ロイは私から少し離れて壁にもたれ立っている。 灯りは弱々しく
彼を照らし、影は岩の壁に長く映った。
何気なく組まれた脚の輪郭の美しさに、思わず見とれる。 いえ、本当は
それだけじゃない。 幾ら時間が経っても、見飽きるという事がない。
どこにも瑕疵がないの。 その指先に至るまで、華奢ではなく、けれど逞しさを
誇張するような所もない。 いえ力は感じるのよ。 でもそれはひどく穏やかで、
……激するという事を忘れているよう。
私の視線に彼は少しだけこちらを窺う。 でもすぐ元へと姿勢を戻した。
何もなければ一日の大部分はこうして静かに時を過している。
アンティノの研究所に連れてきた頃は、それこそ文字通り人形の様だった。
何をどう動いていいのかわからず、ただ薄暮に包まれた世界の内から、聞こえて
くる私の声にじっと不思議そうに耳を傾けていた。
こんな牢と変わらぬ場所に居ても、彼の心は希望を失わなかったらしい。
ゆっくりと自分を取り戻しつつある姿を見ていると、そう思う。
けれどそれは……希望というものは、より深い闇へと誘う罠でもあるけれど。
ただ一つ、わかっている事がある。 それは、ロイがこの結果を予測していて、
それでも尚、躊躇なく仮面を手にしたという事。
あの日……彼の故郷は炎上し、神殿には巨大なデスギガースが現れ、もはや
頼るべき存在はなく、そして側には無謀すぎる彼の妹が倒れていた。
怖くは無かったのかしら。 いいえ、そうではないわ。 ほんの一瞬だけど
みたもの、仮面を付けようとして、何故かその腕が動きを止めたのを。
どんな状況にあっても落ち着き、澄んでいた瞳が迷いの色を浮かべたのを。
怖くない訳がない。 でも、それも刹那の事。 仮面がロイを束縛し、
その力で闇の色に染めてゆく間に、不安も、恐れも、何もかもは内へと
閉じ込められ消え失せる。
デスギガースは相手の変化など気付かず、命じられた通りの攻撃を繰り返す。
仮面を付け、再び彼が立ち上がった時、私はそこにもはや優しく慕われる
兄ではなく、ただ強き力に反応するだけの哀れな剣士をみていた。
記憶は、内に封じられている。 奪われたのは、それが何処に在るのか
見出そうとする鍵一一鈍重なデスギガースを葬り、倒すべき相手を失った後、
彼は拠り所を探して彷徨うようにふらふらとその場を立ち去った。
その手には、まだあの忌々しい剣が握られている。 すぐにも取り落しそう
なのに、まるで剣がそれを望むのかロイはそれを離さない。
「どこへ行くの?」
私は楽しげな口調で彼に問い掛けた。
ロイは振り返り、声の主を探し倦ねるようにゆっくりと首を巡らせる。
「貴方は私の下へ還る為に生まれたのよ……仮面の力に縛られ、私の
手の上で遊ぶだけのオモチャなの。
それとも、その剣で私を斬れる? まだ微かに感じるその強い意志で、
仮面の束縛も断つ事ができるのかしら……」
おぼつかぬ足取りでロイは、ただ声だけを頼りに歩き、言葉の意味など
わからぬ様に、茫洋とした態度で聞いていたが、やがて私の腕に触れると
安心したのか何度も頷き、直後にその場へと倒れた。
洞窟の研究所で、ロイの身体をそっと横たえると、無知な人造モンスター
達が物珍し気に寄ってくる。
「起こしては駄目よ……」
首を捻り、何やら考えている彼らに私は言うと、少し離れた壁際に沿って
腰を下ろした。 背中に当る岩はごつごつとして、ひんやり冷たい。
ロイはずっと眠り続ける。 前もそうだったかしら、遠くぼんやりした
記憶を手繰り寄せ、読み返そうと試みる。
いいえ、そう長くはかからなかったわ。 ……死んでいたから。
今も、呼吸さえ殆どわからない。 付けていた防具も呪縛の鎖で取り巻かれ、
身を守るものというより、封じる為の道具に成り変わっている。
その内彼も、この神器の力に耐え切れず、このまま事切れるのだろうか。
仮面に描かれた表情は、ただ瞑目し、静かに憂いている様でもあり、
死の表情にも、似てみえる。 死の仮面……ああ、そうなのかも。
私を構成している物も、無限の静寂と凍てつくような冷たさで満ちている。
仮面の内側に、如何に光に溢れた時間が詰まっていようと、封じられたその
表に出てくるのは今この時と同じ、私と……同じ。
本当に、眠っているのかしら。
いつまで待っていても、ロイは動かない。 変わらない。
何故、答えないの、と問いただしたくて、そして同時におかしくなる。
待っているのかしら、私は。 何の為に?
オモチャだからよ、オモチャが早く動かないか待ち遠しいんだわ。
遠巻きにみていた人造モンスター達も姿を消し、私は耐えられず立ち上がる。
一一心配ないわ。
変わらず眠るロイの胸が、浅く上下していた。 まだ、生きている。
思わずほっとして、それからほっとした事を認めずにいる理由を考えた。
玩具に本気で心配など、する筈ないわ。 例えこのまま死んでも、また
次のオモチャを探せばいいだけ。
どれ程長い時間が過ぎても、声をかけて起こす事だけはできなかった。
私はただ、その場所に……私と同じ、仮面から離れられぬ者の側に居た。
一一どうして目覚めないの。
何か言って。
雨の音がずっと弱々しく聞こえている。 人間にはとてもわからない、
ひどく微かな音。
「ここまで風が届く時もあるのよ」私は思い出しながら言った。
「洞窟の空気とは違う。 外の世界を、ほんの少し知らせてくれるわ。
それがわかれば、いつも手を止めて立ち上がる事にしていた。
じゃないと、忘れてしまうの……いつか」
横たわるロイに、飽く事なく話し続ける。
眠っているだけよ。 もうすぐ目を覚ますわ。
けれど、目覚めた時に彼がもう一度、記憶を取り戻していたら?
忌わしい光を宿す「聖剣」は其所にあるだけで、天上の幸福に影を落とす。
杞憂ね。 あるわけがない。 たとえこの剣が日の光に似た輝きを持って
いようとも、仮面の呪縛の前にはそれすら封じられ意味を失う。
でももしそんな事があれば……その時は……
ぴくりと、腕が震える。 あ、と思った。
彼はゆっくりと、何もわからぬのかぼんやりとしたまま、その場に起き上がる。
重苦しく不安げな声が、沈黙を破った。
「これは一一私は一体……」
「あなたは、サイフォス、よ」
安心させるように、柔らかい口調で答える。 同時に呟いていた。
「そうよ、サイフォスですもの……私は貴方をそう呼ぶわ」
ずっと向けられる視線を訝ったのか、ロイが何か? と問いかけてくる。
「何でもないのよ」
私は笑いながら答えた。
「でも、何か話してくれる? 風が流れているわ……ね、此処に来て」