最初に聖杯を見た時、余り大きくないのに驚いた事をアンティノは覚えている。
だが、その古ぼけた外見とは裏腹に、触れると指先から何か途方もない
力がまざまざと伝わってきた。
「神器は人の心を闇へ落とすというが、」
側に立っていた黒い髪の魔人はくすくす笑うのを止め、こちらを見た。
「どうなんだ、本当は。 俺も闇に堕ちるのか」
「さあ、それはどうかしら」
この上もなく優しい声が、ぞっとする程冷たい微笑を浮かべ答える。
「心配せずとも貴方は十分……醜悪だわ」
禁断の聖杯は持つものに膨大な知識を与える。 盗難にあうのを恐れた
彼はこれを誰にも触らせず、ひとり研究所にこもって実験を続けた。
もっとも、人造モンスターの開発に携わっていた中で、洞窟の
研究所までやって来ようという度胸のある者は皆無に近かったが。
此処はそれ程……暗く、重苦しい空気に満ちている。
目にみえる明るさとは異なる何かが。
けれどもアンティノはこの研究所を気に入っていた。 リベルダムの
豪邸もそれはそれで満足していたが、此処にいると何故か落ち着いた。
私は商人に向いていないのかも知れない、そんな事を彼は部下達に
話した事さえある。
「本来なら好きな研究をじっくり打ち込んでみる性格なのかも知れん」
部下達は表立って何も言わなかったが、陰では顔を見合わせ爆笑していた。
あのアンティノ=マモンが研究者! それはそれは。
彼がロセンや六王国で何をして来たか、知らぬものはなかった。
試しにちょっとリベルダムの路地裏へ入ればすぐに聞く事ができる。
悪評はそれ程根強く、彼が多額の援助をロセン解放軍に行っていると知れても
「何か目的でもあるのかね」と人々はこそこそ噂しあった。
そしてアンティノ自身にとっても実際それは大した問題ではなかった。
彼が表通りを歩けば、逆らう者はいなかったし、懐具合はリベルダム第一の
有力者フゴーには及ばないが、少なくとも他の富裕者層の中では際立っていた。
だから彼がある日、部下を呼びつけロセン解放軍に渡したいものがあると
語った時も、部下達はまた金もうけの算段か位に考えていた。
「まだ研究する余地はあるが、ともかく力は他と比較にならん」
アンティノは満足そうに胸のあたりを押えながら頷く。
「何しろ古の魔人をかたどった怪物だ。 あれを彼らに持たせよう」
古の魔人……部下達は顔を見合わせた。
「おそれながら」ひとりがおずおずと進み出る。
「そのように強力なモンスターでは、扱える者も限られますし、与える
被害も尋常ではありますまい」
「知能はほんの子ども程度だ、心配は要らん。 何より、」
アンティノは部下達の顔を一人一人見比べ、念を押すように言った。
「この怪物が一体いるだけで、ディンガル軍は恐れをなすだろう。
まだまだ僅かな人数の解放軍に、何よりの盾になるとは思わんかね」
反応を待つように上目使いで部下達をみる。
「……お、思います」
「そうだろう。 今はロセンの解放を目指し、ディンガルの脅威を振り払う
のが一番だ。 それがリベルダムの為でもある、そうじゃないかね?」
一一部下達め、揃って顔色を変えていた。
再び洞窟の研究所に戻り、資料を積み重ねた机を前に座ると、アンティノは
くつくつと声をあげ笑った。
ゆらりと、黒髪の魔人が近付いてくる。
「何か嬉しいことでも?」白い顔が部屋の奥をみようとして動き、長い髪が
音も無くはらりと揺れる。
「ああ、あれは新開発の人造モンスターです、アーギルシャイア様」
驚いたのかずっと奥を凝視している魔人に、彼は丁寧に説明しながら
内心その理由を察してほくそ笑んだ。
「禁断の聖杯とは素晴らしい道具ですな、全く。 私のような者でさえも、
労せずに古の千匹の怪物が如何なる素材であるか知る事ができました。
もうすぐ、お望みの究極生物も製造に取りかかれましょう」
アーギルシャイアはそれを聞いても別に喜んだ風も見せなかった。
視線は奥に、一一奥にある檻に閉じ込められた怪物から離れられずにいる。
「……似ているわね」
「どこかで見た覚えでも?」
「会った覚えならね、……あるわ。 貴方もわかっているでしょうに」
ようやく落ち着きを取り戻し、魔人はふふ、と短く笑う。
「確かにあれは破壊神のしもべ円卓の騎士のマゴスです」
アンティノは何気ない風を装いながら注意深く答えた。
「もっとも、その力をそのまま作りあげる事はできませんでしたが」
「まるで人形ね。 何を為せばよいのかもわかっていない」
二人の話し声に気付いたのだろう、怪物はゆらゆらと不定形な身体を
くねらせながら見開いた目をまっすぐこちらに向けている。
皮膚に出来た僅かな裂け目から動く度に薄緑の液体が流れ出し、
怪物はぎゃひ、ぎゃひ、と言葉とも思えぬ声をあげた。
「あれは解放軍に投げ与えるに丁度いい餌となるでしょう。
解放軍は尚精力的に活動しようとし、ロセンにいるディンガル軍も
反乱分子を掃討する格好の理由ができる」
アーギルシャイアは黙ったまま何か考え込むように目を伏せている。
自分の話に興味などまるでないとはわかっていたが、彼はそのまま続けた。
「数日も経てば解放軍は息を切らせ駆け付けるでしょう。 いや普段
彼らが忌み嫌うモンスターに膝を屈し平伏するだろうと思うと今から
楽しみでなりませんな」
「人間は、何の痛みも感じず精霊を殺し、魔法を用いる」
へりくだるような表情には見向きもせず、魔人の目は怪物を離れ、
研究所を離れ、どこか遠くを見通している。
おそらく人間の知らない古の世界とやらを思い出してるんだろうが。
しかし、俺にはわかるんだ、もう。 アンティノは誇らしげに考えた。
そうだ、聖杯の与えてくれた知識はこんなものではない。 必要なら
円卓騎士を幾つも並べてみせる事もできた。
こんな魔人のいうなりになる事もなくだ。 いや今更魔人が己の失策に
気付いたとしても遅すぎる。 人間は、知ってしまった。
闇を現出する為の製法を。
「彼らは、己の憎む精霊に頼るだけでは足りない」
アーギルシャイアは空ろな瞳で語り続ける。
「死ぬべきなのよ、皆ね。 ゆっくりと苦痛を味わって、死ぬべきだわ」
不意に思い出したという様にアーギルシャイアはアンティノを見下ろした。
「そうね、貴方は別よ」口元は笑っている。
「貴方は貴方の造る哀れなモンスターにそっくり。 醜く歪んでいて、
……思わず楽しくなってさえ来る程に」
確かに俺は魔人の言う通りの人間なのだろう。 アーギルシャイアが
去った後も、彼は机の前に座ったまま考えていた。
少なくとも、あの仮面の騎士のように出来ない事は確かだ。
「だが、」思わず口をついて出る。
一一だが、別に後悔はしていない。 彼は今まで造り上げた怪物達の事を
思い出していた。
どれもこれも、俺が込めた憎悪の分だけ、悲鳴をあげた。 鎖で縛られ、
箍にはめられ、だがそれまでの生で気付かぬ内に科せられていた戒めから
放たれ思う存分叫んでいた。
それは負の思いではあったろうが、解放された事実に違いはないのだ。
子を守ろうとしていた怪物は、守る筈の子の頭を噛み潰し、狂喜していた。
目の前にいる薄緑でぶよぶよとした怪物は、気持ち良さそうに右へ左へ
規則的に揺れ動いている。
なあ、楽になるだろう。 アンティノは心の中で話し掛けた。
そっちの方を見出すと、楽になるのさ。 そして箍を外れた欲望は、叶えずに
いられないという重い鎖をつけて喚くんだ。
数日後、リベルダムのアンティノの屋敷に二人の客が訪れた。
「来たか。 通すがいい」彼らが解放軍の幹部である事を知ると、
アンティノは面倒そうに手をふり、部下に命じた。
案内されて来た二人は、慣れぬ屋敷に戸惑っている。
「ここでお待ちください」と言われようやく安心した表情で入ってきたが、
部屋の中央に何の拘束もなく置かれた人造モンスターを目にすると、
顔を蒼白にし立ち止まった。
「大丈夫ですよ、何もしやしません」
アンティノはやってくると至極穏やかに声をかけた。 二人は顔を見合わせ、
少し迷った後おずおずと近くへ歩いてくる。
この二人がこれからこの怪物を連れて帰る事になるのだろう。
アンティノにはその図が見えるような気がした。 普段は怯え、その
醜悪な容貌を憎み、如何に人造モンスターが民を苦しめたか声高に語る。
そのくせ、何かあればいそいそと扉を開け、鎖に繋がれた怪物を
連れ出すに違いない一一腰が引けたままで、顔には焦りと優越感を浮かべ。
普段卑屈な人間が、突然図に乗って横柄に叫び散らすのだろう。
薄緑のぶよぶよした身体を持つ怪物は、伸ばした突起の先に一瞬顔を
覗かせたと思うと、また身体に吸い込まれ別の所から飛び出してくる。
身体を震わせる度、二人は小さく声をあげた。
一一成る程、陽の光の下に晒されると、確かにこやつは見るに耐えん。
怪物は二人にもまるで無関心といった様子でうねうねと揺れ続ける。
覗く顔は目が合った途端、ニイと笑ったように彼には思えた。