彼は漂泊の旅にさすらい、その最中にとても明るく、そして悲しい詩を歌った。
その奏でる調べに耳を傾けた者は、未だ見た事もない筈の大きく高く広がる
青空の中に立つ自分を感じ、その高く澄みわたる歌声に心を奪われた者は、
古の巨大な竜と英雄の物語を眼前の出来事の様に錯覚するのだった。
もう少し歌っていて、と別れを惜しむ声に吟遊詩人は微笑する。 けれど次の日に
その姿を探しても、もう見つける事はできない。
彼はとっくに街道を軽い足取りで歩いている。
「渡り鳥のようだね?」いつかからかい気味に問われた言葉に、彼は首をふった。
鳥は、旅の果てに暖かな巣を作り、雛を育て、また居住地へと戻る。
「僕はどこにも向っていないんだ」
かつて営まれていた巣は旅のどこかで置いてきてしまった。 ひとつ所に留まり
繰り返される日常の中に見出す歌もそれはそれで悪くはあるまいと彼は思う。
だが、三日と置かぬ内に早くも彼を呼ぶ風が吹きはじめる。 いつしか誘われる
ように外へと出て、目を閉じて風の中に流れる歌に耳をすませていた。
吟遊詩人は荒野に立ち、その歌を形にしたいと声を震わせる。
隣で黙々と食事をとる者がどんな素性なのかわからない、知らない方がいい
街道沿いの宿で、彼は喧噪の中さまざまな光景を目にする。
曰く、風泣きの洞窟に出た怪物が強くて倒せない、テラネで冒険者が騒ぎを
起こしたらしいよ、そうだ、今朝がたロストール出てきたんだけどね。
何でも大層なお宝が盗まれたってさ、竜教神官共が青くなってた。
ロストールか。 突然モンスターが広場に出てきたとか聞いたが、それかい?
いや、それもあったけど、ええと何だっけな……
あ、そうだ聖杯。 確かそんな話だよ、大切に封印されてた聖杯が盗まれたって。
「それって、伝説に出てくるあの聖杯のこと?」吟遊詩人は話に割って入る。
「それを手にした者は膨大な知識を手中にする、神器のひとつだろう?」
「良く知ってるなあ」旅人は人の良さそうな笑顔で感心する。
「多分その何とかって神器だと思うよ」
「どんな奴が盗みだしたんだろう」吟遊詩人は目を輝かせる。
「市井に名を知られた大泥棒? それとも歴史の裏舞台で暗躍する影の存在?」
「いや、それがどっちでもないよ。 俺も驚いたがね」
旅人はさも驚いたとばかりに目を丸くした。
「盗んだのは何と、三匹の小狡いゴブリン共だって話さ。 奇妙な事もあるもんだ」
「ゴブリンが? 信じられない!」
吟遊詩人は思わず叫ぶと、振り返った旅人達が彼に気付き仲間に耳打ちする。
「なあ、一曲やってくれよ」誰かが声をかける。
「いいよ、何演ろうか」吟遊詩人は立ち上がり、もう一度旅人にささやいた。
「後でもっと詳しく聞かせてくれる? 聖杯が盗まれたって、大事件じゃないか!」
つかの間の休息の時も終わり、また歩き出す道の先には深い森がみえている。
それが誰も立ち入る事のできぬ結界の向こうに居を構えた賢者の住む森である事を、
吟遊詩人は忘れた訳ではなかった。
今はほんの裾野を歩いているが、ひとたび迷い込めばそこには何が待つか一一
「あっ……!」すぐ目の前の古木の向こうに、誰か立っている。
吟遊詩人は慌てて両手で口を押さえた。
遠くに居ても思わず目を奪われる美しい女性だ。 けれど、その血の気のまるでない
白い肌、目に宿る異様な輝き、どうみても普通の人間ではなかった。
何より……吟遊詩人はそっと背に負っていた弓を取り出した。
相手は自分に気付いていない。 しかし、一度視線が自分に注がれたら……
「おかしいわね、此処を確かに通っているというのに。 ねえ、サイフォス?」
女性は一緒に居る仮面を着けた騎士に問いかけた。
「いえ、まだ居るようです……微かに闇の気配を感じます」
「そう?」女性は軽い口調で言い、それからこちらを向いた。
それは確かに美しい顔だった……血を流したかのように鮮やかな朱の唇が
妖艶な笑みを浮かべている。 吟遊詩人は思わずぞくりと震えた。
見つかりませんように、見つかりませんように。 祈りながらその場を離れる。
走るとみつかってしまう。 けれど振り返るとすぐそこにあの笑顔がある気がした。
気力をすり減らすように逃げ続けた後、たまらずに彼は振り返った。
誰の姿もなく、道さえもみえず、ただ奥へと無気味に暗い森が続いていた。
幻のような? いや、そんな事はあるまい。 普通の人間ではなかった。
かといって大陸に存在する、他のどの種族とも違う。 人の形をしていて、動き
話しているのに、何故だろう、死と虚無の香りが漂っていた……
がさりと音を立てて、彼の目の前を影が走る。 吟遊詩人はそちらを向いた。
大きな頭と不釣り合いなか細い手足、小鬼のようなモンスター達が3匹、
ころつまろびつ逃げてゆく。
「あっ」彼は思わず声をあげた。 あれが例のゴブリンに違いない。
彼は慣れた道を駆け出し、後を追った。
エンシャントの酒場。 旅の途中で訪れた旅行者らしき客が数人、
席を囲んでいる他はがらんとしていて静かだった。
吟遊詩人はそこのカウンターの端に、見知ったドワーフ族を見つけると
にこりと笑い、隣に座った。
「今度は帝都の酒に鞍替えかい、デルガド?」
「ふん、わしゃちょっと旅のついでに寄っただけじゃ」
名を呼ばれたドワーフは首をすくめて答えると、ちらりと相手を見た。
「また新しい歌でも思い付いたか、嬉しそうな顔しおって」
「歌になりそうなもの、だよ」吟遊詩人は勢い込んで言った。
「ううん、これは僕の勘だけど、絶対何かはじまってるんだ。
思わない? あの地震からこっち、世界が変化をはじめてるって」
デルガドは顔をあわせず、ただ目の前の酒杯を取り上げた。
「思わんな」一言答えると、また黙って口をつける。
「本当だよ。 現に僕は一一ねえ、聞きたい事があるんだけど」
吟遊詩人は丁度目の前に来た主人を捕まえて問いかけた。
「ここの店に、人間の言葉を喋るゴブリンが来なかった?」
「その質問なら、これで3度目だよ」主人はうんざりした様に天井を仰いだ。
「最初はえらく威勢のいい女剣士、次は無愛想な男とやたら調子のいい子ども、
次があんただ。 ……で、答えを言うと、来たぞ。 そのゴブリン」
「本当?」吟遊詩人は飛び上がった。 「ね、いつ来たの? どんな様子だった?」
「確か二番目に聞いてきた奴等がいた時だぜ、丁度その話してた時に店に
入ってきたんだ。 まるで普通の客と変わらない感じでさ、そこに立ってて」
「そうか。 で、まだエンシャントに居そうかな。 何か言ってた?」
「いや、もういないだろ。 その二人組に会って慌てて逃げてったから」
「お前、そのゴブリン達をどうしたいんじゃ」
それまで黙っていたデルガドが横合いから口を挟んだ。
「何がしたいのか知らんが、そんな変わった連中を捕まえた所で、見せ物にでも
するしかないと思うがな」
「捕まえたい訳じゃないよ」吟遊詩人は微笑んだ。
「僕は、ただ歌を作りたいだけなんだ」
「ハ!」デルガドは大仰に驚いてみせた。 「そりゃ大層な事だな」
再び町を出て街道を歩く。 道が別れている所で彼は進路を北に取った。
自分の左手には常に狭い川が流れている。
ゴブリン達が逃げたのならこの方向である筈だった。 南は先程彼自身が
通ってきた賢者の森だし、東は鎖国しているロセンを無事通過しても、遥か
大陸の果てのウルカーンまで灼熱の火山岩地帯、恐ろしい怪物が多く巣食う
森の中の道を進まなければならない。 西の道は比較的楽だったが、
アキュリュースの先は難所が続いている。
ここから北の小さな町テラネまでは数日の距離で、しかも間にはこれといった
危険な箇所もなかった。
見つかれば勿論良いのだけれど。 吟遊詩人は考えていた。
言葉を話すゴブリン達、彼らが盗んで逃げたという聖杯、森で会った妖艶な美女、
酒場で話を聞いたゴブリンを追っている者達……すべてまだ物語を彩る
ばらばらな要素にしか過ぎないけれど、これを大きな歌にまとめあげる何かも
きっと存在していて、それはまだ見えていないだけなんだ。
追ってゆけば必ず見つかる。 追ってゆけば……
突然、吟遊詩人は立ち止まった。 辺りには無数の裂傷を負って倒れている
冒険者と思われる死骸が幾つも横たわっていた。 尋常な事態ではない事は
明らかだった。
「魔法……か」でもそれにしても威力が大きすぎる。 彼がしゃがんでもう少し
詳しく調べようとした時だった。 背後で甘い声がした。
「何か探しているの? 吟遊詩人さん」
振り返らずとも声だけで賢者の森にいた妖艶な美女だとわかった。
「お、お前は」彼は声が上ずるのを必死に抑えて言った。
「普通の女じゃない。 そうか……魔人、だな。 聖杯を追っているんだ」
「あら、子どもなのに色んな事を知っているのね、ふふ。 お利口さんねえ」
「子どもじゃないぞ。 この人達を殺したのもお前か」
「そうよ。 少しはこの道も綺麗になったかしら。 どう? ええと一一」
「クリスピーだ」彼は余計な身動きはせず、きっぱりと答えた。
「そう、如何にも此処であっさりと殺されそうな名前ね。 ……そうね、
確か宿場町の食堂でもずいぶんと聞いていたわね。
見つかった? あのゴブリン達」
「それじゃ、やっぱりお前は聖杯を狙ってるんだな。 でも残念だね、彼らは
どうやら別の道を行ったようだ。 見つからないよ、きっと」
「残念ね」魔人は彼の肩にそっと手を載せた。
「でもいいわ、仕方ないもの。 その代わり、ゆっくりと殺してあげる」
低く呟くように流れる呪文と共に、甘い香りが漂ってくる。
「怖い?」
「怖いもんか」彼はすぐに答えた。
「僕は吟遊詩人だからね、今もこの情景をどう描写したらいいか考えていた所さ。
一片の雲さえない薄い青空の下で無惨に切り刻まれた死体は朱に染まり倒れている。
吟遊詩人は傍らに佇み一一」彼は急に膝をついた。
「……それで?」甘く、眠りに誘う音楽のような声。
「彼は目の前が少しく暗くなるのを感じた。 ゆっくりと手足の先が痺れ、
それは徐々にしかし確実に範囲を広げてゆく。 身動きすらままならず、ただ
黄昏から夜の闇へと変わりつつある世界をもう一度みようとして顔をあげると、
そこには死の女神が優しく冷たい微笑を浮かべ手を差し伸べていた一一」
吟遊詩人はゆっくりとその場に倒れた。 横たわったまま、まだ微かに
声は聞こえていた一一「このまま、もう歌う事も叶わず、ただこの時を如何に
歌うかそれだけを考え続けながら……」
魔人は少しの間待った。 そして彼がもう動かないでいるのを見てとると、
嘲笑うように「あら、これで終わりなのね」と言い、姿を消した。
「終わりじゃないさ」
魔人が消えたのを確認すると、吟遊詩人はむくりとその場に起き上がった。
「リルビー族は毒や麻痺なんかには滅法強いからね」
彼は服についた汚れを払いながら、誰かに説明でもするように言った。
「そう、終わりじゃない。 終わりでなんかあるもんか。
……やっぱり、面白くなって来たぞ」
テラネの道具屋ではなじみの主人がひまそうに棚を磨いている。
「せっかく助かったんだから、命を大切にしたらいいと思うがね、クリスピー」
「その名前はやめだよ」吟遊詩人は真剣な面持ちで訂正した。
「壮大な物語は多分もうどこかで始まっている。 冒険に出るなら
僕だってその彩りになるような華やかなのが欲しいんだ」
「冒険ねえ。 そういやベテランの冒険者でもあるもんなあ」
「ああ。 だけど本当に冒険するのは僕じゃない」
吟遊詩人は遠くを見るような目つきになった。
「考えてたんだ。 ゴブリン達、聖杯、魔人、それをおう人間達……
誰かいる筈なんだよ。 物語を僕の眼前に広げてくれる可能性を持った誰かが」
「確かに居るかもしれないが、そう都合よく会えるかねえ」
「会えるさ、その為に僕は謎を追って旅に出るんだ」
広場の向こうから新来の冒険者達が歩いてくる。 片方は黒髪の厳しい表情を
した剣士で、あの魔人にどことなく似ていた。 もう一人は手に拳具を付けていて、
何もないのにニヤニヤ笑っている。 二人連れのその冒険者の様子を観察しながら、
吟遊詩人の目にはふと喜びの色が浮かんだ。
「そうさ、会えるよ」彼は上の空で喋り続けた。
「……きっと、どこかへ行く旅をする誰かに」