エンシャント政庁内の最初の広間を右に折れると、石畳の通路が続いている。
天井が高く、陽の光の殆ど差し込まぬ其処は、真夏の盛りでもどこかひんやりと
涼しかった。 静かな中、自分の靴音だけが乾いた音を響かせている。
厳めしい装飾の扉の前に来ると、ネメアは足を止めた。 じっと佇んでいると、
中からしきりに言い争う様子が伝わって来る。
またやりあっているのか、と皇帝は苦笑し、やれやれと頭を振った。
静かに扉を開ける。 と、眩しいくらいの日光が目を覆った。 一瞬、何も
みえぬまま、ネメアはゆっくりと室内に入ってゆく。 少々狭いものの、
午後からは陽が長く差し込み、会議を開くにはうってつけの部屋だ。 集まって
いた宰相と玄武将軍も、皇帝の姿をみると一様に口をつぐみ、立ち上がる。
「ああ、そのままでいい」
机の上には一杯に広げられた地図と、宰相の筆跡だろう、とがっていて妙に
先端だけが大きくなる字体で走り書きされたメモが散らばっている。 部下達に
漂う緊張を見て取り、どうやら先に一戦あったらしいとネメアは思い、苦笑を
押し隠しつつ皆に歩み寄った。
「いや、そういう訳には」
低い声。 同時に、ただひとり向こう側に座っていたコーンスの老人が
ゆっくりと杖を手にとり、腰をあげる。
多少とも老いは感じさせるものの、堂々とした立ち姿は未だ矍鑠としていた。
「久しいな、ジラークよ。 いや、白虎将軍と呼ぶべきかな」
ネメアは親しげに声をかける。
「この前は即位式の時でしたか。 時の経つのは何とも早い」
老人は厳めしい表情を崩さぬまま、にべもなく答える。
冷ややかな口調に思う所があったか、宰相がぴくりと眉を動かした。
老人はまるで意に介さない。 ひとり書類を胸に抱え、離れて立っていた
ザギヴが、不安そうに顔をあげた。
ネメアは安心させる様にその方へ軽く頷いてみせる。 ザギヴは物問いたげに
一瞬こちらを見つめたが、目があうと薄く顔を赤らめ慌てて俯いた。
構わず隣に立ち、皇帝は皆を見回す。
「しかし、もうお前程の人材を腐らせておく事もなくなった訳だ。
そうだな、ベルゼーヴァ?」
何気なく宰相へ水を向けた。 その含む所に気付くと、宰相の表情に緊張が走った。
いかにも動揺を隠すかのように慌てて居ずまいをただし、軽く咳払いする。
「その通りです、ネメア様」
また咳をして、細く神経質そうな手で地図を指し示す。
「既に青竜軍はロセンを攻略した」
最初こそ上ずっていたが、徐々にその声は落ち着きを取り戻してきた。
「東方六王国は降伏、ウルカーンも不戦を約している。 西方アキュリュースとの
連絡を断てば、孤立したロストールに朱雀軍の猛攻を防ぐ手立てはない」
段々と勢いづいてくる。 それに対して、沈黙を守ったままの白虎将軍がいよいよ
面白くなさそうに唇をひん曲げているのを見、ネメアは笑いを必死で堪えた。
「逆に、これを落とせなければ我が軍の立場は俄然劣勢を強いられる事になる。
この作戦の成否が今後の行方を分けるといっても過言ではないのです、白虎将軍。
アキュリュースとは古来、幾多の防衛戦を生き延びてきた堅固な水の要塞では
あるが、しかし全く弱味がないわけでもない。
さて、この図だが一一」
熱弁している宰相と、苦虫を噛み潰したような表情のコーンスの老人との会話を
微笑を交えつつ聞く内、ネメアはふと旅先で出会ったコーンスの少年の事を思い出した。
年はまだ十代後半といった所だろうか、背は高いが動作はどこかのんびりしている。
しかし表情には何か追い詰められているような、不思議な気迫があった。
こういう目は、何度もみた事がある。 妥協を許さない、悲しみを帯びた瞳。
自分の目の前に立つ者がネメアだと知ると、少年は熱っぽく語りはじめた。
「力が欲しいんです」その子どもという程あどけなくもなく、しかしまだ声変わりして
低くもなりきっていない独特の調子が耳に残っている。
力が欲しい、とは。 しかしまた、どうして自分にそんな事を語りだしたものか。
一一「どうかなさいました? ネメア様」
気付くと、皆がこちらを向いている。
「何か、考え事でも」
「ああ、大した事ではない……いや、そうだな」
一旦は手を振り打ち消そうとしたものの、ふと思い直し口をきる。
「白虎軍にはコーンスの優秀な魔道士が多く採用されたと聞いたが、そうなのか?」
「ええ、それでしたら」
ザギヴが熱っぽく答える。
「魔道アカデミー出身の有望な者を推薦しております。 心配はないかと」
「アカデミーか。 しかし、隠れた逸材はまだまだ居るだろう」
「そこまではっきり仰るとは」
ジラークは一息入れると、意味あり気な視線を向けた。
「何か思い当たる節でもございますかな、ネメア様」
一一「その少年が隠れた逸材だと?」
「まあ、見たままの印象だが」ネメアは頬を緩める。
「中々ひたむきな目をしていた。 ……しかし、一体何故そんな話をしたのか」
「これはおかしな事を」
ジラークは宰相の近くにあった地図を引き寄せ、何か書き入れた。
「その少年ならずとも、ネメア様に会った者なら誰でも、その身に溢れる活力、
偉大な指導者が持つ人を従わせる魅力を感じずにはおれないでしょう」
「私を? そんな風に思うのか」
「ここに集まっている者は皆同意見かと」
そう言いつつ、ジラークは宰相の方へ顎をしゃくってみせる。
ベルゼーヴァは相手の悠然とした態度に顔を引きつらせていたが、これも
ようやく笑顔になり、不承不承頷いた。
その如何にも悔しさの滲み出た笑顔に、またザギヴは不安そうに顔をあげる。
我関せず、といった調子で地図をみていたネメアは、やがて何か遠くへ
思いを馳せるように語りはじめた。
「力か……アキュリュース、アルノートゥン、古代都市には全てその成り立ちに
隠れた力が存在している。 アキュリュースの水の力は周知の事実だが……
アルノートゥンにも……そう、その力を巡り都市が滅び、幾度も血が流れた。
不思議なものだな、発端は違っても、向かう所は一つとは……」
会議の後、暗い通路に佇みひとり中庭を眺めていた宰相を見つけると、
ザギヴは急ぎ足に歩み寄り、ささやいた。
「先程の少年の件、該当者に心当たりがあるのですが」
「私もだ」
宰相は向こうをむいたまま、ややぶっきらぼうに答える。
「正確には友人が行動を共にしている者で、直接話してはいないのですけど」
「それも一緒だ。 案外同じ者について話しているのかも知れんな」
宰相は目を伏せ、考え込む。
「しかし先程の話……どう思う?」
「ネメア様の話、ですか?」
「少年の件もそうだが、その前後の話がな」
アキュリュースの水とは勿論精霊神やその眷属の事。 魔道都市の
系譜に連なる巫女の力は確かに侮れないだろう。 しかしアルノートゥンは?
「あれは過ぎ去った事だと思っていたが……」
神聖王国最後の拠点、アルノートゥン。 幾度のディンガルの猛攻にも
屈する事のなかった都市。 混乱に乗じ独立しようとした都市に疫病を蔓延させ、
ついには誰も近寄れぬ廃墟にした太守エシュト。
アルノートゥンに隠された力といえば、突き詰めればその争いの焦点になったもの、
そこに集約されているが。
不意にザギヴの落ち着いた声が沈黙を破る。
「私はむしろ、あの場所でその話をしたという事が気になるのですが」
「何か意図があっての事だと?」
「ええ、そう思います」
皇帝は、地図をじっと凝視しながら話していた。 地図……?
そうだ、あの地図には当然描かれている筈の地点が示されていない。
「……しばらく、目を離さない事だ」
「わかりました」