風は凪いでいた。 街道を歩いていた時は曇っていた空も今は晴れ渡り、
霊峰トールは悠然とその姿をみせている。 テラネを出て遥か遠くまで参拝者達は
長く連なり、それはまるで蟻の行列にも似てみえた。 実際、わざわざ怪物の巣を
通ってまで行く気が知れないわね、とフェティは思い、柵にもたれ、頬杖をついた
姿勢で彼らを眺めた。 
 セルはギルドに行っている。 レルラ=ロントンはなじみの道具屋まで顔を出して
くると言い残したまま、まだ帰ってこなかった。
 まあリルビーやド下等生物の行方なんかどうだっていいけど。 フェティは
そっと隣の様子を窺った。 
「……何だ」
 同じく木の柵にもたれ、しかしフェティとは逆にテラネの町の方を注視していた
セラは、こちらを見もせず無愛想に言う。
「別に。 ただ静かだ、って思ってただけよ」
「だったら町へでもどこでも行けばいい」もう話し掛けるなというように
セラは 顔を背けた。
「こんな所に用はないわ」フェティはセラの様子には気付かず答えた。 そして、
セルにはじめて会った場所もこの町である事を思い出していた。
 アタクシが冒険者の仲間になるなんて考えもしなかったけど。 
それを聞いた宿屋が真っ先に荷物を放り出してたわね。 面白かった。
顔を真っ赤にして、許せないと頬を震わせてた。
勿論、誰も止めない。 皆、目の前の日常に気をとられていると言いたげで。
一一「それでずっと待っているのか。 暇な奴だ」
「あんたも行きたいのなら行けば? アタクシに遠慮する事はなくてよ」
「俺も此処には特に用が無い」
 そう言ってセラは何かに気付いたように顔を上げたが、また俯き低く笑った。
「考えてみれば、お前と二人きりで居るというのも初めてだな」
「そうだったかしら」
「今までは大抵リルビーがくっついて来ていた」
「道理で、今は間がもたない訳よね」
「ああ、余計な馴れ合いは要らん」
「気があうじゃない」フェティは相手を見もせず言い、思いついて付け加えた。
「だったら今からでも遅くないわ、どこか行ったら?」
「ああ、指図等されずとも行きたい時は行く。 お前はどうせ何もないだろうが」
「あら、アタクシだって別に暇な訳じゃなくてよ。 そうね、行かなくては」
「ああ、自由にどこへでも出かけてくれ。 俺も忙しいんだ」
 しかしフェティは町の外の遠景を眺めたまま一歩も動かず、またセラも一向に
何もする気配をみせなかった。 そして二人共そんな事は重々承知していた。
 遠くを鳥が数羽、群れて飛んでゆく。 ゆったりとしたそれが、遠去かり
見えなくなるまで小さくなって空に消えても、未だ誰も帰らず、誰も通らず、
誰も動こうともしない。
 一体いつまで待たせるのよ。 フェティは軽くあくびをしながら思った。
また洞窟とか迷宮とかどうでもいい仕事を引き受けてくるんだから。 そんな
暗くてじめじめしてて泥だらけになる場所なんてドワーフに任せればいいのよ。
……それとかこういう奴とか。
 今度は気付かれぬよう、視線だけをこっそり隣に向けた。 俯けた横顔に
黒く長い髪が幾筋か流れていた。 今にも口に入りそうなそれに、思わず目が
引き付けられる。 先程までの皮肉混じりの言葉など、もうどこかへと消えて
しまっていた。 暗く闇の色をたたえた瞳は憂いを含んでいて、隣にいるのに
彼方へと思いを馳せているような沈んだ表情は何かこの世のものではないという
感覚を呼び起こさせた。 
馬鹿馬鹿しい。 フェティは一瞬でもそんな事を思った自分を、笑いたくなった。
 ……たかが下等生物じゃないの。 けれど思い直してみても、やはりセラは
どこか他の人間とは違っていた。 騙されている、そんな言葉が胸中をよぎる。
本当は妖艶な魔女なのに、夜露に触れその色を蒼白く変えた清楚な美女。
 (でも髪の毛が口に入りそうだけど)微妙に鼻だか口だかの呼吸で揺れ動く
頭髪に、もう視線が外せない。 
(ああもう取っちゃいたい)フェティは次第に苛立ってくるのを感じた。
全部かかってる位ならいっそ気にならないし、どうでもいいけど少しだけって
いうのは許せない。 ましてあのぎりぎりの、銜えるかどうかの限界の位置。
 ああもうそれって、それって一一
「何をみている」
 冷静な声と共に髪をかきあげ、セラが訊ねた。
「……別に」
 一瞬の間の後、フェティは何事もないように答えた。

 また沈黙が戻り、相変わらず誰の姿も影さえみせず、フェティは何度も
振り返っては町の方へと目を走らせながら口を開いた。
「一体いつまで待たせる気かしら」彫像に向いて話してるのと変わりないわ。
「また手紙の配達とか、護衛とかどっさり引き受けてくるのよ。 全く、
くだらない、くだらなすぎるわ。 これが高貴で優雅なエルフのやる事かしら。
そうかと思えば身も知らぬ人間の口車であっさり古代の怪物退治なんか
請け負っちゃうし。 ティラの娘を倒すために旅について来た訳じゃなくてよ」
 ずっと黙り続けていたセラが、この時はじめて僅かに表情を変えた。
「そうだ、思い出した」フェティは気付かず話し続ける。
「あんたって、誰かに似てると思ってたのよね。 そう、あの一一」
「黙れ」
 ぞっとする程冷たい声が返ってくる。 驚いてフェティが隣をみると、
セラは厳しい眼差しでこちらを責めるように見ている。
「何故? 何かあるの」
 セラは答えない。 相変わらず険しい表情がのぞいている。
「アタクシはただ一一こうして話す事自体嫌なのかしら」
 不意に一時の感情の波が納まったように、セラの表情にも変化が現れた。
目を伏せ、そこには多少とも自責の念が浮かび、軽く唇を噛む。
「別に話したくないというのならそれでも構わなくてよ。 アタクシも
下等生物に時間を割くような寛大な真似はしなくてすむもの」
 いつもなら乗ってくる挑発にもまるで動じない。 自分の言葉が空回り
していると思わされる事が激しくフェティの気にさわった。
「けれど、一一どうして? 何故ずっと黙っているの?」
 苛立ちながらそれでも語調を抑え、問いかける。
「何か言いなさいったら!」
 荒らげた声が空しく響く。 セラは答えず、また町を向いた。 
もう面倒だと言わんばかりのその態度に、フェティは尚怒り、重ねて言った。
「何で黙ってるのよ」何だか自分が止められない。
「どうして答えないの。 今だけじゃない、いつもそう。
答えに窮した時は黙って首をすくめてやり過ごしなさいと教えてもらった?
安いプライド! 自分を守る事しか頭にないんじゃない。
ええ話す事で崩れるような「自分」なら精々大事になさって。 つまらない男ね」
 言えば言う程答えが返ってくると思えず、自分でも何が聞きたいのか段々
わからなくなってくる。 止まらない。
 別にどうでもいいはずなのに。 こんな下等生物の内心など。
いつもの通りにゆかないだけで言動が不安定になるなんて。 有り得ないわ。
アタクシが。 高貴で優雅なエルフである所のアタクシが。
「何か言ってよ!」何故こんな事で叫んでるのだろう。 
「ねえ……」

「おい」何の感情もこもっていないセラの声。
「……何よ」
 意地でも目をあわせようとしないフェティにセラは言った。
「冒険者は群れないものだ。 どこか行っていろ、じゃれるな」
「……全っ然聞こえないわね」
「冒険者は群れるな、じゃれつくな、あっちへ行ってろうるさいぞそして邪魔だ。
もう一度聞きたいか?」
「もういいわよ。 あんたって魔人に似てるわね」
「あっ」不意を討たれたかセラは頓狂な声をあげた。 フェティはほくそ笑む。
「お前……意外といい度胸してるようだな」
「あら、気が付かなかった?」
 フェティの得意げな表情に、セラも思わず苦笑する。
「知っていた。 お前にかかっては、竜王も大きなトカゲなんだろう」
 それからまた無表情に戻り、町の方へと顔をあげる。
「ほら、エルフは忙しいんだろう? だったらさっさと行くんだな」
 今度はフェティが答えず、ただにやにやと笑い続ける。
「……おい、何で行かない」
「アンタの言う通りになんかする訳ないでしょ。 アタクシはアタクシよ。
気が向いたらそっとして置いてあげるわ、高貴で寛容なエルフですもの」
「勝手にしろ」諦めたようにセラは言い捨てた。
「そんなに1人になりたいのなら、アナタがどこか行けばいいのではなくて?」
「俺はお前の指図に従うつもりはない。 ……それに此処には特に用が無いしな」
「本当は行く場所なんてないくせに。 ……アタクシは忙しいけれど」
「その割には暇そうだな。 ……俺はまだ様子をみているんだが」
 少し間があって、ほぼ二人同時に喋り出す。
「素直じゃないわね」
「うるさい奴だ」
 そうして誰も動かない。

 じっとしていると微睡んでしまう、そんな穏やかな風が時折り流れてゆく。