静かすぎる休日の朝、老いた神官は一人墓地に佇んでいた。
彼にとって、この場所を散策することはいつも、自分の中で
特別な位置を占めていた。
ディンガルの首都エンシャント。 ライラネート神殿の
更に先に広がる墓地は、王族の古めかしい墓から、名も知れぬ
者達の集合墓所に至るまで、様々な様相を見せている。
彼はここを訪れては、そうした人々について思考を
巡らすのが常だった。
時にそれは、彼自身の過去ともあいまって、辛い記憶となり
呼び覚まされる事もあったが、彼はそれもまた一つのかたちと
考えるようになった。
そこへ至るまでは決して易くはなく、そして今でもふとした事で
痛みを感じる記憶ではあったが一一
いつもは参拝する者が後を断たない墓地であったが、今朝は
まだ己の他にはただ1人しかその姿をみていない。
それも、死者への祈りというには程遠い目的でやって来た者が。
何れも厳めしい趣のある古びた王族の墓の中で、まだ新しく
粗野な灰色の肌を雨風に曝した墓所、その前で黒の鎧に身を包み、
槍を手にした訪問者は、まるでそんな墓など存在しないかの
ように振舞い、神官と短い会話を済ませると、また一瞥も
送らずにその場を去っていった。
老いた神官は、困惑した様子で後に残された。
突然の訪問者がディンガルの皇帝ネメアである事や、彼の話が
その予言された運命に関わる所の、ある意味を持った魔道器で
ある事は、神官にはさして重要ではなかった。
その神官一一ドルドラムをひどく動揺させたのは、彼の日常が
破られる事一一孤独ではあるが、決して寂しくはなかった時に、
終わりを告げなければならないという事だった。
「もうすぐここにやって来る」皇帝は言った。
「私が墓地へゆくと伝言させておいたからな。 ……実際に会って、
それから選択するがいい」
「もう話だけならたくさん聞いておるよ」
ドルドラムは答えた。
「曰くつきのダークエルフか。 成る程一癖有りそうじゃわい」
……音が無い。
目を閉じれば、ようやく微かな風の流れが感じ取れる。
当惑する思いなど余所に、平穏な時は過ぎてゆく。
いつもと同じように。
ここを出て、他人と共にどこかへと向かう。
思いもかけなかったことだ、と神官は考えた。
いや……以前はそうしていた事もあった。
今でも、特に嫌だと思うわけではない。
ただ、こうして穏やかな時を過しているのが合っていただけだ。
墓石の前に腰を下ろし、昨日の花の枯れた葉をそっと摘み取る。
ひとひら、ひとひら、丁寧に散り落ちた花びらを拾い集め、
ふと、神官は自分を訝しげに凝視している者がいる事に気付いた。
「……おや、何用かな」
ドルドラムはまるで、何も知らぬ気にそう問いかけた。
「ネメア様は何処にいる?」
極めてまっすぐな目をしたそのダークエルフは、低いがよく響く声で
ドルドラムに訊ねた。
「皇帝なら、少し前に帰ったよ」
ドルドラムは余裕たっぷりに答えながら、立ち上がった。
「だが、お前さんは本当は、わしに用がある筈じゃ」
「……そうなの。 でも、その必要はないわ」
神官の話を聞き終わると、オイフェというそのダークエルフは
特に何の感慨もなく、淡々とそう言った。
「一人で遂行しようというのか? 気持ちはわからんでもないが、
自らへの過信は身を危うくするだけじゃぞ」
「そして此処に並ぶのね。 ……もう、そんな事にはならない」
「やれやれ」ドルドラムは嘆息した。
「まあ、無理強いはせんよ」
それで話は終わりかと彼は考えたが、何故かダークエルフはまだ
その場に留まっていた。
「……何か用かな」
そう聞かれても、まだ暫く躊躇っている様子だったが、程なく
意を決めたらしくオイフェは、やや性急に切り出した。
「教えて。 ……ネメア様は何て言っていたの」
「さっき話していた事で全部じゃよ。 後はまあ、そうじゃな。
本当に用件だけで帰っていきおった」
「何だ、そんな事か……」
「そうでもないぞ?」
ドルドラムは意味あり気に笑った。
「皇帝が此処へ来て、この墓を見ずに帰るなどない事じゃ」
「墓?」
オイフェは意外そうに問い返した。
ドルドラムがそのまだ新しい墓の主一一皇后イズについて話すのを
オイフェは黙って聞いていた。
「……という訳でな、今でも折にふれて皇帝はここへやって来る。
何を思っているのかは、知る事もかなわんがの」
「こんな石に何の意味がある」
オイフェは冷たく言い捨てた。
「花を手向けて涙を流して……ここにはもう誰もいないのに」
「まあ、そうじゃな」
ドルドラムは別に気分を害した様にもみせず、鷹揚に答えた。
「わしとてこんな冷たい所にイズ様が居るとは言わんよ。
もう、永遠に誰の手も届かん一一
ここはな、生きとる者が訪れる場所じゃ。
過去へ追悼を抱きかえるもの、立ち止まり今の己の姿をみようとする者、
無性に慰めを得ようとする者……目的は様々じゃな。
お前さんはどうだ? やはり何か思い出すのか」
「……そ、そんな事はない!」
不意に話が向いた事に驚いたか、オイフェは語気を荒げて否定した。
「では何故そんな顔をする? 図星を指されて怒った顔じゃ。
例え触れられるのが嫌な過去でも、それは変えられぬ。
ここに居ると居らぬに関わらずな。
どれだけ否定しても、己の思いだけは蘇るじゃろう?」
オイフェはまだ激しく言い募ろうとした一一が、言葉は声にならず、
唇をぎゅっと噛み締めるのが見て取れた。
ドルドラムはもうそれ以上言わず、花殻を拾い続けた。
沈黙する時が流れ、俯いた侭でドルドラムは、固く響く足音が徐々に
離れてゆくのを聞いていた。
一一やれやれ。
だが老いた神官が頭を上げる前に、再び足音は止まった。
「こんな石の列は、ただ苛々するだけだ」
くすぐるような微風が通る。
ダークエルフは空に向かい、目を瞑った。
「けれど……」
再び静かな時が戻る。
いつもとまるで変わらぬように見える。 そう、変わらずに、変えずに
いる事を選んでも良かった筈だ。
(鉄火姫か……成る程のう)
しかし、その場に立ち上がった時、老いた神官はもう心を決めていた。
あの者と共に行こう。 別に、皇帝の望みだからというだけでもない。
それを決めた途端、何とはなしに昂揚してくる。
(年甲斐もなく、な。 いや、ドワーフの寿命は長いんじゃ)
ひとつひとつ、慈しむように水をやり、誰も知らぬ思いに馳せる。
花の世話を終えたドルドラムは、誰ともなく語りかけるように呟いた。
「さて、懐かしい方々、どうやら暫しお別れのようじゃ。
次にここへ来る時は、花を手向けに来るか、手向けられるか、
……まあ、いずれは戻ってくるじゃろ」