り出すように踊りはじめた時、相手の表情がはっきりと目に映った。
その目の奥に、何か苦しそうな色があるのをティアナは見て取り、しかし
それも口に出す事はなく、ただ踊り続けた。