小さな湖には薄く霧がかかっている。 足元の細かく白い砂は、訪れる者を
幻の世界へと誘いこむと謂われるこの場所に、似合っているといえばそうなの
だけど、エストはその美醜よりも採取して成分を調べる方が気になる性質だった。
どうもこの周辺に、遺跡に関わる何かが有りそうだとわかってからは尚更、
けれど嬉々として結果を報告しても、大抵の場合は無視するか、曖昧な笑顔を
浮かべおざなりの賛辞を送るだけと決まっている。
 いつも目を輝かせ聞き入ってくれるのはセルだけだった。 口に出さずとも
一定の理解を示してくれるのは兄だった。 実際、今迄も快く送りだして一一
「いや、」思わず手を止め、呟く。  「……そうじゃなかったな」
 湖面を通り流れる風はひんやりしているけれども顔をあげるのが怖い。
湖に目をやれば幻が、一一振り向きもせず行き過ぎる兄の姿が見出せそうで。

 1ヶ月程前の事だった。 エストはロストールにある屋敷へ戻ると、急な
帰宅に驚く執事を前に、上機嫌で兄の所在を訊ねた。
 此処にはいらっしゃいません、と執事はまだ動揺を隠せぬまま答えた。
王都守備軍を率いる任に就かれましたので……いえ、王宮だけではなく……
ロストール近郊の本陣とを行き来されているようです……
「ではもう少し待つよ」エストはそれを聞いても特に動じた風もなく言った。
「夕食には帰って来るんだろう?」一一やれやれ、執事は廊下に出、扉を
閉めると溜め息をつきながら首を振った。
もうすぐ大陸を二分する争いがはじまる。 ロストールの名だたる貴族達は
こぞって兵を出していた。 あのタルテュバ様でさえそうなのだ。
世事に疎いのも程がある。

 日が暮れてもレムオンは戻って来なかった。 部屋で休まれてはと
心配する執事の声を他所に、エストは兄の執務室で帰りを待つ事にした。
この部屋なら必ず一度は通るはずだった。 薄暗い室内の向こう端には、
片付けてゆくつもりだったのだろう、乱雑に書類が放り出されている。
 ディンガル軍か。 エストも何もみていない訳ではなかった。 むしろ、
大陸中に広く分布する遺跡を廻っているだけあって、有用無用を問わず
情報は常に耳に入ってきた。 それこそロストールの貴族街を一歩も離れず、
関心といえば王宮での立場だけ、戦わせるのは机上の空論だけという
気位だけは高い貴族達では決して知る事の及ばぬ現状が。
 一一馬鹿げている。 考えた末にエストはあっさりとそう結論付けた。
もうすぐこの世界に存在するもの全てより価値のある文明が、発見され
ようとしているのだ。 闇の神器を創造した偉大な先人類達。
どれ程壮大な夢だった事だろう、伝承に残る破壊神を降臨させようなどと。
それは実現する筈だった。 少なくとも入手した神器からは凄まじい程の
魔力と、過去の痕跡とを感じる事ができた。
先人類はその今では及びもつかない魔道文明を自在に操り、我がものと
していたのだ。 (それに比べれば)エストは笑いが込み上げるのを感じた。
 それに比べれば、たかだか村のひとつふたつを争い、国だの何だのと
大袈裟に騒ぎ立てる彼らは、全くどうかしている一一理解できない。
 音もなく扉が開いた。 エストがそちらを向くより早く、背の高い人物が
影のようにそっと歩みより、「誰だ?」と問いかけた。
「何だ、お前か。 ……帰っていたのだな」
「待ちくたびれたよ、兄さん」エストは飛び上がり、顔を輝かせ叫んだ。
「実は現在調査している遺跡から、有力な手がかりを得たんだ。
これでまた先人類の魔道文明に一歩近付いて一一」
「悪いが、」レムオンは片手を拒否するように上げると、うんざりした
口調で遮った。
「後にしてくれないか。 今は、まだ……仕事が残っている」
「ああ、勿論わかってるよ兄さん。 だけど、ひとつだけいいかな」
「何だ」
 レムオンは大きな机を前に座ると、早速書類を掻き集めながら応えた。
「どうやら鍵はノーブル周辺にあるようなんだ。 今は夢幻の湖を
重点的に探しているけれど、まだ探索すべき場所があるかも知れない」
「領地内をくまなく掘り返したいという事か」
「そこまでは言ってないよ。 とにかく、あの周辺はもっと徹底的に
調査すべきなんだ」
「そうしていつの間にかノーブルに居座る」向いにみえる兄の表情は
いつもと同じく平静で、口の端には微かに歪んだ笑みが漂っている。
これもいつもの意味のない皮肉に過ぎないとエストは思ったが、
しかし今夜の兄はどこか余裕のない、苛立った印象を受けた。
「丁度いいな、エスト。 お前もそろそろ領主になってみるか?」
「何を言っているんだ、兄さん。 僕はそんな柄じゃないと一一」
「だがリューガ家の一員である事にも違いあるまい。 俺はいつでも
舞台を降りられる用意が出来たという訳だ。 
脚光を浴びるのは嬉しいか、弟よ。 満更でもないだろう」
「兄さん……」
「何故そんな顔をする? 単なる冗談だ。 わかったら安心して
早く休め。 俺はまだ忙しい。 今も王宮へ行き、迎合するしか
能のない屑を相手にしてきた所だ。 明日は守備軍の所へも行かねば
ならぬ一一」
 レムオンは棘のある言葉を楽しむように笑った。
「そうだ、お前も兵を率いてみるか? タルテュバと轡を並べて」


 掬い上げた砂が、指の間からさらさらと零れ落ちる。 考えようと
しても心は他所を彷徨う。 
(こんなに上手く行かないなんてはじめてだ)エストはじっとその様子を
眺めながら、ぼんやり座りこんでいた。
 そういえば、最近セルの姿をみていない。 以前はあれ程頻繁に
顔を合わせたものだが。 余り慣れ過ぎて、次にいつ会うか等考えて
みもしなかった。
 最後に会ったのは乙女の鏡……そうか、闇の神器を集めていると
話していた。 今も大陸を巡り何処かの森を駆け回っているのか。
それとも、兄や他の貴族達に混じって戦場に立っているか。
どちらにしろ、それは自分の知らぬ場所で、セルは誰ともわからぬ相手に
その笑顔を向けている。
 何故そんな事が出来るのだろう。 あのひたむきな目は、感嘆の言葉は、
全て自分に向けられたものではなかったか。
そうだ、確かに覚えている、その熱のこもった表情と共に。
一度自分に向けられた微笑は煩わしくとも快くて、いつの間にかもう一度
みたいと、こちらを見てと求めてしまう。
 湖のほとりから、霊峰の参道から、地下のじめじめとした通路を、
いつも軽く駈けてきた。 必ず最初、嬉しそうに笑った。
 
殆ど無意識に、エストは顔をあげた。 夢幻の湖の薄くけぶる霧を見つめ、
その人の面影を探し続けても、ほんの僅かの物音で幻は消え、後にはただ
座り込む自分だけが残される。
 エストは懐から古めかしい装飾の耳飾りを取り出した。 
そうだ、自分にはまだ此れが残っている。
そっと、貝殻に残る波の音を聴くように顔を寄せ、耳を澄ませた。
 求めるものは見つからないなんて思わない。 見つかっても意味がないと
言われた所で信じない。
だから失望の表情を押し隠し、黙って立ち去るのをやめて。
「お前は役に立たない」
 それでもいいんだ。  


 何か聞こえている気がする。
それは本当に聞こえているのかも知れないし。

ただ聞きたいと願う音なのかも知れない。