宿屋の壁に取り付けられた狭い寝台は朝が来る度背中が痛くなる。
セラは目を覚ますと、横になったまま辺りの気配を探った。 そうするのが
長い間の習慣になっていた。 
誰か窓を半分開けておいたのだろう。 僅かに流れを感じる。 まだ9月の
初めとはいえ、エンシャントの風は既に秋の訪れを告げていた。
 向かいの寝台に寝ていたレルラ=ロントンはもういない。 
(特に遅く起きたわけでもない筈だ)前の晩、少し酒が過ぎたのは事実だが、
吐き気と目眩がする程度でいつもと同じ時間に目覚めるのは変わりなかった。
 だが、斜め前で寝ていたセルまで消えている。 
(奴が朝起きる訳が)まさか本当に寝過ごしたのか。 
慌てて起き上がり階下へ行こうとして、セラは扉付近に寝転がっている
薄汚れた物体に気付いた。
「……おい、起きろ」
 爪先で二度、三度突いてもセルはひたすら熟睡している。 下に
落ちて流石に寒くなったのか、身体は芋虫のように丸まり通路を塞いでいた。
「邪魔な奴だ」
 前より少し力を入れて蹴ると、セルはぐらりと寝返りしながら「むう……」と
不快そうに呻いた。 
「先に行っているぞ。 今日はまだ出発しないんだな?」
 答えはなく、また静かな寝息が聞こえてくる。 セラは嘆息し、近くの寝台から
掛け布団を取り上げるとはらりとそれを投げ掛け部屋を出た。

 階段を降りると、宿屋の主人が暇そうに座っていたが、セラに気付き顔をあげた。
「おはよう、吟遊詩人ならさっき出てゆきましたよ」
「そうか」
「朝食はどうします? 今日は何故だか誰も戻らないんですよ。 おとといから
泊まってる二人組もさっぱり音沙汰ないですし。 何か知りませんか」
「あの駆け出しの冒険者達の事なら、賢者の森に行くと聞いていた」
 セラは戸口へと歩き出していたが、主人の言葉を聞くと振り返りそう答えた。
「賢者の森? 確かこの後テラネへの配達と話していたような」
「詳しくは知らん。 ただ、酒場に居合わせただけだ。 もう一人が急な依頼が
入ったと言っていたから大方救出か何かだろう」
 扉を押し開ける。 じっとしているだけで震えあがる冷たい風が吹き付けてきた。
「おや、朝食はいいのですか」
 主人が声をかける。
「ああ」曖昧に濁し、セラは外へ出た。 まだ目眩が続いていた。
最近、ここまで飲み過ぎる事も無かったんだが。 ……しかし、夜明け前の酒場も
店仕舞いする頃、それこそ支えあうようによろよろと帰ってきたセルは彼の
数倍は飲み、珍しくよく喋り、甲高く耳障りな声で笑っていた。 
 あれは駄目だ。 セラは考えた。 一一何があったか知らんが。
 風は時折強く吹き付け、その度に通りの看板が音を立てて揺れる。
どこへ行くあてもなかった。 依頼された仕事は一通り済んでいた。 剣の稽古でも
しようとは考えたが、それも余り乗り気はしないのを当人が一番良く知っていた。
しかし宿屋に戻る気はさらさら無かった。 戻る? まさか。
行きたい場所はあるのだ。 ただ、それがどこかわからないだけで。
 ティラの娘は大陸各地で召還されている。 確かにあの男はそう言った。
じっと座っていてはいけないという思いは背中を突くが、しかし格別
どうするという道も見出せず、ただ焦燥だけが募る。
こうして俯く間にも刻々と時は進んでゆくのに。

 道なりに歩いていると、ギルドの主人が水を撒いていた。
「早いね」主人は顔をあげた。
「修行でもするのかい」
「いや」セラは訊ねた。 「何故、そう思う」
「ほら、名の知れた剣士だからさ。 さぞかし毎日鍛練に励むんだろうと思ってね。
あんただったらきっと、古の怪物とかも倒してきたんだろ?」
「さあな」煽てられて悪い気もしなかった。
「そうさ、その剣を持つ所はいかにも凄腕の剣士って感じがするよ。 ああ、
怪物って言やあ昨日救出依頼が来たあれなんか、相当大物のようだね。
本当はあんた達に頼みたかったんだが、皆もう出来上がってたからなあ」
「賢者の森のか。 ……そんなに強い怪物なのか」
「ああ、報酬がいいからね。 ティラの娘とは言わんが、相当強いだろ。
いや、何、古の伝承に残る怪物をみたって知らせが来るもんでね。 
別にそこにいるのがそうなんて言ってないさ。 そうとも、いる訳ない」


「おい、いつまで寝ている」
 再び宿屋に戻り、掛け布団をしっかり抱え込んだ物体を蹴飛ばす。
「……あと少し、もう少しだけ……そうしたら起きるから……」
「賢者の森へ向かうぞ」
「そう、行ってらっしゃ……い……」
 最後の言葉は途切れるように、空気に吸い込まれて消えた。
(これが本当にロイの妹なのか)
外に出ると、セラは呆れて思った。 
自堕落すぎる。 下らん仕事ばかり漁り、口だけは調子よく、小銭で
安い酒をあおっては宿屋の床で潰れている。
強くなりたいという意志も別にみえず、それでいてたまに魔法でも
覚えると嬉しそうにはしゃいで披露しまくる。
 エンシャントの大門でふと立ち止まった。
一人で行くしかないか。 まだレルラ=ロントンも街のどこかに
いるのだろうが、あの子どものようでそれでいて自分よりはるかに
ベテラン冒険者なリルビーに頭を下げるのはなお気に食わなかった。
「いいよ、ついて行っても」きっとこんな感じに答えるだろう。
そうして自分は全てお見通しだと言いたげに笑うのだ。
 何故あんな奴等と一緒に旅をしているのか。

そして、もっとわからぬのは自分の方だ。 誰も来ないとわかっていて、
どうしてまだどこか期待しているのだろう。
 朝焼けが空の端を薄紅に染めている。 吟遊詩人が旅路に広がる
大きな空の美しさを謳っていたのをセラは思い出した。
あの時は只くだらん戯言だと感じただけだった。 
そして今もそうだ。 全くくだらん。 
 目を閉じると風が身体を通り過ぎてゆく。 突き抜けるように、
何も遮らぬように。

 ようやく歩き出そうとセラが決めた時だった。 不意に背後から声がした。
「待て」
 セラは振り返った。 誰もいない。
「こっちだ」
 横をみる。 やはりいない。
「どこをみている。 こっちだ、こっちだよーと……あら」
 空間から突如霧が晴れるようにセルが顔を出した。
「インビジブルで遊ぶのはいい加減やめろ」
「もっと長くできりゃな。 まあいいや、どっか行くんだろ? あー気持ち悪っ」
「飲み過ぎだ。 ……リルビーはどうしたんだ。 置いてきたのか」
「知らんよ、大体さっきまで気持ちよく寝てたんだから」
 セルは両腕を広げ大きくのびをした。 とりあえず持ってきたらしい
ナックルが握られている。
「あー今日もよく晴れてんなあ」
 さっさと行くぞ、と口から出かかった所で、ふとセラは言葉を失った。
遠くをみつめる毅然とした横顔がのぞいている。 普段のいい加減な口調からは
想像できない、それはとても静けさに満ちている表情だった。
「……どうした」
 黙ったままのセラに疑問を感じたのか、セルは振り返る。
「いや、何でもない」セラは俯き、頭を振った。 「行くぞ」
「ああ。 それじゃ」頷くとセルは片足を高々と揚げ、小突くように幾度も
背中を蹴りはじめた。
「いちいち起こすのに人を蹴るんじゃねえ。 あと勝手に置いていくな。
どれだけ驚いたと思ってる。 ……それで結局どこ行くんだ?」
「賢者の森だ」
「何だ、近くだな」捕まえようとするセラの手をするりとかわし、セルは
先に立って歩きだした。
「おい、どんな内容かわかっているのか」
「後で聞くよ」セルは面倒そうに手を振った。 「とにかく置いてくんじゃねえ」
「後で、って……」
 セラは一瞬呆気にとられ、それから当惑したような表情を浮かべた。
同時に微かについた溜め息には安堵とも取れるものが現れていたが、彼は
決してそれを認めようとはしなかった。



 森の中は一見いつもと変わりない。
「どうせ奥の方にいるんだろうな」セルは独り言のように呟き、それから
セラをみて言った。
「で、そのティラの娘って何なんだ」
「オルファウスから話を聞いただろう」セラは慎重に辺りの音に気を
配りつつ低い声で答えた。
「古の神話に出てくる怪物だ。 だがそんな事はどうでもいい。
それの身体を使って、円卓の騎士が究極生物を作ろうとしている」
 セルは一瞬、目を大きく見開き、何も言わずに前を向いた。
「……つまり」
 鼻の頭を擦り眠そうにあくびをするとセルは言葉を続けた。
「アーギルシャイアが来るって事」
「そうだ」
「ふうん……」セルは立ち止まる。
 兄を奪い、故郷を消した魔人の名は流石に聞くのが辛いのだろう、そう
考えてセラは自分に納得するように頷いた後、ふと背後の異変に気付いた。
「お前」
 振り向くと不意を突かれたセルが狼狽している。 視線をそらして
横を向き誤魔化すように笑う。
「今、逃げようとしていただろう」
「勿論だ」
 一瞬の間の後、否定しても無駄だと覚ったのか、セルは開き直って答えた。
「あんな魔人と戦えるか。 怖いんだぞ、物凄く怖いんだぞ」
 その言葉にセラは顔色を変えた。 蔑むように冷たく言い捨てる。
「だったらさっさと帰れ」
 くるりと背中を向ける。
「臆病な奴などただ邪魔なだけだ。 ……全く、兄を見捨てるとはな」
「何だと」今度はセルが血相を変えた。
早くもエスケープの印を組んでいた手をほどき、立ち去ろうとする腕を掴む。
「誰が、いつロイを見捨てたんだ」
「アーギルシャイアから逃げる。 同じ事だろう」
 セラは背中を向けたまま答える。
「どちらにせよお前なぞ要らん。 何時まで経っても逃げ足だけが取り柄の
三流冒険者の卵が」
 セルは口の端をぎゅっと噛み、押さえ付けるように言った。
「だったらあんたは何だ」
 声は次第に高ぶる。
「今までロイを追ってやって来た事といえば、結局冒険者の仕事だけ。
くだらん、くだらんと言っているがそれじゃ一人なら捜せるというのか。
オルファウスにも無様に負け、闘技場でも精々数度勝ち上がる位だろう。
リベルダムで剣聖のレーグ、剣狼のゼネテスとは散々聞いたが誰も月光の
剣士なんか知らなかったぞ」
「万年1回戦負けのお前に言われる事ではない」
「この前は2回勝った」セルはナックルを装備しなおした。
「何なら今この場で試してみるか?」
 面白い、とセラも月光に手をかけた。 抜こうとしてふと、相手の額に
緊張からか汗がうっすら浮かぶのを見る。
瞬ぎもせず見開く瞳に親友と同じ光彩が宿っていた。

「……今お前と争う時間などない」
 振り返り、相手に背を向け歩き出す。
「逃げるなら勝手に逃げろ。 俺はどうしてもこの先へは行く」
 セルはまだその場に立ち尽くしている。 
暫くはがさり、がさりと自分の足音だけが響いていた。 だが大分歩いたと
思う頃、セラは背後から息せききって走るもう一人の足音を聞いた。
誰であるか確かめる必要もなかった。 足音は近くまで駆け寄るとそのまま
同じ大きさで聞こえている。 セラは振り返りもせずそのまま歩き続けた。
 やがて小道の突き当たる場所まで出ると、更に奥、二人は誰かが戦っている
物音を聞いた。
「昨日の連中だろう」セラは背後に声をかけ、音のする方へ目を凝らした。
 思った通り、二人の冒険者が怪物に立ち向かっている。 
あれは……セラは怪物の特徴を思い出そうとした。
「あれだな! ティラの娘っ」
「違うぞ」飛び出そうとするセルの頭を掴んで押さえる。
「あれは……サーべルタイガーだ。 間違いない」
「でも苦戦してるぞ。 行こう」
 頭上の手から逃れようとする相手を更に捕まえ、セラは言った。
「時間の無駄だ」
「本気か」
「まだ他にも思い当たる場所がある、そこに回ろう一一」
 その途端、セルは無理矢理セラの手をはねのけた。 飛びすさり、振り返る
その目は興奮で輝いている。 
「魔人じゃないなら何でも構わん、それにあれも強いんだろ?
そんなに賢くやりたいんなら勝手にやってろ凄腕の月光の剣士、じゃあな」
 待て待て待てえと雄叫びを上げながらセルは怪物の方へ走ってゆく。
「……あれがロイの妹か」
 セラは溜め息をつき、それから最早仕方ないと諦めたように頭を振ると
鈍く光る妖刀月光をその手に握りしめ抜き放った。

 長く鋭い牙を剥き出し、凶暴な色に染まった獣が泡を噴き出し吠え猛る。
助けを求めていた村人は木陰で震えながら見守り、依頼を受けた駆け出しの
冒険者達は浅くもない傷を負いながらそれでもなお立ち向かっていた。
 飛び掛かるその巨体をセルは難なく避ける。 冒険者が斬り付けた剣は
厚い毛皮に跳ね返され、振り上げられた前足は目の前の人間を引き摺り
倒した。 悲鳴があがる。
 セルは間隙を縫い、ナックルの尖った鋲で怪物の目を穿った。 激高した
獣がのたくるように暴れながらセルに向かい何度も何度も飛び掛かる。
「どいていろ」
その全てをかわし、逃れながらしかし決め手を欠いて焦るセルを押しやり、
月光の浮き彫りのある妖刀を手にした剣士は静かに怪物に相対した。
「……セラ」
突然の敵の消失に獣が一瞬、動きを止める。 セラはその隙を見逃さなかった。
一閃、妖刀は獣の喉笛を切り裂いた。
 獣はどうと地に倒れる。 「凄い……」誰かが感嘆の声をあげた。
セルは思わず目の前に立つ冷たい横顔を見上げた。 目があうとセラは、
こんな事いかにも何でもないと言いたげに落ち着いた様子で見返した。

 冒険者達がどうやら無事なのを知ると、セラは「早く行くぞ」と先に立ち、
セルも慌てて後を追った。
 森の奥には大小様々な怪物が隠れ棲んでいる。 多くはただ、陰から
侵入者の動向を窺い、襲いかかる仲間達が倒されてゆくのを眺めていた。
 ティラの娘は現れない。 その後も先程と同等の怪物を見かけはしたが、
それ以上の魔の気配は感じられなかった。
「どうやら諦めるしかなさそうだな」
 何度か通った道へと戻ると、セラは言った。
「元々の話も不確実なものだったし、仕方あるまい」
「そうだね」セルも頷いた。
「大丈夫、ティラの娘なんて大事なら、きっとこれから先も耳に入るよ。
それに、こうしていれば必ず会える気がするんだ、ロイにも、あの魔人にも。
歴史の舞台って奴でさ」
「お前、今適当に思い付いたこと言ってるだけだろう」
「何でわかる?」
「全く……調子のいい奴だ」セラは呆れたが、やがて僅かに俯き微笑んだ。
「だが、取りあえずここにこれ以上居ても仕方ないだろう。 帰るぞ」
「ああ」気が弛んだのか、セルは独り言のように空を向き、問いかけた。
「なあ……見つかるよな、そうだよな、きっと」
エンシャントはどっちだと彼方をみやるセルの横顔に、再び穏やかで静けさに
満ちた表情が浮かぶ。 空に消えた問いに、セラは答える事ができなかった。
無言のまま、歩きはじめた後に、セラはそれがいつかどこかで見た表情に
似ている事をふと思い出した。



 宿屋の壁に取り付けられた狭い寝台は、朝が来る度腰も痛くなる。
セラは目を覚ますと、横になったまま辺りの気配を探った。 そうするのが
長い間の習慣になっていた。 
 とりあえず向かいの寝台のレルラはいない。 セラは心の底からほっとした。
夕べ帰った後、一人置いて行かれたと立腹するリルビーをなだめるのに
随分普段使わない気を酷使したものだ。
 そしてやはり今朝もセルは消えている。
「……おい、起きろ」
 セラは床に突っ伏す薄汚れた物体に声をかけた。 そしてそれがやはり
気持ちの良さそうな寝息と共に身動きしないのを見て取ると、苦笑しながら
近くの寝台の掛け布団を一枚手に取り、はらりと投げかけ部屋を出ていった。