アキュリュースとこちら側とを結ぶ船着き場のそばには昔からあやしげな商人達が
出入りしている。何にでも効くという膏薬はどうだと声をあげる物売りの隣には、羽を
思わせる華奢なつくりの舞踏服が並べられていて、誰かがひやかしに来るたびごつごつした
手で乱暴に取り上げられるので折角の生地も台無しになっている。 大抵それは、
襞の入れ方、切り替えなど一時代はたっぷり前の代物だ。
もう少し先へ行き、寄せ集まるように建っている粗末な家の裏をのぞくと、裸足の少年達が
歓声をあげて遊んでいる。 彼らは皆野方図で粗野な言動も多いが、案外と気がいい。
けれど踵に入った金属が独特の響きを立てる靴音が聞こえてくると、そんな少年達も、行商
人も、皆どこへともなく姿を消してしまう。 残された通りはがらんとして寒々しい。
日に二度やってくるディンガルの兵士は、あご髭をいじり、胡散くさそうな目で周囲を見回す。
残ったのは板壁に寄り掛かって半分眠っていたり、路端に座り込みじっとしている者ばかり。
どれもこれも何か置き忘れて来てしまったような顔つきをしている。
兵士はそんな中を早足に通りすぎたが、渡し船の乗り場が近くなると、ふと足を止めた。
岩の上に汚れた厚い布をかぶった男が腰を下ろし、一心に紙を折っている。 一見老人に
みえるが、年の項はおおよそ四〜五十の、まだまだ活力十分の壮年といった所か。
兵士はいぶかしむように何度も首を捻り、中腰になって覗き込んだ。
「お前、もしやとは思うが一一」
途端に男はぶるぶると震え出した。 「私は何にも! 私は何にも!」折りかけていた
紙をしっかりと握りしめ、身体をそらせ哀れな程こっけいに叫び出す。
「まあ、何にもしやしないさ」兵士はなだめるように言い、のぞきこむのもやめ立ち上がる。
男はまだ怯えている。 だが、不思議とあごはしっかり引いて顔をみせなかった。
兵士は何か引っ掛かるものをぬぐえず、しばらく留まっていたが、やがてそれにも飽きて
「さっさと家族の所でも帰れよ、爺さん」と言い、渡し船の方へと歩いていった。
「ふん、大きなお世話だ」
男は厚布の下から慎重に兵士が去ったのを確認すると、憎々しげに呟いた。
懐から小さな包みが顔をのぞかせている。 丁寧にしまい直し、ひょっとして今の様子、誰か
みてやしなかったかとあたりを見回す。
子どもがひとり、またひとりと遊びはじめる。 物売りも臆病そうな足取りで出て来て、
丸めた敷物を広げ、品物を並べはじめた。
どうやら、大丈夫そうだ。 彼はひとまず安堵した。 いざとなれば有り金すべて
投げ打ってもいい、とにかくこの包みだけだ。 これさえ残れば他に必要なものなど。
だがしかし、と彼は頭をふり、考え直す。
ここでこうして座っているだけでは、結局何も変わらぬ。 ディンガルの兵士とて、
あんな間抜けばかりとも限るまい。
ともかくは、対岸に渡る方法をみつけるのが先決だ。 アキュリュース本土に入って
しまえば、後は何とか一一
「ずいぶんと落ちぶれたもんだな、リベルダムの豪商ともあろう者が」
頭上から軽薄そうな声が聞こえてくる。 いつの間にやって来たのだろう、神官らしい
長衣を着込んだ若い男が目の前に立っていた。
足音がしないのは勿論、近付いた気配さえ悟らせない。 自分の正体を知っているこの
不審な人物に、彼は焦燥を覚えつつ、じっと相手を見上げた。
「そう警戒しなくてもいいだろ。 こんな所で知った顔をみつけたから、ちょっと
挨拶でもしようかと思っただけで」
「知った顔だと?」
彼はまだ暫く相手を見つめていたが、やがて、あ、と小さく声を上げ表情を変えた。
「そうか。 どこかでみた顔だと思ったが……あの時仕事を頼んだ詐欺師か」
その言葉に、相手は低い声でくつくつと笑った。
「おたずね者の魔獣商にそんな呼び方されるとはな。 まあいい、青竜軍はあんたを
捕まえようと必死になってる。 そこの船着き場で退屈してる奴らにちょっとこの事を
話したら、俺はディンガルの目を気にする必要もなく安心して渡れるわけだ」
軽口を叩いただけにしても、相手の言葉は急所を突いていた。 彼は内心穏やかでは
なかったが、少し間をおき、わざとゆっくりと口を開いた。
「ほう、それは思い付きだな」
こんな場面ならいくらでもくぐり抜けている。 ましてや今は、ディンガルの白虎軍と
アキュリュースの神官団が湖を挟んで対峙し、身動き取れぬその渦中に潜り込もうとして
いるのだ。 このくらいの事は造作もなかった。
「お前は私を売るつもりか、だったら私にも覚悟があるぞ」
「覚悟ねえ」
「お前がどこで何をしてきたか、調べもせず雇ったと本気で思っているのか?
いざという時に弱味のひとつも掴んでいないと? そんな事はないよなあ、ああ、そんな
軽く考えている訳がない。 叩けば埃が幾らもでる奴はな、人一倍臆病にならなければ
生きていけんものだ、そうだろう?」
相手はまだにやにや笑っていたが、聞き終えると急に顔をこわばらせた。
やはりそうか。 彼は相手の様子を観察しながら思った。
こちらの言葉にのって、取り引きをする用意はあるらしい。 つまり、向こうも何か
事情があるというわけだ。
彼は膝についた埃を払い、立ち上がった。 決して立派な体躯の持ち主では
なかったが、正体を知られまいと被っていた布を取り去り、堂々とした所はいくら
逃避行の末に薄汚れた服装であったとしても、幾らかの迫力を感じずにはおれない、
そう彼は自負していた。
「私をアキュリュースへ連れて行くのだ」
彼は相手にささやいた。
「でなければお前のやってきた事をすべて暴露してやる。 私はディンガル軍に処刑
されるだろうが、お前とて無事ではすまん。 帝国は言うに及ばず、この辺りに
流れてきた者たちは戦で住む所を失った者ばかりだ。 ロストールだリベルダムだと
暗躍しているお前の存在を知ったら、喜んで八つ裂きにでもするだろうよ」
長衣の男はまたくつくつと笑った。
「わかった、わかったよ」もういいとばかりに手を打ち振る。
「俺もどうやって対岸へ渡るか考えていた所だ。 ここは協力しよう」
船着き場の手前にはディンガル兵が陣取っている。 取り立てて騒ぎが
起きている訳でもないが、アキュリュースの神殿に行く者なら誰でも気軽に
乗せていた船員達は、いつ何時兵士達が往来を止めやしないかと警戒し、
厳しい表情で渡し船を守るように立ちはだかっていた。
「やはりあの中を抜けねばなるまいな」
彼が思案していると、長衣の男は後ろからそっと囁いた。
「任せてくれ、良い手がある」
彼は男が耳打ちするのを黙って聞いていたが、話が終わると何やら
不満そうにううむと一つ唸り胸の前で腕を組んだ。
「これは東方から伝わった由緒のある技なんだ、大丈夫だって」
「まあ、信用はするが」彼は渋々頷く。
「だが、こちらから素性を明かすというのはどうにも」
任せろと長衣の男は軽く肩を叩く。 そんな振舞いに慣れていない彼は
ちょっとむっとしたが、仕方ないと半ば自棄になったような様子で男の後を
ついていった。
兵士達の視線が一斉に彼らへと注がれる。 彼は背中に冷たい汗がぽつぽつと
浮いてくるのを感じながら、どうか誰にも気付かれませんようにと願った。
だがきっと声がかかるに違いない。 おい、とか何とか。 何、慌てず
騒がず手筈通りにやればいいのだ。 肝心なのは平静を保つ事だ。 疑念に
引き込まれぬ事だ。
そうだ、その通りだ、と彼は頷き、さも堂々としてみせようと一歩踏み出した
所で前をゆく長衣の男にぶつかった。 と、男はみるみる内に耳を真っ赤に染め、
振り返り一体どの兵士が呼び止めたのかと視線を泳がせた。
それでも兵士達は遠巻きに眺めているだけだったが、やがて中から一人、堂々と
した体躯の者が歩いてきた。
「おい、お前」
「え、俺?」
「お前、誰かに似ているな」
「あ、こいつですか」男は安堵したらしく、急に滔々と喋り出した。
「こいつはさっきも似てるからって呼び止められてね。 なあ、そうだな?
よりによってお前がリベルダムの商人とは。 ずいぶん出世したもんじゃないか。
お前があのアンティノとはなあ!」
「アンティノ? この今にもぽっくりいきそうな爺がリベルダムの魔獣商だって?」
「まあ似てるっていわれても、果たしてどんな奴なんだか顔も知らんがね。
どっちにしろ笑い話だよ、いや全く!」
男は高らかに声を上げ、笑った。 兵士は冷ややかに見ている。
彼はまた冷や汗が出てくるのを感じた。 これは、全く通じてないんじゃないか……
「まあ、いいさ」男はようやく笑い止むと、涙を拭く真似をしながら言った。
「どれだけ似てるかしらんが、こいつのせいで旅に支障がでちゃ困る。
どこへなりとも連れていって、たっぷり調べてくださいよ。 いやそれも面倒だ、
お前、主人にこう何度も説明やら弁解やらさせて一体どういう奴だ。
いっその事、この場でお前を斬り捨ててお仕舞いにしてしまおう、そうだ一一」
「そいつが商人だろうが何だろうがどうでもいいが」
手筈通り彼が、やめてください御主人様、と泣きつこうとしていると、兵士は
平静な表情を崩さず口を開いた。
「お前の方には見覚えがあるぞ。 ……怪我は癒えたらしいな。
アキュリュースの傭兵が、こんな所で何やってる」
あっという間に男は兵士達に囲まれた。 間を縫って先へ進めはしなかったが、
誰も見ていないのを幸い、彼は二、三歩後退ると、静かにその場を逃げ出した。
先程の家並みへ舞い戻ろうとすると、間から誰ともわからぬ影がぬっと出てくる。
「お前、あのアンティノなんだってな」影は低い声で脅すように囁いた。
「リベルダムを売った悪党が」
伸びてくる腕を避け、彼は闇雲に走り出した。 街道から一歩踏み入れれば狭くて
ごちゃごちゃと複雑な迷路と化している。 同じ子ども達が視界を何度も横切った。
出られなくなったかもしれない、と彼は思った。 そんな訳には行かない。
どうしても水の神殿へは辿り着かねばならないのだ。
息が切れる。 再び船着き場へ来てみると、兵士達も長衣の男も姿を消していた。
そこも走り、腕組みする屈強な船員の所までゆくと、彼は船に乗せてくれと頼んだ。
「ああ、いいぞ」船員は快く答える。
「ところでさっき何かもめていたようだが、連れの若い人は無事かね?」
「ああ、奴なら一一」放っとけばいいんだ、と言いかけて慌てて口ごもる。
「奴なら?」
船員は訝しげに問い返す。
「奴……その、そう、奴等に!」彼は必死に取り繕った。
「奴等に連れていかれたんだ、その……私の息子が」
そんな馬鹿な、こんな似てない親子もない、ただの知り合いでも良かったろうにと
咄嗟に思い付いたでまかせを内心後悔しながら、彼はそっと船員の様子を窺った。
「何、息子だと」
船員は忽ち表情を険しくして叫んだ。
「い、いや息子っていってもその、離れて暮しておって……神官服を着てるのは、
あれは趣味で……」
「いや、何、心配せんでいい。 今こっちも人を呼ぶから」
え、え、と彼が事の成行きに呆然としていると、船員は波止場にたまっていた
仲間を呼び集めた。
もはや自分ではどうにもできない。 仕方なく彼は船員達の一番後ろにこそこそ
ついてゆく。 だがこういう時は得てして裏目に出るもので、今も向こうから
ディンガル兵に囲まれた長衣の男が楽しそうに談笑しながら歩いてきた。
最初に呼び止めた堂々とした体躯の兵士とはすっかり打ち解けたようで、互いに
肩を叩きながら話している。
船員達の間には緊張と、今ひとつ納得ゆかず不思議そうな空気が漂っている。
あの野郎、さては奥の手を使ったか、と彼はいまいましげに腕組みして考えた。
やって来る長衣の男は、もう大丈夫、心配ないとでもいいたいのかさも意味
ありげに頷いてみせる。
まさか助けに来たつもりじゃないだろうな、と彼は一層渋面になり、同時に
どう誤魔化そうか焦った。 背中に冷たい汗が流れている。
「いや、緊張したな」
ようやく船に乗り込むと、長衣の男は側に来て言った。
「お前、アキュリュースの傭兵が……裏切るつもりか」
「そんな事はないさ、今もその為に渡る所だ」
「だったら先程は何を話した?」
こいつ、最初からディンガルに雇われていたんだな、と彼は推察した。
どうみても表に立って剣をふるうよりは、裏で仕掛けをする方だ。 こっそり
アキュリュースに渡りたがるのも、両方に顔を知られたくないからに違いない。
長衣の男はうすら笑いを浮かべている。
「そんな事はどうでもいいが、一体あんたは何しに行くんだ」
男はやや強引に話題をそらした。 どうやら自分の想像は当らずといえどもそう
離れてはいないらしい、と彼は思った。
「こういっちゃ何だが、アキュリュースはもうすぐ落ちるぜ、間違いなく」
「俺が水の巫女に、助けを求めに来たとでも思ってるのか」
「いいや、それはないさ。 だがリベルダムからこっち、逃げてくるのは
大変だった筈だ。 隠れようと思うなら、もっと要領のいいやり方もあった
だろうに、あんたはそれをしなかった。
何故だ? アキュリュースには何がある」
答える前に彼は、男の様子を改めて見直した。
思ったより風采のいい男だ。 色白で見るからに病弱そうだが、その割に
鍛えられ引き締まった体つきをしている。 目鼻立ちも整っていて、どちらか
といえば女にもてそうな優男の類いの顔だが、爽やかな風貌の間から、何とも
いえない胡散臭さが漂っている。
「アキュリュースに何かある訳じゃない、アキュリュースの向こうに用があるのさ」
「アキュリュースの向こうだって?」
こいつがディンガルのスパイだとして。 彼は考えた。 船を降りて真っ先に
やっておきたいのは、まず自分を消す事だろう。 正体を知っている者がいるのは
まずいと思うだろうから。
だが残念な事に、こいつの考えそうな事はすぐわかる。
彼は可笑しくなった。
「お前、賭け事に弱いだろう」
「何だ、いきなり」
「わかるんだよ、俺も弱いから。 いい所までは行くが、ここぞという時に負けちまう。
だが、それももうお終いさ。 この先はもう……」
水の都が近付いてくる。 向こうの船着き場で誰かが両手を大きく振っていた。
無事停泊したのを確認すると、彼は歩き出そうとしてふと長衣の男を振り返った。
「そういえば、ひとつ言い忘れていた事があった」
乗客がさぞ邪魔そうに二人をよけつつ通り過ぎてゆく。
「お前を雇ったのは、クリュセイス。
ロティの娘のクリュセイス=クロイスだ。 リベルダムが陥落した際に命を落とした、
哀れな娘さ。 だからな、」
彼は自分の言葉が相手にどんな影響を与えたか、楽しむようににやにや笑った。
「お前の事など、何も知らないんだよ、俺はな」
言い終わるや彼も乗客に紛れ歩き出す。 長衣の男は少しの間呆然とその場に
立ちつくしていたが、ふと自分のやるべき事を思い出し、慌てて追い掛けようとした。
だが、男はすぐにそれもやめた。 一体何を消そうというのだろう。
彼の言によれば……彼は何も知らないのだ。